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エブリスタでショートショートが優秀作品に選ばれました!と思っていた矢先、英語で電話するというチャレンジで撃沈するという悲劇。

まったく本を読まないアホな後輩に対し周囲は「本を読んだら成長できるよ」とアドバイスするのですが、本をめちゃくちゃ読んでいるにも関わらず、とてつもなくアホな後輩がするそばにいるという事実が、「本を読んだら成長できるよ」のアドバイスの信憑性を薄めるどころか、詐欺にすら感じはじめた今日この頃、皆さん、いかがお過ごしでしょうか。

さて。

エブリスタのコンテストで優秀作品に選ばれました

先日、結果発表されたエブリスタの超・妄想コンテスト『テーマ:あの子がいなくなった』にて、『転校生』という作品が、優秀作品に選出されました。ここのところ、コンテストに選ばれる機会から遠ざかっていたので、久々の入選に「書いてて良かった感」が舞い戻ってきました。

ただ、大賞を穫れたわけでは決してなく、まだまだ上には上がいるということ。大賞より下の賞をいただいた際は、「少なくとも、やってることは間違ってなかった」という方向性の答え合わせの感覚に近いものがあります。

あと、小説っていう世界はエンタメの中でも「小説好きのためのエンタメ」という立ち位置が色濃くて。たとえば漫才の場合、M-1で優勝すれば、世間的な認知度はとても高まります。で、認知度が高まった状態で、レベルの高いパフォーマンスを継続することで、人気度のアップにもつながります。

が、小説の場合、そこまで小説を好きじゃない人(まったく読まないわけではないが、熱心に読むほどでもない人)に対し、「今回の直木賞受賞作家って知ってる?」と尋ねてても、基本的には「NO」という返事が返ってきます。

これって決して悪いことじゃなくて、たとえば今年、日本武道館でライブをしたアーティストのすべてを世間が知っているかというと、今や多くのアーティストのことを世間は知らないという現状。それだけエンタメが細分化し、「刺さる人に刺さる」ことで世に名を残すことができる、可能性に恵まれた時代になりました。

そんな時代の勝ち方は、「いかに自分というジャンルを創るか?」「いかに自分のルールで勝負をするか?」が重要になってきます。今、自分が世の中でどういう存在になっているか、希少性はあるのか、というのを見極めながら活動するのは、とても重要なことだと思うわけです。

と、細かいことを言っていますが、やはり作品が入選するのはほんとに嬉しいものです。

1日でも早く大賞を獲得できるよう、「自分にしか書けない作品」というものにこだわりながら、作品を書き続けたいと思います。

不慣れな英語での電話で撃沈するという悲劇

エブリスタの受賞で浮かれているところ、そんな浮かれムードを吹き飛ばすような悲劇が起こりました。

海外に向けてエンタメを発信していこうと、日々、英語の鍛錬を続けているわけですが、そんな折、フェイス トゥ フェイスのコミュニケーションではなく、イギリスの方と電話でコミュニケーションするという機会が訪れました。

個人的に、英語での電話には、めっぽう自信がありません。というか、そもそも人生で1度しか経験したことがありません。なので、「電話は厳しいかもねぇ……」と渋ってはみたものの、「大丈夫、大丈夫!」と押し切られてしまい、やってみることに。

結果は撃沈。

対面でのコミュニケーションなら、特に不自由なく延々と会話できるようになった自分の能力を過信していたその虚無な自信が、ベキベキにへし折られてしまいました。

聞き取れない。喋れない。無言が続く。間がもたない。気まずい。消えたい。消えたい。この場から消えたい。

直接会っているときの会話ってジャムセッションのようで、仮に間があいたりしても、ギターが入ってきたりベースが入ってきたり、時にはドラムのフィルインが入ってきたり、とにかく共同作業で会話を盛り上げようという力学が働くもの。

ところが電話の場合、卓球の試合のように、相手が打つ、自分が打ち返す、それを相手が打ち返す、そしてまた自分が打ち返す。というように、規則正しく会話のラリーを続けなければならない、という特性があることに気づきました。

なので、自分のラリー、要するに自分のターンでは、ギターもベースもドラムもジャムってくれることはなく、ただひたすらに、自分の1音が待たれる、という状態になってしまうわけです。

なので、聞き取れない、表現が見つからない、単語がわからない、などなどの空白ができてしまうと、ライブ会場がシーンとなってしまい、無音の状態が続いてしまう。その状態を漢字2文字で表すなら、地獄、といったところでしょうか。並のサウナじゃ追いつかないほどの汗が大量に吹き出しましたよ、ダイエットにはちょうどいいのかも。

果てしなく気まずくなってしまった電話での会話。その後、当のご本人と直接お会いする機会があったのですが、やっぱり会えば会話が弾む。何時間でも喋っていられる。コミュニケーションにはさまざまな形態がある、ということを思い知らされました。

海外の現実に対し、自分には何ができるのか?

日本という恵まれた国で、恵まれたツールを駆使して、恵まれた語学学習環境やらビジネスの環境を整える。そして挑む。そんな活動を続けている折、諸外国の現実、というものに触れる機会が多くなってきました。

まだ、直接目にしたわけではないため、リアル、なんて言うとおこがましいのですが、事実や真実を知るという行為も、無関心に比べると立派に「触れる」ことだと思っています。

諸外国の貧困、子どもたちの貧困、スラム化する街、子どもたちも犯罪に手を染めなければならない街の環境。

自分が普段生きている中ではぜったいに出会わない光景。そういったリアルが世界中には数え切れないほどある。今、自分が、どれほどに恵まれた環境で息をしているのかを思い知らされる。

たとえば外食をするとき。ついつい注文し過ぎたからと、食べ物を残して帰る。世の中にはお腹をすかせている子どもたちがたくさんいるのに。と、それを咎めるセリフは良く耳にします。

ただ、思うわけです。ここ日本で、僕らが食べ物を食べ切ろうが残そうが、あの子どもたちには届かない。あの子たちを思ってか思わずしてか、ちゃんと食べ切ったよ、なんて気持ちは彼ら彼女らには届かない。残した食べ物が行き届くこともない。

確かに、自分の倫理観の中で「清く正しく生きる」ことは素敵なことなのかもしれない。でも、世界中に点在する悲しい現実に、僕らの気持ちは届かない。行動しなければ、決して届くことはない。

なので、食べ物を食べ切ることを、「貧困に苦しむ人たちへの免罪符」とするのではなく、食べ物を残すことを、「彼ら彼女らに申し訳ない」なんてキレイ事として片づけてしまうのではなく。自分には諸外国の現実に対し、何ができるのだろうか。気持ちを届けるのではなく、貧困を生む仕組みに対し、それを変えられるきっかけとなる何か、何ができるのだろうか。

感情が優先されがちな諸問題に対し、行動を優先していこうと決意する日々なのでありました。

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