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東京大学2001年国語第4問 『言葉の重力』岡部隆志

 東大は2021年度国語第4問の「出題の意図」に、「行間が雄弁な文章なので、表面的な読み取りでは太刀打ちできません。『拙』の語に込められた万感の思いをどこまで丹念にくみ上げ、心情という一見曖昧模糊とした領域で明確な理解を組み立て、適切なことばでそれを表現できるかどうかが問われます。豊富な語彙を自在に操れるだけの読書量が要求されているともいえるでしょう。」と書いた。
 つまり、本文に忠実なだけでは不十分で、行間を読み取り、自分の語彙を駆使して解答を作成することを求めることがあることを明確に示しているのだ。
 そうなると、問題はどこまで本文の言葉を忠実に採用するか、反対にいえば、どこまで文中にない言葉で言いかえるか、そして、どこまで文中に書かれている内容の範囲内で解答を組みたてるのか、反対にいえば、どこまで行間をくみとって解答に盛りこむのか、ということである。
 どこまでが「踏み込み不足」で、どこからが「勇み足」になるのか。東大は模範解答を公表していないため、その確実な答えは存在しない。
 本問ではなるべく問題文に忠実に解答をつくったつもりである。それは、本文中の言葉と内容によって十分に解答を構成できると理解し判断したからである。

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(一)「この携帯を通した会話というものは独り言の掛け合いなのではないか」(傍線部ア)とあるが、筆者はどうしてそのように判断したのか、説明せよ。
 第3段落には「会話の中に特に伝えたいことを強調するポイントがない」「ただ自分のことをとりとめなくしゃべっているだけという印象」とあり、独り言の文について書かれた第6段落と第7段落には「何かを伝えようというメッセージ性はない」「相手の反応を確かめながらの言葉でもない」「携帯電話で自分のことをとりとめなくしゃべるその言葉と基本的に同じ」とある。
 傍線部アには独り言の「掛け合い」とあるので、上記のような言葉を互いに言いあっていることになる。
 以上から、「その会話には互いに伝えようとする内容も相手の反応を確かめる言葉もなく、自分のことをとりとめなくしゃべっているだけだったから。」(62字)という解答例ができる。

(二)「私を不自由なものへと縛り付けているのも私の文体なのだ」(傍線部イ)とあるが、なぜそう言えるのか、説明せよ。
 まず、第8段落に「こういう独り言のやりとりに参加できないことに、何か不自由である自分を感じ取る」とあるので、「独り言のやりとりに参加できないこと」を不自由だと感じていることがわかる。
 実際、傍線部に続いて、「時々、こういうふうにとめどなく自分のことを相手に独り言のようにおしゃべりできたらどんなにいいだろうかと思う」と繰り返し述べていることからも、筆者はこのようなやりとりを全肯定しているわけではないものの、そのような自由気ままになコミュニケーションに一定の解放性を見出してもいることがわかる。
 その理由については、傍線部の直前に「言い換えれば」とあるので、その直前の文章を読むと、「それ(文体、思想)は私が私の固定した私の世界を他者に無理強いするものであり、多義的で流動的なこの現在の世界から私を閉じてしまっているものでもある」とあることから、この文が相当することがわかる。
 以上をまとめると、「固定した自分の世界を他者に強いる文体によって、自分も多義的で流動的な世界から排除され、独り言のやりとりに参加できないでいるから。」(64字)という解答例ができる。

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