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井上智公
2020年12月12日 18:12
《ある意味では、党の世界観の押し付けはそれを理解できない人々の場合にもっとも成功していると言えた。どれほど現実をないがしろにしようが、かれらにならそれを受け容れさせることができるのだ》(ジョージ・オーウェル『一九八四年』)
2020年12月9日 18:43
《自由とは二足す二が四であると言える自由である。その自由が認められるならば、他の自由はすべて後からついてくる》(ジョージ・オーウェル『一九八四年』)
2020年12月7日 18:33
《未来へ、或いは過去へ、思考が自由な時代、人が個人個人異なりながら孤独ではない時代へ――真実が存在し、なされたことがなされなかったことに改変できない時代へ向けて》(ジョージ・オーウェル『一九八四年』)
2020年11月12日 17:47
《「誰もものごとの結果に対して責任を取ろうとしないことに、うんざりしているんだ。何か問題が起きれば、それはぜんぶシステムのせいにされる。でも、システムがそうなったことに責任がある人間が、誰かいるはずだよ!」》(マルク=ウヴェ・クリング『クオリティランド』)
2020年9月1日 02:32
《この頸と脚首を二匹の青鬼赤鬼に預けることができたら! そしてタオルか洗濯物をしぼるように、このぼきっぼきっと鈍い音をたて続ける肉体を、力まかせにしぼって欲しい! もしそのような鬼があらわれたならば、その青鬼赤鬼の褌を一生洗い続けてもよいと男は風呂の中で空想したほどだ》(後藤明生『隣人』)
2020年3月17日 01:46
《「反日常」的な「異常」を、一見「平凡」な「日常」の形に「異化」する方法は、日常そのものを、そういったグロテスクなファンタジーの構造に組立てる方法だったと思う。ファンタジー(幻想的な世界)は、別にわれわれの生きている「日常」の外側に、別な世界としてある必要はない。「日常」の世界の事物(人間)と事物(人間)との関係、組合わせ、配列というものを一つの構造としてとらえ直してみれば、「日常」そのものがすな
2020年3月17日 01:37
《『変身』は、悪夢小説といわれているとしても、決して夢を書いたものではない。しかしそこには、夢の方法が用いられている。つまり『変身』は、夢を書いたのではなく、夢の方法によって書かれているわけだ。夢の論理によって書かれた現実なのである》(後藤明生『笑いの方法――あるいはニコライ・ゴーゴリ』)
2019年6月30日 21:17
《「あいつは自分でだめになっているんだ。もし、お前がそれをとめようとしたってできっこないな。これからあとで俺があの女を捨てるとすると、すごくだめになったみたいに見えるだろう。だけど、あいつがお前を好きになるとすると、そいつはたちまちのうちに回復するな。ほとんど以前と変らないぐらいにだよ。ところがだ、あいつはそこであらためてだめになる。自分でだ。それに、倍も早くだよ。そうしたらお前は、もう我慢できな
2019年4月18日 15:22
《感謝というのは、時と場合によっては、物乞いだ》(ローベルト・ヴァルザー「タンナー兄弟姉妹」)
2019年4月18日 15:20
《ねえ、わたし、勘違いというのが大好きなの、あなたも同じで、勘違いが好きに違いない、わたしにはわかるわ》(ローベルト・ヴァルザー「タンナー兄弟姉妹」)
2019年4月8日 13:25
《まだ自分自身、何者でもないといっていいあなたが、同じように何者でもない人を嘲る理由なんてありはしないわ。自分も運命と闘っている、他の人もその人なりのやり方で闘っている、それでいいじゃない》(ローベルト・ヴァルザー『タンナー兄弟姉妹』)
2019年4月5日 20:45
《『大きな世界』っていうやつは、兄さん、なんて大きくないんだろうね!》(ローベルト・ヴァルザー『タンナー兄弟姉妹』)
2019年3月29日 15:01
《「本当に申し訳ありません」男は名刺を差し出しながら言った。「さいわい、保険に入っていますので」「それで片がつくとでもお思いで? それで片がつくとでもお思いで? それで片がつくとでもお思いで?」》(ディーノ・ブッツァーティ「現代の地獄への旅」)
2016年4月16日 00:14
《床にこびりついたチューインガムでも剥がしているのだろうか、と思って目を凝らしてよく見ると、男は電気剃刀で、床の一部に生えたヒゲを刈っているのだった》(多和田葉子「光とゼラチンのライプチッヒ」)