友井蒼子

文字を読んだり書いたり直したりしている人です。

友井蒼子

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最近の記事

自分に見えないその色は、どんなに美しいのだろうか

自分の魅力などというものは、自分にはわからなくてもよいのかもしれない。 ……と、最近は思います。 もちろん、自分の魅力を知っていることは素晴らしいことだし、自分で自分のどこかしらを「好き」「素晴らしい」って思えるのは、それ自体がとても素晴らしくて幸せなことだと思うんですが。 自分の魅力に気付きましょう、みたいな言葉はたくさんあります。わたしも何度かそんな文章を書いたような気がします。 でも、そういう言葉がすーっと目の前を通り過ぎていくだけで、むなしい気持ちになることだっ

    • ありのままで愛されることはもちろんできるけれど、ありのままって「今の自分」ってことではない。

      ありのままのあなたでいいんだよ、という言葉が多くなった気がします。 世の中の言葉の割合的に。ありのままでいいよ、ありのままで愛されよう、ありのままで愛してくれる相手と云々。 わたしもね、そう思う。ありのままでいいんだと。 でも結構「ありのまま」っていう言葉を都合よく受け取ってしまって逆に苦しんでいる人も見る。 都合よく受け取ると逆に苦しくなるって、一見不思議だけどよくよく考えると納得がいくと思う。 あのね、たぶん「ありのまま」を勘違いしている人は案外多いんじゃないかと思い

      • わたしが死んでも葬式はしなくていいよ、とは言えなくなった

        お葬式って、大変です。 まず、死が突然にやってくるから。 どんなに予感していても、どんなに前兆があっても、やっぱり死は突然です。手帳の中に誰かの死の予定を書き込むことはできない。 埋まっている日常をかき分けて割り込んでくる、死と葬式。 わたしはむかし、「わたしが死んだら葬式はしなくていい」って言ってました。迷惑かけずに死にたいって思っていたからね。 でもそう言えなくなったのは、葬式って故人のためのものじゃないんだなぁって思うようになったからです。 *** 葬式って、残

        • 誠実さっていうのは、「なんでも隠さず話す」ことではない。

          むかしは、なんでも隠さずに話すことが誠実なんだと思っていました。 でもね、いまは秘めておくこともまた誠実さの一つである、と思います。 嘘をつく必要はないんです。ただ秘めておけばいい。 相手になんでもかんでも自分のことを背負わせる必要はないから。 *** 人と関わるうえで、その人と仲良くなっていくうえで、一定以上の自己開示は必要だと思います。もちろん。 自分を何も見せずに相手のことだけ見せてもらおうっていうのは、それはあんまり誠実じゃないと思うし、ちょっと難しい。自己開示

        自分に見えないその色は、どんなに美しいのだろうか

        • ありのままで愛されることはもちろんできるけれど、ありのままって「今の自分」ってことではない。

        • わたしが死んでも葬式はしなくていいよ、とは言えなくなった

        • 誠実さっていうのは、「なんでも隠さず話す」ことではない。

          頭でっかちな自分に、いつも言い聞かせていたいこと

          わたしはね、根っからの頭でっかちなんです。 考えることが好きといえば聞こえはよく、逆に言えば脳みそとばかり遊んでいるともいえる。 そんな自分に、ことあるごとに言いたくなることがあります。 それはね、「思考はツールの一つだよ」ということです。 脳みそが活発だと、なんだか「考えること」が本体な気がしてしまうことがあります。考えることが本体で、考えていれば世界を捕捉できるような気がしてしまう。でもね、世界との関係性を深めたいなら、絶対に「世界と関係性を持たなければならない」んで

          頭でっかちな自分に、いつも言い聞かせていたいこと

          世界一幸せなわたし、世界一幸せなあなた

          昨日の深夜、髪の毛を乾かしながらテレビを見ていたら、女の人がこんなこと言っていたんです。 「世界で一番幸せになってね。わたしは二番目でいい。一番はあげる。」 いまからこのロマンチックをぶち壊すようなこと言っちゃうと思います。先に謝ります、ごめんなさい。笑 この言葉がしっくりくるかしっくりこないかって、実はすごく大きな違いだと思っています。 ちなみに昔のわたしはそのセリフにすごく移入できる世界に住んでいて、今のわたしは全然そうじゃない世界に住んでいます。 わたし、これに

          世界一幸せなわたし、世界一幸せなあなた

          一瞬を追い求めるって、なんか麻薬みたいだね。

          むかし、当たり前のように思っていたことは、「何かを得れば満足する」ということ。当たり前のように持っていた欲求は、「何かを得たい」という欲求。 大人になるまでは、現象として何かを得るっていう体験がとても多かった。多かったというか、絶妙に適切なタイミングで「得る」が起こるように、いろいろなものが配置されていました。 例えば、試験とか。運動会とか。成績表とか。結果、という形でいろいろなものを得る体験がある。それから、子供のうちはわりと強制的な環境の変化もたくさんある。つまり強制的

          一瞬を追い求めるって、なんか麻薬みたいだね。

          美しい音を奏でる人は、心も美しいのか

          わたしね、自分の持っているものは「偶然もらったギフト」で、相手が持っているものは「相手の努力の成果」だと思うことにしているんです。 それが実際どうなのかはどうでもよくて。事実かどうかなんてどうでもよくて。笑 そう思うことで、自分自身は驕らず謙虚でいられるし、相手にへんてこな嫉妬しないし、わたしも頑張ろうって気持ちになるから。 わたしの座右の銘、「人生は 運と相性 あと気分」なんですけど。 どうやって物事を捉えたら自分がどういう気持ちになれるかって、結構大切です。運と相性は

          美しい音を奏でる人は、心も美しいのか

          時短していいところ、時短で捻出した時間をあてたいところ

          現代人はとっても忙しい。 忙しい理由はたくさんあるんですが、それは役割分担の社会からオールラウンダーの社会になったからかなという気もします。 核家族社会になって、一人が背負う役割が増えた。とか。 女性の社会進出とともに、女性と男性の役割が”どちらにも”求められるようになった。とか。 技術が発達して、道具やテクノロジーを使うことで誰もがいろいろなことをできるようになった、とか。 原因を探せばキリがないです。でも、それと同じくらい「時短」という概念もできてきて、いろいろなもの

          時短していいところ、時短で捻出した時間をあてたいところ

          ストレスのない人生はすばらしいのか?

          言葉ってあいまいだから、伝言ゲームの間に意味が変わってしまうことはたくさんあります。 たとえば、「ストレス」っていう言葉。 ストレスって聞くと、きっと真っ先にあんまりよくないイメージが浮かぶんじゃないかなと思います。言葉にはイメージがくっついていることがよくあって、なんだか心地よく感じるイメージと、あんまりよくない感じがするイメージがあると思うんですが。ストレスってどうしても、あんまりよくない感じがしませんか。 ストレスの原因から離れましょう、ストレスのない生活をしましょ

          ストレスのない人生はすばらしいのか?

          過去の自分を貶めない

          知識であったり精神であったり人生であったり、対象はなんでもいいんですけど。 何かを探求していると自分はどんどん知見を広げていくように感じるので、過去の自分が劣っているように見えることがあります。 でも、わたしは生きるうえですごく気を付けたいと思っていることがあります。 それはね、どんなに成長したとしても、どんなに知見が広がったとしても、過去の自分を貶めないということです。過去の自分を劣ったものだと見なしたり、さげすんだりしないということです。 *** たしかに、自分の過

          過去の自分を貶めない

          「自己肯定感」って、ちょっと字面に違和感があるのです。

          自己肯定感、という言葉が狂ったように使われるようになった。気がする。 わたしにしてみれば、どうもこの言葉の並びが納得いかないんですよね。笑 本来あるべき「自己肯定感」が示す本質と字面が、なんだかちぐはぐに感じるんです。 *** 一言で言うと、自己肯定っていうのは、「自然に生きる」っていう、ただそれだけなんです。自分を否定したり、自分を嫌悪したり、自分をさげすんだり、そうやって自分の価値を貶めるようなことをせず、ただ自然に生きるっていう、それだけの話。 「自己肯定」って

          「自己肯定感」って、ちょっと字面に違和感があるのです。

          自分が作り出せるコンテンツは有限か

          持って生まれたものを減らして生きているのか、何もないところから得て生きているのか。 「もう書くことがない」って、あり得るんだろうか。 わたしはもともと毎日更新は掲げていなかったのですが、期せずして(?)100日以上は毎日更新を続けていました。 今も、多少noteを留守にする日もあるけれど、わたしは紙の日記もつけているので、まったく何も書かない日はないです。きっとnoteをやめてもどこかに文字を書いているし、脳みそは毎日進んで行く。「もうこれ以上、自分の脳みそは進まないんじ

          自分が作り出せるコンテンツは有限か

          手癖で即興曲を弾くことは、人生を惰性で生きることと似ている

          わたしはアドリブが苦手な人間でした。 ながいこと鍵盤を弾いていたけど、自分が一番映えるのは、自分のソロパートではなくて、誰かのソロの裏でバッキングをしているときでした。 ソロ裏ってね、いかにソロを弾きやすく、主役としてのソロを立てるかっていうすごく重要なミッションがあって。誰が何をしようとしているかきっちり把握しながらバックを演奏する能力は結構重要で、かわるがわるソロをとるような演奏形態だと本当に、バックの質でソロの質も変わるんですよね。 そんな自称ソロ裏師のわたしから見

          手癖で即興曲を弾くことは、人生を惰性で生きることと似ている

          「自分を愛せない人が他人を愛せるはずない」って、こういうことなんじゃないかな

          他人の心に手を突っ込んで、ぐいっ、って向きを変えることはできない。 書いてみれば、もう当たり前もいいところなんですが。笑 でも、なぜだか生ものの人間関係においては、その大前提がすっとんでしまったりする。 他人の心に手を突っ込めないどころか、そうしようとすればするほど、相手の心は固くなる。これも書いてみれば、当たり前。 *** 好きになったら、好きになったほうが「好きになってもらえるような自分」になる努力をする。 好きになられたほうが「好きになる」努力をするんじゃなくて

          「自分を愛せない人が他人を愛せるはずない」って、こういうことなんじゃないかな

          もしも空気を読めるのなら、毅然とした態度をとる技術も必要だと思う

          空気を読む、という言葉が、最近はへんてこな使われ方をしているような気がする。 例えばね、うさぎちゃんがいるとします。うさぎちゃん。 うさぎちゃんは、目の前のオオカミちゃんが自分を食べようとしている気配を察知した。 そしたらどうするか。全力で逃げますよね。それか、自分が捕食に適していないのだということを、それとなくアピールするかなと思います。まさか、目の前のオオカミちゃんが自分を食べたがっているのを察知したから、すすんで食べさせてあげるわけないですよね……? 空気を読むって

          もしも空気を読めるのなら、毅然とした態度をとる技術も必要だと思う