「自己肯定感」って、ちょっと字面に違和感があるのです。
自己肯定感、という言葉が狂ったように使われるようになった。気がする。
わたしにしてみれば、どうもこの言葉の並びが納得いかないんですよね。笑
本来あるべき「自己肯定感」が示す本質と字面が、なんだかちぐはぐに感じるんです。
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一言で言うと、自己肯定っていうのは、「自然に生きる」っていう、ただそれだけなんです。自分を否定したり、自分を嫌悪したり、自分をさげすんだり、そうやって自分の価値を貶めるようなことをせず、ただ自然に生きるっていう、それだけの話。
「自己肯定」っていう字面。
自分を肯定しろ、って言われたら、なんだかすごく積極的に能動的に自分のこと肯定しつづけなきゃいけない気がするじゃないですか。毎日毎日自分のいいところを見つけて、肯定して。否定しそうになったら「いやいや、自分はこんなに肯定されるべき存在なんだ」って肯定できる材料をかき集めて。
それはね、すごく疲れる行為だし、なんなら「自己否定」と表裏一体なんです。「肯定できる材料をかき集める」っていう行為は、自己否定と表裏一体。その材料がなければ、その反対の材料が集まれば、否定に走ってしまう可能性を孕んでいるから。
言葉って難しいですね。自己肯定って、自己受容って、実はそんなに大したことじゃない。
本当は、「存在している」っていうこと自体がほとんど自己肯定だし、自己受容なんです。その、「存在する」っていう営みに、なんだか頭でぐちゃぐちゃ考えてケチをつけさえしなければ、ほとんどそれで自己肯定できているし、自己受容できているんです。
だからね、「自己肯定」っていう言葉が本当に示す先っていうのは、「肯定」とか「否定」とか、そういう軸から抜け出すっていうこと。「肯定する」んじゃなくて、もうその軸自体から抜け出して、ただただ自然に生きることを自分に許可すること。
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もちろん、深い深い自己否定の沼にいる人は、もしかしたら初めの取り組みとしては「自分のいいところを探す」みたいなことをする必要があるのかもしれない。そういう取り組みがあることも知ってはいます。
でもね、「ダメなところに目を背けていいところを探す」っていうことになってしまうと、本当のところでは、自分に対する否定は抜けない。
いいところとか、ダメなところとか、そんな問題ではない。
存在するっていうことそのものを、自然に受け入れて生きていく。
「そういう特徴もあるよね~」くらいの軽やかさで。
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自己肯定、に関してはね、もうこのまんまなんですけど。「自然に生きる」「存在にケチつけない」くらいのもので終わりなんですけど。笑
おもしろい現象だなって思うことがあります。
例えばなんですけど、ファンの芸能人とかアーティストとか、いますか?
その相手がちょこっと何かミスしちゃったとしますよね。
ファンじゃない人は、そこを「マイナス点」に見るんですけど、ファンの人にとってそこがものすごく愛しかったりするじゃないですか。予想外の出来事に対応する推し、声が裏返っちゃった推し、完璧じゃないけど伸びしろを感じる推し、頑張って努力して成長を続けてる推し。
ファンじゃないと「プロとしてどうなの」みたいな声が発生するのに、ファンだと「あああああああ愛しいいいいいい」ってなるんですよね。
ファンになる前は「え、ちょっと引くわ」みたいに思っていたことも、いつの間にか沼に落ちたら「ああああああありがとうございます存在してくれててありがとうううう」みたいになってること、あるじゃないですか。
もう、存在が愛しいじゃないですか。存在が愛しいものが、ちょっと体が弱かったりしたって愛しいし、ちょっと試験に落っこちたって愛しいし、あんまり頭よくなくたって愛しいし、もう存在してるだけでいろんな要素が全部プラス要素じゃないですか。
さすがにそれを自分に適用するのは若干難しい気もしますが笑、でもね、存在のすべてが愛しくなるっていう現象、意外と身近にあるんだと思います。
条件付けで「こういう条件の存在なら、肯定できる」とかじゃなくて。
条件なんて、意外と関係ないものなんです。
いわゆる「自己肯定」に、条件は関係ない。
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大層なものじゃないし、疲れるものでもない。
もしも「自己肯定感」っていう言葉に違和感を抱いていたり、積極的能動的に行う「自己肯定」に疲れる時があったら、ぜひ思い出してほしいです。
自然に生きる、ただそれだけでよい。
存在している自分にケチをつけない、ただそれだけでよい。
ただそれだけです。
もしも「愛しい」って感じられたら、それはそれで最高ですけどね。笑
最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました! 意識低めなので、いただいたサポートは書籍代などにはならず、おいしいケーキや紅茶に消えると思います……(*´ω`*)♡