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頭でっかちな自分に、いつも言い聞かせていたいこと

わたしはね、根っからの頭でっかちなんです。
考えることが好きといえば聞こえはよく、逆に言えば脳みそとばかり遊んでいるともいえる。

そんな自分に、ことあるごとに言いたくなることがあります。
それはね、「思考はツールの一つだよ」ということです。

脳みそが活発だと、なんだか「考えること」が本体な気がしてしまうことがあります。考えることが本体で、考えていれば世界を捕捉できるような気がしてしまう。でもね、世界との関係性を深めたいなら、絶対に「世界と関係性を持たなければならない」んです。自分の脳みそだけでは、世界と関係性は持てない。

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人との関係を思い浮かべると、すごくわかりやすい。
どんなに考えて、どんなに人間関係について理論を構築して、相手のことを観察して思いを巡らせたところで、相手と実際に関係を持たなければ、関係性が深まることはないですよね。

というか、「関係性」という部分においては何も起こっていない。笑
相手と仲良くなることもなければ険悪になることもない。考えているうちってたしかに安全だけど、それより深い関係性に潜ることはできない。
だって何も起こっていないから。

「考える」っていうことは、すごく有用なことです。ただし、その先に実際に「関係性を持つ」という行為があって初めてその有用性を発揮する。
関係性を深めるということに対して、思慮深さから差し出される行為は非常に効果的なんですが、思慮深さだけで何も行為が差し出されなければ、関係性は深まらない。

思考は、ツールの一つ。思考は本体ではなく、思考に自分が振り回されるのでもなく、自分が思考を使役する。あくまでも、自分が思考を「活用する側」なんですよね。

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わたしは「幸せに生きる」について考えるのが好きですが、でもわたしが生きていて実現すべきは「『幸せに生きる』について考える」ではなく、「幸せに生きる」なわけです。
ここ、取り違えてはいけない。思考や分析というのは、まずその対象があって初めて生まれる副次的なものであって、まず存在しなければいけないのはその対象自体なんですよね。

音楽理論だって、はじめに音楽があって、そのあとに理論がある。
現象だって、はじめに現象があって、そのあとに理論がある。

ニュートンが万有引力の法則を発見しなくたってわたしがリンゴを手放せばリンゴは地面に向かって進んで行くわけだし、放物線の数式がわからなかったとしてもリンゴを投げれば放物線を描いて飛んでいく。

わたしが生きているのは、そういう世界。
頭でっかちが過ぎると、意外と「ただリンゴを手放す」「ただリンゴを投げる」みたいなことを軽視してしまうことが多い。わたしはね。笑
思考や分析は、上手に使えばいろいろなものを豊かにするし、いろいろな関係性を深くしていくことができる。でも、その根源の、関係性を「持つ」っていうところを忘れないようにしていきたい。

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行動がよいのでも、思考がよいのでもない。
やっぱりね、バランスが大切なんですよね。考えるだけで関係を持たないのと、考えなしに関係を引っ掻き回すのと、どちらもなんだかもったいない気がしちゃう。

最低限、脳みそは働かせていたい。まあそんなこと言わずとも、わたしの脳は過剰なくらい働いてくれるタイプですけど。笑
最低限の脳みそくらいはいいよね。だって相手を傷付けたくないし、いい関係を築きたいからね。本当はそのためにある脳みそなんだよ。考えること自体が目的になっちゃうと、もったいないですね。活躍できなくて。脳が。

だからね、脳みそとばっかり遊んでいないで、ちゃんと実物の誰かと触れたり、実物のタピオカミルクティーを飲んだり、五感を震わせながら世界と遊んでいきたいですね。
わたし、いいか。肝に銘じなさい。笑


(ちなみにすごくどうでもいい話なんですが、わたしのなかでタピオカ屋さんのこと「タピ屋」って呼ぶのがすごく流行ってます。わたしね、思考分析優位なくせに意外と情緒を重視するタイプなんですが、もはやこの「タピ屋」という情緒欠如の甚だしさや求められるかわいさとは真逆な語感に、ギャップ萌えしている次第です。どうでもいいですね。)


最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました! 意識低めなので、いただいたサポートは書籍代などにはならず、おいしいケーキや紅茶に消えると思います……(*´ω`*)♡