ASDグレーゾーンだったと気づいて②~対比とジャッジ~
5月中、忘れていた視点を取りに戻りました。
きっかけは、私の目の前に、家族や友人を通して、「対比」というキーワードが、連続して複数現れた事でした。
対比には大きく2つあるそうで、ワンセットの対比と、正反対の対比、でした。
両方の対比について、考えているうちに、気づいた事は、他者と自分を比べる視点でした。
どうしてうちだけ...
どうして私だけ...(何も出来ないの?)、と子供の頃に思っていました。
幼少期、あまりにも父親からの制限が厳しかった為に、誰かと一緒に同じ事をして楽しむ経験が出来ずに、そう思うようになりました。
いつしか、何でも自由に楽しんでいるように見える同級生達は素敵で、それに比べて何も自由に出来ない私はダメだと。そんなふうに捉え、内心劣等感、無価値感を抱きました。
誰かと自分を比べる視点に、良い悪いのジャッジが加わっていました。
幼い子供の頃で、ただ比べるだけ、という視点にとどまる事を知りませんでした。
いつしか対比とジャッジがセットになって私の中の当たり前の思い込みになり、それが無意識に根強く癖づいてしまっていたと思います。
今回の忘れ物はここでした。
対比とジャッジを切り離す事。
ただ比べるだけの視点はあってもいい事。
むしろ、比べる両極の視点は大切でもあるという事。
両極の視点が持てるから、中庸とグラデーション部分の視点も持てると思いました。
幼少期に作ってしまった、他者と比べて、自分は何も出来ないダメな存在なんだという思い込み。劣等感の思い込み。
他者と自分を比べたり、何かと何かを比べた時、常に、無意識に、良い・良くないのジャッジに繋がっていたから、比べるという事に、辛さや心地わるさを感じて、私は常日頃から比べるという事について良い印象を持たず、避ける傾向があったような気がします。
そして、つい、自分が見たい方を見る。
自分が好きな方向ばかりを見がちでした。
偏って見がちな方向の、その反対側を見る視点。
優しい世界があるなら、優しくない世界、現実には両方あるでしょ。グラデーションもパラレルも。
目をそらさないで。
そのどの場所も否定しないで。と言われたように思いました。
両方ある。2元の世界。
広く見て、両極やグラデーションを見る。
そして中庸を見る。
必要ないのは、ジャッジをする事。
ジャッジせずに、ただ比べるという視点は、当たり前にあっていい。と、腑に落ちました。
ワンセットの視点と、正反対の視点。
あるひとつの事象があって、その解釈、受け取り方は様々ある。個(片方、一部分)にフォーカスした時、偏って見てしまいがちだけど、同時に真逆の受け取り方も発生する。真逆だけれど、紙一重。(ワンセットの視点。)
あるひとつの事象があって、両極、それぞれの立場での心情、言動が発生する。
立場は異なるのに、その心情、言動の、根拠・理由は時には同じ、共通する事がある。
同じ物事を目指しているのにも関わらず、表現や選ぶ方法が異なる等のために時に誤解が生じたり、争いごとになったりする。
双方に、善悪も、正誤も、優劣もないのに。(正反対の視点。)
だから、ジャッジ出来ない、という事。わかっていたつもりで、深くわかっていませんでした。
たぶんこの事、特に後者にもう一度気づく為に、不思議なほどに、時に強烈に肩を揺さぶられたように感じたほど、目の前に現れ続けた対比のワードでした。
ハッとして、大事な物を忘れ、取りに戻ったような感覚でした。
忘れ物を取りに戻って、歩んで来た道に落としていて、拾って大事に抱えて今に戻ったような感覚でした。
自分と向き合ってきて、
幼い頃から長い年月分離していた内側の自分とこの自分が、徐々に深く一致して、
自己が統合出来て、
どんな自分でもいいと、全部受容出来る自分になれて(戻れて)いたから、
気づくきっかけに気づいて、
対比の視点に気づく事が出来て、
対比の視点に気づく事が出来たから、
何かと何かを比べて、良い・良くないや、
正しい・正しくない、などを決める必要性は重要ではない事。意味を持たない事だと再認識して、ジャッジは必要ないと、深く受け入れる事が出来た、と思いました。
相反するどちらもあっていい。どちらも大切。
グラデーション部分も、中庸も大切。
すべて大切。
例え、対比して分類したとしても、分類はただの分類。
分類に、上下も善悪も正誤も優劣も伴わない。
等しく、大事に、尊重されるべき分類。
平等な視点。
その気づきが、出来る事と出来ない事がある自分を受容する助けになりました。
人それぞれ、色々な事。
出来てもいい。出来なくてもいい。
どちらもいい。どちらでもいい。(投げやりではなく)
どちらも、尊重です。
私はASDグレーゾーンの特性がある、と自覚して、受け入れるその時は、正直涙もしました。
人の言葉や言葉に含まれる意図の全部を、スムーズに理解出来ない自分を、情けなくも感じたからです。
私はやっぱり何も出来ない、理解出来ない自分なのかな...とも思ってしまいました。力を落として、めそめそ泣きました。
泣きながら、もしもそうでも、そういう私がありのままの私だから、それでいいんだよと。
今そう思う私がありのままの私だから、思ってもいいよと。
(自分の弱さやネガティブな感情に寄り添い、自己否定している自分をも肯定して)
自分で自分に穏やかに言って聞かせて眠りました。
どんな時の、どんな自分も、全肯定、全受容。
心から、本音本心で、そうしています。
翌朝、目覚めて、その後、その理解出来ない部分はわからないと認めて、再度聞き直して、きちんと相手の意図を理解するように努めたらいいんだと、前向きな気持ちで、そう思えました。
必要ならば、受診する事。そして今後の面談時に上司に話して、特性を理解し考慮してもらえるように相談しようと思いました。
自分と向き合う事と、今の仕事は、私にとって、心を傷めた後の、認知行動療法となって、ぴったり合い、私の心身を癒し治療するのに効果的に働いていた(いる)ように思います。
職場での現状は、指示が曖昧で理解出来なかった時は、遠慮せずにすぐ聞き直して、指示が正確にわかるまで確認して、上司も私も仕事の内容、進め方など、双方納得してから動いています。
はっきりと伝えられた言葉は、そのストレートな意味と付随している意図の部分までおおむね察する事が出来て、相手の意思意向が伝わります。
パフォーマンスにも現しやすいです。
気がかり、疑問、不安要素を取り除いてから仕事に向かうと、何の迷いもなく仕事に集中出来て、ある程度先の展開も考えてスムーズに動く事が出来ています。
マルチタスクについては、そういう仕事内容の時期が過ぎたために今後に持ち越し中です。
指示を聞いただけでは忘れる点は、指示内容等が書いてある物をスマホで写真を撮り、途中忘れた際には見て確認する事が出来るようにする等、
可能な対策、対応をとり、順調に働けています。
○○は難しいけれど、○○なら出来る。
○○したら出来る、など、工夫して、可能な対策をとる事で、自分の活かし方を学び、覚えています。
受容して、そんなふうに過ごし、後日、今度は、私の特性そのものの両面を見て感じて考えました。
ひまわり / 葉加瀬太郎
最後までお読み頂き、ありがとうございました。