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九名皐諦 法華経 皐諦とは「天上界と人間界を自由に往来する鬼神が仏になったもの」のようなものをいう。 九名皐諦は「陀羅尼品」に十羅刹女として九番目に登場する皐諦のこと。 また、天文法華の乱で信徒を救ったのを模した像などを見ることもできる。しかし、その多くは悟りを開こうというもの前に障害として現れるものである。
千葉大王の皇子 王子御墓所現地の掲示板 神亀年中というから、聖武天皇の時代のこと。 天竺釈旦国より、千葉大王の皇子といわれる人が、空船に乗って、牡鹿郡の浜に流れ寄り、暮らすことになった。 それからこの地を宮郷(みやこ)と言い、また王浦と言った。(現尾浦の事である) のちに、王子晩年になり、桃生郡大浜の台に移り住み、網漁の漁法を伝え、祖神として崇められた。 他にも調べた感じだと、近くには「千葉大王の王子」に仕えた地元の有力者が千葉王蔵の苗字名を下し置かれたという「
マータンコー 沖縄の民話と他界観 津堅島には、旧暦の11月14日になると、海から7つの頭を持つ大蛇があがってきて、島中をあらし回り、人を食わないと帰らなかったという。 ウクラサトノヌシ(御蔵里之主)という人が、七つの酒瓶を用意し、酒を飲ませ倒した。現在のマータンコーという行事はそれを記念して行われる。
江の島の誕生 江島縁起 欽明天皇十三年、四月十二日の夜から二十三日の朝まで大地が震動した。 すると空から天女が十五童子を従えて現れた。 それに合わせて多くの天衆や竜神、水火雷天山神、鬼魅夜叉羅刹達が雲上より磐石を持って現れる。 海底より砂が吹き出す中、夜叉鬼神たちが協力し、ついには一つの島となった。それが江の島であり、天女こそ弁天様であったといいます。
紅嶽弁財天 現地の掲示板 南北朝後村上天皇の時代のこと、千葉の城主、千葉常胤は日頃から神仏を敬う心が厚く子孫の長久繁栄と福寿円満をつねづね祈願していた。 ある夜、夢まくらに弁財天が現われたのに感激し、鎌倉の弁ヶ谷弁財天(鎌倉市材木座)をこの地に移したという。 また、この弁財天の森の中には、鶴亀橋という少さな石橋があった。その石橋の近くに泉があり、パチパチと手ばたきすると、応えるように清水がモクモクと湧き出したという。 これが霊験のある乳出の泉であつて、この清水が湧く
猿田彦 回國記 天正元年11月7日のこと戸隠山の小さな社である行者が眠っていたところ、夜中に老翁が現れた。 翁は猿田彦と名乗り、いつもは四方の国々を周り、鬼神を鎮め、悪魔を追っているという。 ただ、今日のみは、必ずこの社にきて、休むという。 「庚申の夜に、猿田彦神様と祭る方でしょうか?」 と尋ねた。 すると、そうだと頷き、 「みな常日頃からの人の信仰によるところで、たとえ庚申の日に祭りを行っていても悪いことが起こるときは起こる」 と話されたという。
小蠅神 雲玉和歌集下総 さばへなす人のこころの世の中はくろとのはまのおきつしら波 小蠅神とて悪神なり、みそぎは此神をはらふなり、黒戸の浜白波は、青蠅の黒白をけがすと申す、心のあしき人によそへり この歌は黒戸の浜(現在の千葉市稲毛区黒砂)で穢れを払うみそぎが行われていたことを示すという。 「さばへ」とは陰暦の五月に群がり騒ぐ蠅で、稲に付く害虫や、祟りをなす恐ろしい霊魂といわれる。そこから、「さばえなす」は「騒ぐ」「荒ぶる」などにかかる枕詞となっている。 つまり小蠅
鬼取山 伝説と稗史 役行者は生駒山に赴いた際に里の人にこのあたりに人を襲う妖鬼が出ていてこまっているという話を聞いた。そこで、役行者は山の中に向かっていった。 話通り、二体の雲つくばかりの巨大な鬼が現れた。 「ここは我らが聖地であるぞ」 そういってくる鬼に加持を持って制圧した。 その力の差に、鬼はすっかりまいってしまった。 「この世に力だけではどうにもならぬものがいるのがわかったであろう」 そうして鬼は戒めとして髪を切られ、弟子となり、義覚、義玄の名を与えられました
おこらなかった皿屋敷 心霊の戦場から お菊という女中が家伝を皿を割ってしまい泣いていると、通りすがった米搗男八蔵。 「ここに奉公する時にこの皿に何かあればお前の命はないといわれた。私の命もここまでです」 八蔵は「お前の命は引き受けた」と残りの皿をたたき割った。 その欠片を掴み、寝ている主人のところに押しかけ 「人の命と皿、どっちが大切だ」と怒鳴った。 「もし皿の方が大切だというなら覚悟しろ」 主人はあまりの剣幕に頭を下げた。 お菊は救われた。
芝切地蔵 あるく・見る 箱根八里 昔、巡礼の旅人が山中に差し掛かった時に、痛みのため動けなくなった。 旅人は亡くなる直前に語った。 「自分は故郷の常陸国に戻れないのは無念である。 どうか芝を高く積んで、常陸の国からも見えるようにしてください。そうすれば村の人や世の中の人々の難病を救いましょう」 こうして旅人は芝切地蔵尊として葬られた。 今でも毎年7月中旬にお祭りが催されています。そこで 売られる「お札」や「腹掛け」は、お腹の病に効くという。 戦前は伊豆一
沙謌沙羅 走湯山縁起 静岡県熱海市伊豆山神社に伝わる。 応神二年、神鏡が相模国唐浜に流れ着いた。これは日輪のように輝き、音曲を奏でたという。 ひとりの仙童が現れ、社殿を作り祀った。そうしたところ、鏡は自分は違う地の神人である沙謌沙羅という湯の神と名乗った。 二年後、神鏡は日金山に祀られた。その後、神鏡は温泉を湧出して衆生を救うため現れたと託宣し、これが走湯権現といわれるようになった。 権現の本体は伊豆山の地下にいるという赤白和合の姿をした二龍であるとされる
疱瘡神の親子 あるく・見る 箱根八里 照心明神の御神体は親子の神像である。両親と子供であるという。 明和三年、疱瘡が蔓延したさいに、十三歳の子に乗り移り、神託を伝えた。 「我を祀れば障難なかるべし」 人々は恐れて祭った。 百人近くが疱瘡にかかったが、ひとりも命が失わことはなかった。 それから流行る事があったが、その力を見せたので、親子三人の像が作られたという。
鯰のお告げ 博多地下鉄で回る伝説スポット 江戸時代のこと、飢饉が続いたことがあった。 免の里(現在の賀茂)の村人は都にきていた。 これは数年飢饉が続き、大変であったための神頼みであった。 村の神様である賀茂神社の本宮である神社(上か下かは不明)で村を救ってくれるように頼み、祈願した。 すると三日目に尋常ではない気配のある方が現れた。その方は 「故郷に帰り、川にいるナマズに聞くように」 村人は慌てて里に戻った。 すると夢に川のナマズが現れた。 「川をきれいに
ミイラの怪横 横手郷土史 貝の蔓の神といわれる祠があった。この天井裏には、由来などは知られていないが、狐と蛇が争ったまま、ミイラとなったものがあった。 ある年の事、祠を建て替える際に、大工のひとりが子供を驚かそうとそのミイラを投げおろした。 ミイラは壊れてしまった。大工はこれを集めて何食わぬ顔で戻しておいた。 その後、大工は目を傷め、不思議と治ることなく、ついには両目を潰した。 大工自らこれは祟りだと語ったという。 このような神であるが、ある時寒くて困ってい