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紅嶽弁財天
紅嶽弁財天 現地の掲示板
南北朝後村上天皇の時代のこと、千葉の城主、千葉常胤は日頃から神仏を敬う心が厚く子孫の長久繁栄と福寿円満をつねづね祈願していた。
ある夜、夢まくらに弁財天が現われたのに感激し、鎌倉の弁ヶ谷弁財天(鎌倉市材木座)をこの地に移したという。
また、この弁財天の森の中には、鶴亀橋という少さな石橋があった。その石橋の近くに泉があり、パチパチと手ばたきすると、応えるように清水がモクモクと湧き出したという。
これが霊験のある乳出の泉であつて、この清水が湧くようにお乳を与えて欲しいという念願から産み月を迎えた妊婦たちが多く参詣した。
現在は枯れているが他にも湧き水があり、千葉のまちを流れて都川へ注ぐ葭川の水源の一つである。
常胤と嫡男胤政(正)は「弁谷殿」と呼ばれていたとあり、鎌倉では弁谷に屋敷を構えていたと言われている。
常胤の役職である「介」の中国風の呼び名「別駕」から、常胤が住む谷を「別駕谷」と呼び、これが転じて「弁谷」になった。「弁谷」は「紅谷」とも書かれており、これが変化し「紅嶽」となったと思われる。
現在は公園の一角に祀られいてる。
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