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祖母の94年史② 尋常小学校と夏休み(7~12歳)

岐阜弁おばあちゃんが、大正15年から94年間を振り返るシリーズ。
今回は第2回目、尋常小学生時代(1933-1938年/7-12歳)です。写真はほぼ残っていませんが、話を聞いていて夏の色鮮やかな田舎の景色が、目に浮かぶようでした。

1.父母の思い出

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ー母とは、あんまり話したことがない。働き詰めで忙しかった。よう面倒は見てくれたけど、落ち着いとる暇がなかった。子供のころ、火鉢のところで餅や魚を焼いたときに、一緒に座って話するくらい。大人になってからも話しとらへなんだね。詳しいことは何にも聞いとらへんの。
 大家族で、子供は七人もおったうえに、おじいさんもおばあさんもおったやろ。足袋や靴下も繕わんならんし。私らよりさっき寝やしたのを、見たことあらへん。

ー父は切れ長の眼でね、孝くん(晴子さんの長男)が似とるね。目が凹んどんのはね、母の方や。私も最近くぼんでしまったけど、あんたも凹んどるね。私のほうに似とるわ。

 靖(晴子さんの次男)もよくハーフかって言われとった。いっぺん靖の友達のお母さんがね、「あんたんとこのやすちゃん言って、誰に似とるの」って言いよるの。自分とこは奥さんがええ顔しとるのに、息子が不細工で比べると全然違うやろう。そんなふうに言いよったんやろうねえ。

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図:生前の父・藤次郎さん

ー父は母を大事にして、畑にも連れてかなんだね。子供らには「畑行くで一緒に来い」と言って、私らも着いていきよった。一番上の姉の子供(晴子さんの姪)も、父に「どんだけお使いさせられたかわからん」と言っとったなあ。

 私も不思議やなあと思って、あとから聞いたけど、母は身体が弱かったんやろね。

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図:父・藤次郎と、母・貴子と

2.少女時代、夏の思い出

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ー小学校(※1)でも男女別やったの。女の子ばっかで、45人くらいおったね。そのほかに小学校の思い出て、そうないねえ。

 小学校にあがったころ、兵隊さんを支那事変(※2)に送ったのを覚えとるね。生徒が駅まで送って、旗を振った。一番上の姉の旦那さんも出征して、戦死してまった。20歳そこらで、後家さんになってまったんや。
 小学校の思い出って、それくらいやねえ。

※1「小学校」尋常小学校。戦前の義務教育6年間。
※2「支那事変」日中戦争に対する、日本側の呼称。1937年の盧溝橋事件を発端とするもの。

ーそのかわり夏休みの間はね、毎日、家の隣の木曽川で泳いどったの。木曽川の下流やで、砂やったね。それこそ立っておると足が見えるくらい綺麗やでねえ。女学校行くようになってからは行かなんだけどね、小学校の小さいときは父がちゃんとついてきて見張っとってくれたね。
 
 あまりに日焼けしたもんで、夏休み過ぎて小学校いくとせやが、先生が「どっちが前か後ろかわからんぞ」と言わしたね。

(※孫より補足)祖母の尋常小学校時代や実家の日常の写真が残っておらず、当時の川の幸や果物に囲まれた潤った生活は、想像するばかりです。

3.木曽川の魚、庭の果物

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ー父が一生懸命稼いでくれたんやけど、食べるのが自給自足みたいなもんで、自然に何でもあったやろ。
 
 川魚がいっくらでも獲れるしね。自分のうちの舟が一艘あったの。木曽川の本流のところより、堤防の端っこに流れを弱めるための半島みたいに出しとったところがあってね。「猿尾(さるお)」って言いよったけど、そこに竹竿で漕いでいくとさゃが、流れが弱いで泥みたいになっとったの。まんなかは綺麗な砂で水も綺麗やでね。

 猿尾が出とると流れが弱いし、汽水やもんで、シジミがいっぱいおったねえ。私らはどうびん、どうびん、言いよった。5cmくらいのからす貝があったね。

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図:現在の木曽川の猿尾の様子
(海津市HP「石田の猿尾」より)

ーあとは、川岸のとこで、竹筒を一晩置いておくと、鰻もとれたしねえ。
 それに、川にはサワガニがおってね。海老でも蟹でもフナやら魚やらあるんやけど、それを獲る器が面白いんやわ。トタンの丸い円盤に、笠をかぶせた格好でね。ひととこだけは中に入れて、中に入ると出れんように作ってね。紐をつけて竿をさして一晩川につけとくと、あくる日船に乗ってとれば中に蟹やら鮒やらいっぱい入っとった。

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図:鰻とりの竹筒のイメージ
(イメージは『竹虎(株)山岸竹材店』さんのHPからお借りしましたhttps://www.taketora.co.jp/diary/2015/11/post-2952.html)

ーそれで、自分のうちの庭の端っこを利用して作ってあった池に、獲ってきたものを鯉でも魚でもなんでも入れるもんで、食べる魚がその池にいっぱいおったんや。生け簀みたいなのが作ってあったんやね。井戸が深井戸やったで、どうどうどうどうと、汲まんでも水が出てきよったの。うちで製糸工場やっとったときの遺物やわね。
 その頃は食べ物いってね、肉みたいなの、そう買わへん時代やで。魚をしょっちゅう食べよったけ。

ーあと、うちは子供が多かったで、小さい時から、実のなるものを色々、枇杷からいちじくから柿から植えたったもんで、果物いったら夏になりゃ西瓜も作ってあったしね。
 父がリヤカーひいて、「西瓜とりにいくでついて来い」と言われて、あっちに行ってはリヤカーにいれて、西瓜をとってきたねえ。

 そうやねえ。本当にね、生活がうるおっとったねえ。

4.世界はこの頃(1933~1938年)

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世界情勢は…
1930年代、世界では、ムッソリーニ、ナチス独裁政権、スターリン大粛清など、全体主義のはしりの台頭、ブロック経済が進む。翌1939年には、ドイツがポーランドに侵攻。第二次世界大戦が勃発する。
アジア地域では、満州事変(1931年)、1937年には支那事変(=日中戦争)が始まる。

また国内では、1932年に5・15事件、1936年に2・26事件などが発生。トヨタ自動車工業が成立したのもこのころ(1937年)。
文化は…
国内では、谷崎潤一郎、永井荷風、横光利一などの連載開始/雑誌発刊。

世界的には、デューイ(米国プラグマティズムの始祖)、スタインベック(苦難のカリフォルニア移住を描いた『怒りの葡萄』)、ジョージ・オーウェル(全体主義的な社会を予感した『1984年』、ダリ(不条理主義的な絵画の代表作家)など。

また、1929年の大恐慌を経た大きな政府論を支えた経済学者、ケインズやこれに対抗した自由主義論者ハイエクなども活躍。

イベントとしてはベーブ・ルース訪日。また、カラー映画の製作が始まり、ハリウッド黄金時代。スウィング・ジャズ時代。

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(人物名や地名は仮のものです)

次回は、13~18歳:女学校と太平洋戦争(昭和14~19)を投稿します。昭和初期のティーンの暮らしを、女学校や師範学校の寮生活とともにお届けします。
また来週!

(次回↓)

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