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浅草ノスタルジア 両親との幸福な記憶

山田太一の「異人たちとの夏」を読んだ。
初版発行は1987年とかなり昔に出た話である。


妻子と離婚したばかりの40過ぎのシナリオライターの男と異人たちとの交流を描いた物語である。
ここでいう異人とは、死者のことだ。

独り身になり孤独な日々を送る男は、ある日浅草で両親と再会する。両親は男が12歳の時に交通事故で若くして亡くなっていた。だが、両親は若い時の姿のまま現れる。男は死別した筈の両親の住む浅草の路地裏にあるアパートに通い、心温まる団欒の一時を過ごすようになる。少年の頃に置いてきてしまった幸せな時間を取り戻すかのように。

これ以上ストーリーを書くとネタバレになってしまうので、一旦あらすじに触れるのはやめにしておく。

作中では、死者たちとの交流の中でノスタルジーに浸る主人公の姿が描かれる。
本作を読み進める中で、私自身も知らず知らずのうちに家族との記憶の中に心のよりどころを求めていることに気がついた。

私にとって浅草は、両親との思い出の深い土地である。

東京の東武伊勢崎線沿いの下町で生まれ育った私は、よく両親と(特に父親と)浅草の街に出かけた。
父親が競馬が趣味だったので、休日になると場外馬券場ウインズのある浅草へ行くことが多かった。今思えば、浅草へ出かけるときの両親は普段よりも機嫌がよかった気がする。

年末年始はわざわざ浅草のホテルに泊まって、浅草寺で2年参りをするのが恒例だった。

今もよく覚えているのが、大晦日の夜にホッピー通り沿いの居酒屋に入って両親と一緒にモツ煮込みを食べたことだ。たぶん小学校3年生か4年生くらいの頃だったと記憶している。もう20年以上前の話だ。

店内は活気に溢れていて、料理の煮炊きと煙草の煙が混ざった煙がモクモクとしていた。両親は上機嫌で酒を飲んでいた。モツ煮込みがやけに美味しく感じたことを覚えている。
自分の30年の人生を振り返ってもあの時よりも幸福な瞬間な中々ない気がする。そんな両親との幸福な時間の記憶を「異人たちの夏」を読む中で思い出した。

一方で、子ども時代を振り返ると、幸せな記憶よりもつらい記憶の方が多かった。

両親は共働きで、いつも深夜まで家に帰ってこなかった。母が出張でいない晩に、父が朝帰りすることも珍しくなかった。一人っ子だったので家には誰もいなかった。心細い気持ちで過ごす夜がたまらなく嫌だった。親が帰ってくるまでテレビをずっとつけていた。面白い番組がやっていない時は、ジブリ映画のDVDを観た。同じ場面を何度も何度も繰り返し観た。とにかく家を無音にしたくなかった。父親か母親のどちらかが帰ってくるまで時間をつぶした。おかげでいつも寝不足だった。

両親が家にいるときも心は落ち着かなかった。
父親は普段は穏やかだが、怒るとすぐに手が出てしまうので、父が怒っていないかどうかハラハラすることが多かった。私が中学生のとき、過労が祟り、脳出血で倒れてしまい、その後は寝たきり状態になってしまった。
母親もかなり感情的な性格で、カッとなりやすいところがあった。自分の機嫌次第で人を振り回す傾向があり、その点は子どもながら少なからず苦手意識を持っていた。

こう書くとひどい毒親っぽく見えてしまうが、
別に両親を深く恨んでいる訳ではない
(少しだけ恨んでいるかもしれない)。

両親は単純に生きるのがあまり上手ではなかったんだろうな、と思う。
人よりも少しだけ不器用で少しだけマジメだった。努力すれば報われるという信仰を他の人よりも強く信じていたところもあった。だからこそ周囲が出された無理難題に何とか答えを出そうともがいていた。その皺寄せが不幸にも家庭の中に持ち込まれ、鍵っ子生活と両親の機嫌に左右される日々という形で自分が影響を受けることになってしまったのではないか、と今では思う。

ダラダラと両親への複雑な思いを書いてしまったが、不幸な記憶もあれば幸福な記憶もある。
浅草で過ごした大晦日の夜が30を過ぎた今も自分の心の支えになっている。


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