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「人はなぜ考えるのか」という問いと、「人間は天界の試作品に過ぎない」説

こんにちは、瑠夏です。
突然ですが、私は「考える」という行為がものすごく好きです。
確かに、考えると疲れるし、何だか気分が滅入ってしまうことも多々ありますが、それでも私は大好きです。
ちっとも具体的な概要は思いついていませんが、私は「考えるやさん」になりたいなあ、なんて思っています。「考えるやさん」という語感が好きなだけかも知れませんけどね。ふふ

さて、今回は私の大好きな「考える」について考えてみます。

なぜ人は考えるのか、そしてなぜ私は考えるのが好きなのか。
そして結論からいうと、この問いの解は「人間は天界の試作品に過ぎない説」に集約されると思っています。意味不明。では、始めましょう。

人間と「考える」の関係性

人間は誰しも日々考えて生きています。
就職先はどこにするか、誰と結婚するか、明日の朝ご飯には何を食べるか。
毎日毎日考えて生きています。
そして、「考える」は、ある側面では、”人生において何かを「選択」するために必要なツール”という役割を担っています。
はい。言いたかったのは、人生とは選択の連続、積み重ねの結果であるということです。その結果をより良くするために、その選択の「自分的素敵具合」を診断するために考えるんです。
数学を引き合いに出すと分かり易いでしょう?
「問い」に対する最適解を選択するために「考える」という流れです。

けれど同時に、人間は何か具体的なものを選択する、という目的以外にも考えます。これが上記とはまた異なる「考える」の側面です。
哲学はそれに当てはまるのではないでしょうか。

古代ギリシャと哲学

古代ギリシャは、かの有名なソクラテス、プラトン、アリストテレスなど今でも名を馳せる哲学者が多く生きていた時代です。
その時代に哲学が盛んだった理由は、当時の国がとても豊かで、「労働」は全て連れてきた奴隷にさせていたため、国民は暇を持て余していたため、だと聞いています。
暇すぎた古代ギリシャ市民は、みんなで集まって時間を潰せそうな解の見えない問いを考え続けたのです。けれど、この暇人の時間潰しから生まれた哲学は、科学にも大きな影響をもたらし、今日の我々の生活を形成した一部とも言えます。

さて、私が話題にしたかったポイントは2つあります。

1つは、我々人類は「考える」という行為で現在まで続く文明を作り上げてきたこと。=今の私たちにとって「考える」という行為はもはや必要不可欠でアイデンティティとも言える、ということ。

もう1つは、人間は心も身体も満たされて究極的に「暇」という満ち足りた状態に陥ると「考える」ということ。=人間の究極的な娯楽は「考える」であるということ。

人間と「考える」は最早切っても切り離せない関係性を築いてきたのです。

人間と他の生物との決定的に違うところ

私は人間という生物は、他のどの生物とも違っていると思っています。
それは、元来プログラムされている制御装置が「本能」だけではないところです。
人間界には「動物的」という言葉が存在しており、その対義語は「理性的」。理性や倫理という本能とは違うブレーキが備わっているのです。

私は無宗教ですし、「神」とは一種の概念であるという風に認識していますが、その存在を想像してみることが私も稀にあります。
そんな時、聖書の通りに天界が人間を創造したとするのなら、なぜ、神々は私たち人間に「本能」という制御しやすいシステムではなく、「理性」という不確かな装置を搭載したのでしょうか。

私がもし神だったのなら、人間を造った意図は「自分らで考えて生きてみ?」のようなとてもフランクな試作的要因があるような気がします。
ちょっと放任してみたら地球はどうなるのか。神にとって操作可能なシステムを搭載していない食物連鎖のテッペンは、どのようにしてその増大を抑制するのか。夏休みの自由研究的なスタンスでつくったのだと思うのです。
そして、神々は自由研究をもっと楽しむため、より「考える」種を残すために、数種の原人を生み出したのだと思うのです。

ネアンデルタール人は、私たちホモサピエンスよりも脳も身体も大きかったそうですが、今ここで息をしているのは私たち「ホモ・サピエンス」です。『サピエンス全史』に書いてあったのですが、我々は自分の弱さを知っていたからこそ縋るべき「神」という概念を生み出し、仲間と協力しようと考えて生き残ったそうです。

であれば、人間本来の骨組みには「考える」という機能が、他の生物でいう「本能」を代替して存在していると言えます。
私たち人間が抗えないシステムとしての思考は、文明を形成するための道具として、究極的な娯楽として、また生き残る術として私たちには必要不可欠なのです。

最後に ー「想像と創造」ー

「私たち人間はなぜ考えるのか」という問いの答えは、考えずにはいられないから。だと思うのです。
思考は私たちにとって生存本能であり、娯楽であり、アイデンティティであるからです。

最後に少しだけ違う話をします。
私が15歳だった頃、「受験」という自分の将来を考えるチャンスを手に入れました。自分(人間)の所以は何か」という壮大な問いを前に、私はどうして良いかわからず、ただただ毎日をその問いと共に過ごしました。その解が見つからなければ、受験もへったくれもない、と思ったからです。
そしてやっと出した私流の人間の所以に対する解は、「想像と創造」でした。この話はまた後日しようと思うのですが、今回この話を出したのは、本テーマとも繋がるなあと思ったからです。

「想像」とは、頭の中で世界を構築することであり、それは詰まるところ「思考」とも言い換えられます。哲学なんてまさに想像であり思考でしょ?

「人間はなぜ考えるのか」という問いの究極的な解は、それが人間の所以たるものだから、なのだと思います。


めちゃくちゃ長くて、そもそも意味のわからない問いだったのにも関わらず、最後まで読んでいただいてありがとうございました。

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