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関東モノレールの旅③ ~東京モノレール中編

東京モノレール、中編です。
今回は東京モノレールに乗りながら、周辺の人々の歴史を話していこう。
ぜひ東京モノレールに乗りながら、その周辺に目を配っていただければ幸いです。さあ、出発しよう!!

浜松町から羽田まで、東京モノレールに乗る前に、浜松町駅のすぐそばに芝の増上寺、大門だいもんである。
徳川家の菩提寺として、上野寛永寺は江戸城の北東の鬼門(丑寅)に置かれ、増上寺は裏鬼門(風水は方角にこだわる)の南の抑えとして今の芝に移された。
のち、1953年にテレビ放送がはじまると各テレビ局が電波を発信するための塔を敷地内に乱立しはじめるが、塔の低さにより関東中に届かないことや景観の悪化により巨大な電波塔をつくる計画がはじまり、1958年に東京タワーがこの地にできる。
ここが、原始に古多摩川が運んできた砂礫がつもり、火山灰や土砂が堆積した武蔵野台地よりも地盤が強固である「東京礫層れきそう」が広がる地下に浅いこと(上野や新宿なども礫層まで浅く近いため地盤が固く高層ビルを支持する基礎となっている)、それと都心に近いことより選ばれた。

浜松町駅よりすぐ、芝大門と東京タワー。
東京タワーは某年末のテレビで除夜の鐘を打つシーンが例年有名であるが、ここには徳川15代将軍のうち、「2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂と夫人の皇女和宮などの墓がある。
大田区郷土資料館より、地形のイメージ。
大森駅の山王の高台は武蔵野台地の東端(画像はイメージ、おそらく立会川駅あたりだと思う)。
急勾配から低地への落差があり、そこから一気に海につながる場所。

さて、この辺りの人々の生業を見ていこうと思う。
23区でいうと港区から品川区に大田区。
路線図でいうと、東京モノレールでは浜松町駅を過ぎると天王洲アイルや大井競馬場へ向かう。山手線では品川駅から大崎駅へ南下し西側へ北上するカーブ地点、東海道本線は大森から蒲田へ、京急線では立会川や大森海岸を経て京急蒲田へ向かうところ。

つまりは羽田空港へ南下しながら、海沿いの人々の漁業、武蔵野台地部の農業、そして品川宿を中心とした東海道などの街道の商業(卸売から小売業などの流通網)だ。

まずは、東京モノレールは東京湾沿いを羽田へ向かうので、漁業の様子から見ていこう。


芝の雑魚場

浜松町を出てすぐ、左の方はりんかい線のレインボーブリッジからお台場へ枝分かれする眼前、右手の方にやがて山手線の田町駅のほうにある。
三田といえば薩摩藩邸、かつて戊辰戦争のときに幕臣・勝海舟が新政府軍を率いる西郷隆盛に「江戸城無血開城」の直談判をした場所だ。

三田というと慶應義塾があり、やがてそこに通う子女を育てる名門・慶應中等部の裾野にあるのでも有名だが、この薩摩藩邸跡のすぐ近くは本芝ほんしば公園、ここは落語の「芝浜」の舞台でもある。
落語の芝浜といえば、サゲ(オチ)を言うと、
「よそう。また夢になるといけねぇ。」
である。マア、落語のサゲやあらすじを述べても決してネタバレにはならんから(落語は皆に知られる定型のストーリーなので、いかに演者である落語家が魅了させるかに面白みのすべてがある)、ここに書いておこう。

出版社・教育画劇のらくごえほん「しばはま」より。
絵・野村たかあき、監修・柳家小三治。

勝は魚屋の棒手振り、しかし酒呑みがたたり失敗を重ね、ついに仕事をしなくなる。
女房はある朝叩き起こし芝の魚市場の仕入れに向かわせる。しかし、朝早すぎたため、魚市場はまだ開いていない。
勝は煙管を吸いながら、ぼんやり海を眺めると、海中に革の財布を見つける。
目も眩む大金に勝は帰って、仲間を呼んで大宴会。
目覚めると女房は「仕事に行っとくれ」。
財布はどこにもない、大量の飲み食いの跡、「こんなに呑んで支払いはどうしてくれんだい」と、どうやら財布を拾ったのは夢だったよう。
勝は仰天し、断酒して、目まぐるしく働きはじめ、ついに自分の店を持つようになる。
3年目の大晦日。勝は、あの日のことをたしなめて以来ずっと自分を支えてきてくれた女房に感謝するが、女房はあの日の財布を差し出す。
十両盗めば首が飛ぶ当時、女房は大家と相談し、財布を役所に届け、勝には「夢だ」と言い聞かせた。泣いて謝る女房に、勝は感謝する。
女房が「久しぶりに呑むかい」と酌を勧める。
勝は杯を手に取るが、すぐにそれを伏せた。
「よそう、また夢になるといけねぇ」

落語「芝浜」より。奇遇ですが僕も最近、禁酒をしました。

つまり、この本芝ほんしば公園まで海が迫っており、海沿いを走るこのモノレール周辺は、落語の芝浜にあるように漁業関係の仕事が多かったようだ。
江戸時代、江戸中に魚介を提供していた最大の魚河岸はもちろん日本橋だ。
江戸時代に作られ、関東大震災の後の老朽化のあと1935年に築地に移るまで日本橋がいわゆる魚河岸の中心だった。
しかし、江戸前の海は、深川(江東区)から品川まで広がっており、ここ本芝浦と増上寺大門近くの金杉かなすぎ浦は、御菜肴おさいさかな八ヶ浦という幕府にも献上する雑魚場ざこばとして発達。品川浦から羽田沖までを漁場として漁業がさかんであった。

御菜肴八ヶ浦は、幕府に鮮魚を献上する役割があり、品川歴史館によると文化14年の漁船数では、北から金杉かなすぎ浦126隻、本芝ほんしば浦119隻、品川浦53隻、大井御林おはやし浦45隻、羽田浦85隻、多摩川を越え相模(神奈川)となると生麦なまむぎ浦37隻、新宿浦52隻、神奈川浦54隻の規模を持つ。実は東京モノレール周辺は、御菜肴八ヶ浦の北半分を素通りする元・漁業地区であったのだ。今は埋め立て地と工業用地ばかりだが。

江戸前は、大川(今の隅田川)や多摩川が地上の豊かな栄養分を流し込み、貝類ではハマグリ・アサリ・アオヤギ(バカガイ)・アカガイなど、魚類はキスやイワシ・アナゴ・カレイ・ハゼ・コチ・カマスなどの豊かさがあり、芝ではシバエビ、佃島はシラウオ、深川はハマグリなどのブランドもあった。
港区郷土資料館にくわしいが、撮影禁止のために資料を貼ることができません。

大田区郷土資料館より。
同じ東京湾でつながっている、深川のとなり、千葉の浦安の漁業のようす。

品川から浅草海苔が全国へ

浦安など千葉もふくめ江戸湾周辺、特に品川から「海苔の養殖」がはじまり、「海苔は江戸の名産品」となる。
海苔は常陸国風土記にて霞ケ浦周辺の人々が食していたことが記載され、大宝律令の税(調)で朝廷への海苔の献上があったことから、古くから日本人と親しみがあった。
しかし自然にあるものをとるような贅沢品であったが、江戸時代にたまたま将軍献上用の生簀の竹に海苔がついていたとか何やらで、江戸で海苔の養殖がはじまる。
やがて和紙のような要領で「板海苔」という今の私たちの海苔の原型ができた。
これが浅草海苔であるが、名称は「浅草で売られていた」やらで、産地は品川周辺であった。

東京モノレール「流通センター」駅、京急線は大森海岸の先「平和島」駅が最寄りの、「大森海苔のふるさと館」にて。

海苔は幕府への献上だけでなく、和食への用途として増えていった。花巻蕎麦に巻き寿司、煎餅にも巻いた品川巻は明治からか。海苔は大きな利益がとれる産業だった。

海苔付け場という作業小屋は早朝というか深夜2時から作業がはじまるのは、朝ごはんなどの取引に間に合わせるためだろうか。
左上は生海苔を細かく裁断し、箱にきめ細かく均一にらすようにしている。
昔は、箒をひっくり返したような「ヒビ」というのを地面に立てて、海苔を付着させていた。
ヒビをつくるなどは、下総(千葉)まで出向き、連携して行っていたようで、江戸湾西岸の品川から、浦安や市川など下総(千葉)一帯に海苔づくりは広まっていった。
やがて、網に付着する方法に改良されている。

江戸の海苔の養殖は、やがて全国に広まっていくが…

やがて、東京湾の埋め立てや工業用地化が進む。

地図に記号化されていた、羽田~大森~品川の海に広がる海苔ヒビの分布状況。
昭和35年(1960年)の埋め立てのようす。
赤いピンが大森海苔ふるさと館のある平和島。
品川歴史館より。

そして、工場設立や海の汚染で漁業関係者と行政や工場側は対立が続き、1962年についに漁業権放棄が決定される。浦安もこの年に一部放棄したが1971年に全面放棄が決まった。
この地域で江戸時代から発展した漁業、最盛期には2000以上あった海苔漁家も完全に消えてしまった。
現在もわずかに残るこの地域の海苔問屋は有明海など全国の漁場から出荷しているようだ。

この海苔も、他の地域の海苔なのか。
海苔がたまらなく好きな僕は、サクサクな歯切れに口で溶けていきながら、広がる海苔の良い香りに光悦でした。
埋め立てられる前の鮫洲さめず
現在の鮫洲周辺。

流通センターから昭和島まで渡り、モノレールに乗っていきましょう。

内陸の江戸近郊農業のようす

品川歴史館より、これは品川区の内陸部。武蔵野台地の坂や上部の高台となる場所だ。
中原街道という、山手線の最南部で目黒や渋谷方面に北上する大崎~五反田にある風景を復元したもの。田畑と寺社が広がる土地だったようです。
大井はニンジンが品川はネギが戸越はタケノコなど根深い野菜などが特産品だったようで、海の生業ぎょぎょうから一転、陸の生業のうぎょうと変化しているようです。

南下し、大森の西側にある大田区の馬込~池上あたりですね。
今の東京都最南部あたり、多摩川(これを超えると神奈川県の川崎)側にある大田区郷土資料館で見られた、農業の様子です。
この地域は、多摩川という豊かな水に江戸近郊の立地の良さ、江戸近郊なのでトイレから出る下肥糞尿にも恵まれる。さらに武蔵野台地の東端であり柔らかく野菜に良い火山灰地であり、後には多摩川から引かれた六郷用水の開発で農業が発達した。

以前は、米は年貢で納めるため贅沢品としてとっておき、ふだんは麦(大麦による麦飯や小麦はうどん)や武蔵野台地の柔らかい土壌に育ちやすい根菜類が多かったが、後に菜っ葉などの蔬菜などもつくられる。
上の画像、左上は今は見られなくなった「馬込半白半次郎胡瓜きゅうり(茶色く熟したものは種をとる)」に、右上は梨の栽培(千葉の台地や神奈川の多摩丘陵など山地などでもよく栽培されている)、馬込大太三寸おおぶとさんすん人参、ほか大根やサツマイモにゴボウにカブ、果菜ではカボチャやナスにトウガンにトマトやキュウリ。葉菜ではツケナやコマツナやネギなど。

…のどかで、キレイそうな川で野菜を洗っているようですが、以前観た「屎尿のゆくえ」て動画で、下肥畑にまいた糞尿が土から水に流れたり、あまった屎尿は川にそのまま垂れ流していたことを知ってますから…

農業の合間に行っていた副業。稲わらや麦わらが多く手に入るので、これで細工を作っており。
特に東海道など街道の土産としても、大森の細工は繁盛したのだろう。

話は漁業に戻るのだが、しかも後編に描く多摩川の河口に広がる羽田空港のときも描いていきたいが、多摩川の利用でも栄える。奥多摩や青梅から運ばれた木材や石材。また河川敷にある石や砂利も土木工事に利用された。多摩川にはアユやウナギ・コイやシラウオなどもおり、内水面漁業が発達したほか、アユ釣りなどの川狩りや遊覧船などの楽しみもあったことだろう。

これも、野菜やその元手になる下肥を運び、麦わら細工やたわらむしろなどの商品、街道をゆく旅人たちに食事や娯楽を与えてくれるお店などとともに、川魚は地元住民の大きな利益となったことだろう。

江戸時代から近郊農業で名を馳せたか、1980年代に神田市場(秋葉原)と荏原市場を統合して、青果中心の大田市場も作られた。大森海苔のふるさと館からモノレール駅「流通センター」より先へ。日曜日と水曜日も市場は閉場しており、僕も水曜の休日に「せめて外観だけでも」と撮影に行きましたので、中の展示などは見れませんでした。

物流拠点・品川②(①は前編)

前編でも描いたが、品川は古代より交通の拠点だった。
まず、船の輸送で利用される品川の港。

江戸時代は東海道の最初の宿場町として品川宿が設置される。

リニューアル前の旧・品川歴史館より(2021年撮影)

日本最初の鉄道は新橋-横浜間が有名だが、実は先行運行として品川-横浜に鉄道が走っていた。築堤の上を走っていたが、築堤と言えば高輪の築堤跡が山手線新駅として2020年に開業した高輪ゲートウェイ駅の開発によって発見された。

初めての鉄道・品川駅。
上が現在の品川駅で、リニア中央新幹線の開発もあってか、現在も駅の改修工事が進んでいる。
高輪ゲートウェイ駅の大規模工事のために、工事現場には立ち入り禁止で、築堤跡は見つかりませんでした。この日は白金台の港区郷土資料館を見学後、高台から高輪の海沿いまで歩いて降りてきたのに。あと、お化けトンネル(トンネル天井が低すぎて首を曲げて通る首曲がりトンネル)も往復したのに。けっこう疲れながら探したのに…(けどこのあと浜松町から増上寺と東京タワーを経て六本木まで港区いっぱい歩いたが)
ここでの散策写真や泉岳寺の赤穂浪士資料館などは、またの機会に。
2027年頃に築堤跡を展示した新しい駅周辺に変貌するらしいですが、そこまでお預けなのでしょうか。

品川駅よりすぐそばにある武蔵野台地の坂を上ったところに、物流博物館がありました。物流の歴史を、品川にてまとめていきましょう。

縄文時代から、他の地域との交流を頻繁に行っていた人々は草木を刈ったり地面に木材を敷くなどの原始的な「道」をつくっていただろう。
やがて日本が天皇を中心とする政府(朝廷)に統一されると、朝廷は畿内と七道など道路を各国に整備して役人を送ったり租税を集めたりなどして全国を支配しようとした。

上は全国の税(調=特産物を納める)のしくみ。
下は、七道の1つ東山道の武蔵国と他の国を結ぶ道路のしくみ。
各地に駅を置き、そこに馬や人足を整備して便を図っていた。下は品川歴史館、品川の大井駅が強調されている。

天皇の力が弱まり、各地が武士の時代である中世になっても、諸国を支配する武士や鎌倉幕府が街道を整備し、政治や軍事のために利用した。
特に関東は鎌倉街道が、関東の御家人たちが「いざ鎌倉」と幕府を守る仕事をするために結びつけられ、これは室町時代や戦国時代にも利用された。
下の画像は、中世に現れた馬借という運送業者、または武士や役人に貴族たちが旅や移動するようす、そして船の移動。

江戸時代も関東に政府(幕府)が置かれたため、江戸の日本橋(江戸の入り口の橋)を中心に五街道や、海路である西回り・東回り航路と河川を行く航路や渡し、そして宿場にも「問屋場」が設けられ、大名や幕府などの移動や荷物の輸送・情報通信や宿の手配を行われ宿場で最も重要な施設であった。
宿場町は、荷物や人馬・そして情報のやりとりを行い、この先の宿場への中継ぎをする物流ターミナルのようなもので今の駅のような働きを持っていた。東海道品川宿ももちろん江戸と東海道を中継する重要な拠点だっただろう。

品川宿の人馬や物流の様子。昔の日本の馬は蹄鉄がなかったため、基本的に砂利道であった道から馬の蹄(足)を守るために草鞋を履かせていた。
問屋場はこの馬を貸し出しや、馬や荷物をまとめる馬子を集めたり、メールも電話もない時代に飛脚という手紙や現金決済の手形や現金などを運ぶ重要な仕事をする業者も融通できる、つまり通信と輸送のリレー基地であった。

先ほど宿場は今の鉄道駅と同じ働きと言ったが、やはり街道の周りに店ができ、業者が集まり、仕事をする。右上は、宿に男の襟首をつかみムリヤリ宿泊をせがむ女将で、今の繁華街のキャッチセールスよりタチが悪い。また、右下にお面売りがいるが、当時は店以外に行商人がとても多かった。天秤担いでものを売る魚屋棒手振りや蕎麦などの屋台、大量のざるや駕籠をかかえた振売り、水売り、豆腐売り、唐辛子売りなど食材や日用品、生活必需品を売りに来ていた。
「たがや」という桶など日用品の修理屋に、くず紙買い灰買いなどリサイクル業者もいた。

明治時代には西洋文明を取り入れて、鉄道が日本にも開通された。
新橋-横浜には貨物の輸送基地が置かれ、多くの業者が荷物を運び出しをして賑わうようになり、これまでの街道は廃れるものも多く現れた。
(街道の町の反対にあい、街道沿いに鉄道と駅をつくるものもあった)

右上は新橋駅。
前編は新橋駅(今の汐留シオサイトにある汐留駅で、新橋駅の名はのち拠点が東京駅にうつると烏森駅を改めて新橋駅となった)を描いたが、この物流博物館に元・新橋駅である「貨物最大ターミナル・汐留駅」の写真があった。
各地の駅にある貨物取扱の保管所周辺。
今はコンテナという巨大な鉄製の箱に荷物は蓄えらえるが、当時は段ボールや木箱・わらたるなど。

前編でも描いたが、汐留駅がその役割を他の空港や埠頭、トラックターミナルなどに移したが、現在も品川などこの東京湾西岸一帯は物流中心地である。

モノレール周辺には、たくさんの物流基地がある東京港エリア。
ぜひ、物流の歴史をしのびながら見てみると、一見無機質で意味不明の景色も何か新しい感覚が出てくるでしょうか。
右上は品川埠頭(コンテナドッグ)、右下は羽田空港。
左下は竹芝埠頭とレインボーブリッジ(向かいにはお台場)。
左上は、お台場~東京国際埠頭から見た品川埠頭。
おまけ。昔の荷物の担ぎ方。昔の日本人も、大量の荷物を一人で一度に担いだものだった。

羽田へ向かいましょう!

明治時代、築堤という「海(堤防)の上を蒸気機関車が走る!」という絵に魅せられましたが、モノレールもたいがい空中や海上を走っていますね。

最近は新宿上空にも飛行機が飛んでますが、新木場や豊洲、お台場(港区)、潮風公園(品川区)など埋め立て地も飛行機が目立ちます。「羽田が近い」ですね。

もう一度、おさらいです。浜松町→羽田空港方面で見られるもの。
浜松町駅→駅から西には増上寺や東京タワー、駅から東の竹芝通りは歩行者デッキで空中を歩き、竹芝客船ターミナルで、向こう側にレインボーブリッジや晴海と豊洲とお台場方面の埋め立て地、左手側奥にはスカイツリー方面に隅田川の「海辺の景色」が見れます。
途中、芝の埋め立て地を突っ切って、品川埠頭を見たら天王洲アイル駅。
天王洲アイル駅→築堤さながら、右手は市街地に右手は京浜運河っぽい埋め立て地の周辺の海。
大井競馬場駅→すぐ近くに京急線立会川駅の方面に品川歴史館。駅から先の競馬場は臨時休業のようで要チェック。大井競馬場(流通センターとの中間の位置)のすぐ近くに前編で紹介した鈴ヶ森刑場としながわ水族館。しながわ水族館は京急大森海岸駅の方が近いが、その近くの大森駅にはエドワードモースが発見した初の縄文時代遺跡である大森貝塚の址地がある。

今の品川歴史館では、図書室とモースの展示がともにあります。

流通センター駅→東に大田市場、西に大森海苔のふるさと館。この周辺はキャンプやアスレチック場がある平和の森公園や平和島公園で、温泉もシネマサンシャインもあります。
昭和島駅→駅の周りは多くのモノレールの車両が待機なさってる車両基地みたいなのがあります。

整備場駅→航空会社の整備場や工場があるところでしょうか。僕はここに、羽田空港ができる前の羽田村の開発の跡地である鈴木新田の形跡を探しに行ったのですが、空港敷地内で入れず、遠くから撮影するしかありませんでした。

天空橋駅→羽田空港ターミナルの直前です。今回はここまでにしますが、僕の中で実は癒しのスポットです。
飛行機が頭の上すぐを飛んでいるし、旧・穴守稲荷神社の跡地の歴史を感じる案内板、そして川が好きだからか多摩川の河口近くで川崎方面も眺め見ることができる(工業地帯が見える)。
あと、駅すぐ近くにも昔の羽田村の案内板があり、さらにはZEPPHANEDAなどが入った商業施設。その展望台からは羽田空港の景色も良いのですが、初日は夜に着いたため散策は諦めたのですが空港の夜景がキレイ、さらに足湯までありますね。

ライブカメラからの羽田空港の夜。

どうでしょうか。ややもすればただ「羽田空港~浜松町駅を20分間ひたすら無心か急ぐだけのモノレールの旅」になりがちでしょうが、ちょっとは見方が変わっていただければ幸いです。
できれば、一見何もなさそうなモノレール駅周辺も… 昭和島駅とかマジで何もないし、流通センター駅も「ゆで太郎」蕎麦屋しかありませんが、ちょっと降りて遊ぶことは、
難しいかな~。ひたすら「なんとか埠頭公園空き地」はあるのですが、ぼっちなので公演で遊ぶ意味がわからないからレポートはできてません。
なので、なかなか下車まで至らずとも、ちょっとでも景色を良きと想っていただければ幸いなのです。
けど、天空橋は下車して遊ぶ価値は大きいかも。

で、後編の最終回は、ひたすら羽田空港の第1~第3ターミナルと、天空橋駅にも展示されていた案内板から羽田村の昔の様子を描きます。

ちなみに、現在の取材状況は、羽田空港はもう何度も行き、だいたい東京モノレールの取材は終了かな。あとは書く気力と時間があれば(これも描くのに結局6~8時間くらいかかった)。
次の千葉都市モノレールをどうしようかという感じで。
それと、次は「関東の、海辺のくらし、平野のくらし、山地のくらし」でも作ろうかなと。

…あと、もうみなさん忘れていると思うけど、「国府国分寺」ですね。
取材はだいたい終わっているんだけどな-。下野(下野市)・常陸(石岡市)・武蔵(国分寺市)・相模(海老名市や平塚市)・上総(市川市)・下総(市原市)・安房(館山市)、館山だけまだ国府国分寺に行けてない。
なのにまだ群馬の上野国しか描いてない。あとはNoPlan!課題は山積みですね。
9000字もの長きに渡り、お読みいただいてありがとうございました。
なんだかんだいろいろサボり、前編から1か月かぁ。
国府国分寺はもう半年近くサボっているなぁ…

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