📖夏目漱石『夢十夜』第二夜
今日は夏目漱石『夢十夜』第二夜を読んでいきたい。第一夜はまことに幻想的な物語であった。地球ともつかぬ場所で百合の花に接吻する男の話が展開されていた。第二夜では打って変わって、江戸後期の禅寺が舞台となっている。
襖の画は蕪村の筆である。黒い柳を濃く薄く、遠近とかいて、寒そうな漁夫が笠を傾けて土手の上を通る。床には海中文殊の軸が懸かっている。焚き残した線香が暗い方でいまだに臭っている。広い寺だから森閑として、人気がない。黒い天井に差す丸行灯の丸い影が、仰向途端に生きてるように見えた。
――夏目漱石『夢十夜』第二夜 青空文庫
与謝蕪村の画が登場する。蕪村の画が掛けられていることから、時代は江戸後期であろう。和尚と悟りを開こうと欲する侍が口論をしていることから、場所は禅寺だろうと予想される。
気性が荒い侍
第二夜で特に面白いのは、”侍の気性の荒さ”だろうか。悟りを開いた上で、和尚を斬ってしまおうというのだ。悟るために和尚を斬ろうというのではなく、悟った後に斬ってしまおう。その発想がまた奇天烈だ。
「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、始めて解脱を得ん」と言えど、悟ってしまえば、これも不要な言葉である。悟ってしまえば何も殺す必要はないのだ。それでもなお、侍は悟った上で和尚を斬ろうとしている。ここに漱石なりの奇怪なユーモアが仕掛けられているように感じる。
また和尚に対して始終怒っている。ひどく頑固にこびりついた執着ではないか。はっきりと言って、悟りの境地とは正反対である。ただその鋭い執着が功を奏したのかもしれない。
それでも我慢してじっと坐っていた。堪えがたいほど切ないものを胸に盛れて忍んでいた。その切ないものが身体中の筋肉を下から持上げて、毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと焦るけれども、どこも一面に塞がって、まるで出口がないような残刻極まる状態であった。
そのうちに頭が変になった。行灯も蕪村の画も、畳も、違棚も有って無いような、無くって有るように見えた。と云って無はちっとも現前しない。ただ好加減に坐っていたようである。ところへ忽然隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。
はっと思った。右の手をすぐ短刀にかけた。時計が二つ目をチーンと打った。
――『夢十夜』第二夜 青空文庫
この境地がはたして本当に”悟り”なのか? 少なくとも私にはわからない。
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