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安部公房『砂の女』と中島敦『山月記』〜アウトサイダーと孤独:草稿

※※ヘッド画像は kicchan25 さまより

孤独、ということばを頻繁に耳にするようになって、安部公房『砂の女』と中島敦『山月記』とのつながりが見えてきた。『砂の女』は昆虫採集に向かった教師・仁木順平が砂まみれの家の女にほだされる形で帰れなくなる話だった。一方、『山月記』といえば妻子や官僚という職を捨ててまで漢詩人を目指した李徴が、結局は詩人になれず、虎になってしまう話であった。

どちらの話にも共通しているのはアウトサイダーの孤独だ。日常や都市から離れて、独り、ある種の野生へと帰っていく。彼らは人間であった。人間であったがゆえに孤独感を覚えずにはいられなかった。人間であったが、孤独ゆえに彼らは野生を手に入れてしまった。恒常性ホメオスタシス、そのままでいようとする本能に甘んじるようになってしまった。彼らは動物的に堕落した。多分、両作品の一般的な解釈と主人公二人に対する印象はこんなところかもしれない。

しかし私たちは李徴に対する観方を変えなくていいのか?「家庭を放り出した挙句、詩作も身につかなかった李徴は蔑視すべき対象で、市井(システム内)で黙々と働くことが処世術として賢い」という教訓を、『山月記』を通じて暗黙に教えこんできた学校教育は良かったのか。最近はそんなことを考えるようになった。

私たちはもっとアウトサイダーの孤独に気を遣うべきだったのかもしれない。これ以上のことは考えがまとまっていないので、後日改めて示すことにする。

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