【ヒモ男シリーズ】ジゴ郎の試練
*読み切りとしてもお楽しみいただけます。
「おれ、ホストやめようかと思ってさ」
「えっ? マジかよジゴ郎、なんで?」
「なんつうか……おれには唐揚げひと皿に100万出させる才能はねえってことに気づいたっつうか……」
「……マジか……で? やめたらどうすんの?」
「……酒蔵継ぐか、野垂れ死にしかねえよな」
「…………」
東京の大学で農業を学んだものの、家業を継ぐのが嫌で、卒業後の約2年のあいだホストをしてきたジゴ郎に、ヒモ男は返す言葉を見つけられなかった。
居酒屋を出てふらりふらりと2人で歩いていると、
「ちょっと、ヒモ男じゃん!」
と声をかけられ、振り返ると、しばらく音沙汰のなかったバリキャリのエフ子とその友人のデッカ美である。ジゴ郎をのぞく3人は、以前温泉旅行で楽しい時間を過ごした仲だ。
「おー、エフ子とデッカ美さん、久しぶりじゃん。元気?」
「まあまあかな」
「飲んでたの?」
「そう、あなたたちもでしょ?」
エフ子はそう言いながらジゴ郎をチラリと盗み見た。
「うん、こっちは友達のジゴ郎」
「初めまして、ジゴ郎です」
「こんばんは、私はエフ子で、こちらデッカ美よ」
ジゴ郎の目がエフ子に釘付けなのをヒモ男は見逃さなかった。美人ゆえに男の視線には慣れているとはいえ、エフ子もまんざらではなさそうだ。
「ねえ、ヒモ男、ちょっと相談があるんだけど」
エフ子はジゴ郎の視線を振り切り、ヒモ男の腕に自分の腕を絡ませ、少しわきへ移動し、ジゴ郎とデッカ美には聞こえないよう、耳元で囁いた。
「あのねヒモ男、デッカ美がプチ夫と別れて落ち込んでるの。慰めてあげてくれないかな?」
「え?……今から?」
「そう……分かるでしょ?」
アルコールの作用で赤く潤んでいるエフ子の目は、ヒモ男が断ることを断固として許していない。圧倒されて、
「……うん、まあ、いいけど」
「ありがとう!」
くるりと素早く振り返り、ジゴ郎にほほ笑みかけてからデッカ美のもとへ来たエフ子は、デッカ美にも小さな声でことを告げると、デッカ美は「えっ?」と少し驚いた。ヒモ男に見られたデッカ美は、さっと赤面し、たじろいだ。ヒモ男はジゴ郎に、
「ここで解散な」
と言い、ジゴ郎を頼むというようにエフ子に一瞥をくれてから、
「行こっか」
とデッカ美を誘導し、ホテル街に向かって歩き出した。その姿を見送っていたジゴ郎は、
「そういうことですか?」
とエフ子に問いかけた。
「うん……彼氏と別れて落ち込んでるから、慰めてあげてって頼んだの」
ジゴ郎はゆっくりと何度か頷いた。
「あれですか? エフ子さんとヒモ男って……」
言葉の続かないジゴ郎にエフ子は、
「うん、時々ね。ストレス発散のために頼んでたの」
ジゴ郎はエフ子をしばし見つめていたが、それがいけないことのような気がして、ふいと目を伏せた。
「ヒモ男の仕事のこと知ってるんでしょ?」
「ああ……まあ……」
俯いたままのジゴ郎が頼りなく悲しげに見えたので、
「……ねえ、もしジゴ郎さんがよかったらさ……私と……どう?」
ジゴ郎はぱっと顔を上げ、期待を込めた目でエフ子を見た。
「……いいんですか?」
エフ子はこくりと頷いた。
*
「妊娠したみたい」
エフ子の突然の言葉は、ジゴ郎の全てを停止させた。
「俺の子か? って思ったでしょ。あなた以外とはそういうことしてないから、100パーセント間違いないんだけど」
エフ子は軽く笑っている。
「……ピル飲んでたんじゃなかったの?」
何とか絞り出した言葉だった。エフ子は少し首を傾げつつ、
「生理が不順だったし、飲んだり飲まなかったりしてサボり気味だったんだよね」
またも停止したジゴ郎を見て、こうなることを予想していたように、エフ子はひとり言葉を続けた。
「それでね、考えたんだよね。私、もう30半ばだから、子どもを産むチャンスってこれを逃したらないかもって……もともと出産を経験してみたいっていう気持ちは多少はあったからさ……」
もしエフ子が子どもを産んだとして、仕事を辞めエフ子のマンションに居候しているしがないフリーターの身で何ができるというのか。
「別に結婚ってことじゃないの、いまの生活を変えるつもりないし、どっちかが苗字変える必要も感じないし。ただ、認知だけしてもらってもいいかな? 父親なしじゃさすがにアレかなと思うからさ」
この提案に否定する要素は見当たらない。
「……分かった」
普段、バイト帰りに湯上がりのエフ子の香りに遭遇すると、そのまま肌を重ねることも多いのだが、そんな気には到底なれなかった。
*
悪阻もさほどひどくなく、エフ子は今まで通り働いていたが、予定日の1か月前に産休に入ると、車で15分の距離に住むエフ子の母親が頻繁に訪れるようになり、エフ子の体調を気づかい、家事をすることが多くなった。
「私のことは気にしないでね。好きでやってるんだから」
夫とは早くに離婚、長男家族と同居し、老年で仕事もせず、時間に余裕のある母親にとり、普通の形ではないとはいえ久々に降ってわいた慶事であるので、身を挺して娘を支えようと張り切っているのである。バイトに行く前やオフの日のジゴ郎にとっては居場所がなく、外をふらつくことが多くなった。
予定日より1週間早い深夜に産気づいたので、2人でタクシーで病院へ行き、ジゴ郎立ち会いのもと、無痛分娩で無事に元気な男の子を産んだ。
「あなたに似てるでしょ」
言われてみればそんな気もするが、まるで得体の知れない生き物のようである。これで自分が父親だと思えというのは難しい気がする。
エフ子の提案でエフ之介と名づけられた赤子は、退院後、あり余るパワーでこれまでの生活を一変させた。昼も夜もない。常に寝不足のエフ子はイライラしっぱなしだ。母親やジゴ郎にあれをしろこれをしろと指示を出し、思い通りにいかないと怒鳴り散らす。ジゴ郎がエフ之介のとなりで寝ようとすると、潰しそうだから離れろと怒る。エフ子が寝ているあいだにエフ之介が泣き、目を覚ましたジゴ郎がミルクを飲ませることもある。寝かせたあと、ミルクを吐いた痕跡をエフ子が見つけると、ちゃんとゲップさせなかったせいだとぶつくさ非難し続ける。
ギスギスした空気の中でも赤子はすくすくと育つ。生後1か月を迎えるころにはぷくぷくと肥え、可愛らしくなってきたが、エフ子はもう無理と早速職場に復帰する。保育園に入れようとしたが、いくらなんでもこんなに小さいのに可哀想だ、私が面倒見るからと母親が言ったので、保育園はあきらめ、合鍵を渡された母親は、前にも増して足繁く通ってくるようになった。エフ子がいない時間に、バイトの休みのときなど、エフ之介とジゴ郎と母親の3人で過ごすことも増え、気詰まりなので、母親がエフ之介の面倒を見ている間にジゴ郎が家事をしようとすると、私がやるからいいわよと制するので、また当てもなく外をふらついたりもする。
そんな日が続いたある日、とうとう母親がダウンした。急遽エフ子とジゴ郎とが代わりばんこに仕事を休み、エフ之介の面倒を見ることになった。
「お母さんに仕事やらせ過ぎでしょ。今日実家行ったら、あんたがなにもやってくれないってこぼしてたよ」
ソファの上ですやすやと寝ているエフ之介の横で、バイト帰りの疲れた体を横たえたジゴ郎に、怒りをにじませたエフ子の小声が突き刺さり、ちらと見ると、エフ子は鬼の形相をしていた。
急いで保育園を探した。駅に近いビルの一室の保育所に、1枠だけ空きがあり、なんとかエフ之介を預けることができるようになった。
生後3か月を過ぎたころ、ジゴ郎が保育所に連れて行こうとしたら、エフ之介が今まで聞いたことのない音を立てていた。近寄ってみると、手足をバタバタさせて、機嫌よくケタケタ笑っている。面白い。ちょうどバイトが休みなので保育所を休ませ、抱っこして散歩に出たり、昼寝したりして気ままに過ごした。次の日の明け方、エフ之介は高熱を出した。
「昨日お昼寝したときに、ちゃんと綿毛布かけてた? クーラーで寝冷えしちゃうんだから気をつけてよ」
エフ子にさんざん文句を言われたが、2人とも仕事を休む訳にはいかず、急遽エフ子の母親に見てもらうことになり、来てもらった。
「バイトなのに休めないなんて……子どもがこんな状態なのに。ジゴ郎さんも、いくらまだ若いとはいえ、大学まで出てるんだから、もういい加減まともなお仕事についたら? 親がこんな根無し草じゃエフ之介ちゃんが可哀想よ」
不満気なエフ子の母から、出がけにボヤかれた。根無し草……そうだよ、おれは実家を出てからずっと根無し草なんだよ……おれが根を張る場所はどこにある? まともな仕事につけばこの状況を打開できるというのか? 何をどう変えたら全てが丸くおさまるのだろうか……。
バイト帰りに久々に居酒屋へ寄り、遅くに帰った。深夜を回っていたので、エフ子もエフ之介も寝室で寝ている。エフ子のベッドに忍び込み、エフ子の体を愛撫した。異変に気づいたエフ子はカッと目を見開き、「やめてよ!」と叫んで飛び起きた。
「いいじゃん、久しぶりに」
「絶対に嫌、飲んできたんでしょ」
ジゴ郎が唇を求めようとすると、エフ子は力尽くで引き離した。
「本当にやめて。疲れてるから」
エフ子が再び布団にくるまると、ベビーベッドのエフ之介が泣き出した。エフ子は仕方なく起き出し、
「おまえのせいだよ!」
とジゴ郎を罵倒し、エフ之介を抱いてミルクを与え始めた。ジゴ郎はそのままリビングへ移動してソファに身を投げ出すと、まもなく眠りに落ちた。
バイトが遅番の日には飲んで遅くに帰ることが多くなり、エフ子に説教されたり、また体を求めて拒否されたりを懲りずに繰り返した。
「エフ之介産んでから性欲がなくなったの。もう私に手を出さないで」
ある日、これ以上続けたら訴訟も辞さないというようなものすごい剣幕で静かに言われたので、触れ合いは皆無となった。事務的な会話や連絡以外のやり取りは自然と減り、お互いに同じ空間にいることさえ辛くなってきた。なるべく顔を合わせないで済むよう、エフ子の休みにジゴ郎がバイトを入れた。
珍しく2人ともオフの日、エフ之介がベッドの柵を支えにつかまり立ちするようになり、面白く思ったジゴ郎が、エフ之介の頭上におもちゃをチラつかせていたら、それを取ろうと万歳をしてバランスを崩したエフ之介は、おでこを思い切り柵にぶつけ、大泣きしてしまった。
「なにやってんのよ!」
エフ子が駆けつけてきて、ジゴ郎からエフ之介を奪った。
「私の子に変なことしないで」
ジゴ郎から距離を取ろうとするエフ子の背中に、
「おれの子でもあるよね」
と投げかけると、エフ子は一瞬立ち止まったが、そのまま寝室へ消えた。ジゴ郎は外へ出て、あてもなく歩き、昼下がりだったが開いている居酒屋へ入った。へべれけに酔っ払い、店を出るとすでに暗く寒くなっていた。コートを持って来なかったので、仕方なくエフ子のマンションへ戻った。リビングのベビーベッドにはエフ之介が寝ている。エフ子も寝室のベッドで休息中だ。ジゴ郎はエフ子の布団を引き剥がし、驚き叫ぶエフ子を抑え、下半身を露わにし、後ろから無理矢理押し込むと、すぐにエフ子の中で果てた。うつ伏せのまま嗚咽して体を震わせているエフ子から離れ、シャワーを浴び、自分の荷物をバッグに詰め込み始めた。エフ子の寝室に置いてある服を取りに行くと、エフ子は下着を身につけてベッドの上に座り、目を赤く腫らして、ジゴ郎の行動を目で追っている。時々鼻を啜る音も聞こえるが、ジゴ郎はお構いなく服をバッグに入れていった。リビングへ戻り、ベッドの中ですやすや寝ているエフ之介を見つめた。ちょこんと飛び出している手のひらに自分の指を持っていくと、ピクッと動いたあとに握ってきた。音を立てずに横に来たエフ子が、
「どこに行くの?」
と尋ねたが、なにも答えず、エフ之介からゆっくりと指を離し、柔らかな頬を撫でた。その場を離れるときにエフ子をちらと見やると、エフ子の頬に一筋の光が伝った。それを蜘蛛の糸と思わぬよう、くるりと素早く振り切り、外に出た。
──なにやってんだよ、俺は……!
星空を仰ぐと泣けてきた。頼りない足取りで駅に向かった。実家の最寄駅までの切符を買っていた。途中2度乗り換え、3時間ほど電車に揺られた。寝ていて2駅乗り過ごしてしまったので、戻ろうとしたら、もう最終は過ぎていた。仕方なくタクシーを呼び、そのまま実家に向かおうとしたが、行く先を告げる瞬間ににわかにためらい、実家にほど近い街道沿いのモーテルを指定した。そこで一晩過ごし、目を覚ますと昼を過ぎていた。モーテルで支払いを済ませ、少し歩いたところにあるコンビニに入った。飲み物や軽く食べられる物をレジに持っていくと、
「ジゴ郎くん?」
とレジ係に声をかけられた。ぱっと顔を上げると、よく肥えた初老のおばさんである。
「そうよね、ジゴ蔵さんのとこの。私、八木アカネの母です。覚えてる? 小中と一緒だった……」
「あー! はい、八木さん、覚えてます」
「ジゴ郎くん、すっかり大人になっちゃったねえ、見違えたわ。東京に出たって聞いてたけど、帰省中?」
「ああ、はい、まあ……」
「アカネはね、この先行ったところのプルミエールっていうケーキ屋さんで働いてるのよ。よかったら行ってみてね」
「はい、分かりました……」
「はい、おつり。ありがとう、また来てね」
良くも悪くも、やはり地元はせまい。下手なことはできないのだ。
枯れた木々が寒さに薫る匂い──山の空気を存分に取り込みつつ、飲み食いしながら実家のある方に歩いてゆくと、反対車線にプルミエールが見えてきた。ガラス張りなので店内がよく見える。売り子はアカネではないようだ。そのまま通り過ぎようとしたとき、店の横の勝手口から、パティシエ姿の巨体の女が畳んだ段ボールの束を持って出てきた。
──アカネだ!
てっきり売り子として働いているのかと思っていた。
──ケーキ作ってんだな……頑張ってんだな……。
アカネは段ボールを店の壁に立てかけて、またすぐに店内に戻っていった。
数年ぶりに実家の門をくぐる。満開の紅白の梅が迎えた。相変わらず庭はよく手入れされている。呼び鈴を鳴らし、引き戸を開ける。廊下の奥から出てきた母親が、驚いて口を開けたまま、早足でそばまで来た。
「……っ……ジゴ郎ちゃん……!」
「お母さん……おれ、家継ぐよ」
(この回おわり)
エフ子が出てくる話
第4話「ヒモ男の温泉旅行」
ジゴ郎が出てくる話
第9話 ヒモ男と歌うたい」(ちょい役)
第14話「ヒモ男の幕開け」(ちょい役)
第15話「ヒモ男トライアングル」
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