てりりくん

あなたの心をギューニャン革命

てりりくん

あなたの心をギューニャン革命

最近の記事

久々。所感。

 僕の書くものについての感想を聞いたのだけど、半分死の世界にいるような人で、この世の楽しみを十全に味わいながらもこの世には居ないような人だ、とのことだった。なるほどなと思ったし、自分はやっぱり死の世界の住人としてのほうが有価だろうなとも思った。最近は生きる喜びに身を投じているので死の世界のことを考えたりはあまりしていないのだけど、それでもこの世のことを死後の世界だと思ってはいるので生きてるだけで死者歴を更新しているようなものなのだけれども。  今の僕が思う自分の立場はそんな感

    • 目覚め

      目が覚めるとリセットされて死にたい気持ちが湧いてくる。ごはんを食べてお腹いっぱいになっても幸せな気持ちのままいなくなれたらいいなと思うし、ネットで誰かと関わりあえて幸せな気持ちでいるときも僕がいなくなれば世界はもっと良くなるという確信が湧いてくる

      • 道具として使われる子供だった自分を振り返る短い文章

        僕の母方の祖母と母は僕に溺れるように命じ実行させることで、待機しているライフセイバーを出動させて僕を救助させる遊びが大好きで、僕はよく溺れるように命じられた子供時代を過ごした。 そんな母方の家族でも、僕に服を脱がせて裸にさせて風呂場で左手で僕の首を締めて「歯を食いしばれー!!」と叫びながら右手で顔を殴り続ける父方の祖父よりはマシだった。 僕は人の心を受け入れやすそうなパーソナリティーをしているのか、先祖供養を強要してくる宗教団体の人の話を聞くような事例が度々発生するのだけ

        • 思いの断片/2021年1月15日午後3時21分

          メタ視点でプレイヤーを突き放す結末のゲームを見て嫌だなと思った。 メタ視点込みで作られた物語、何でもそうだけど、作品世界に溶け込んで同調したまま物語の最後までたどり着いた読者/視聴者/プレイヤー等の受け取り手の報われるべき気持ちに報いずに、物語側から、もしくは作者側から、読者等自身や彼らの費やした時間や労力や思い等を、否定する、という構造に回収する/されるのが、僕は嫌いだな、と改めて思った。 僕は意識が作品に溶け込んだまま終わりまでたどり着いた豊かな気持ちを持って現実世界

        久々。所感。

          2021年1月8日午後10時39分 雑感

           僕は生来優しい人物だと思うけど、映画「告白」の結末や、映画「ドッグヴィル」の結末にたまらなく喜びを感じるし、猟奇的だったり殺人鬼だったりする怪物的な存在の人格や当事者性を主体に共感する性質を持っていると思うし、マイノリティがマジョリティに転換するのは当然というようにも思ってる。  僕は全部受け入れる性質があると思うけど、どうしようもなく我慢できなくなって受け入れられなくなって縁を断絶させることを繰り返してきているので、どうしようもなく人から裏切り者扱いされることが発生する

          2021年1月8日午後10時39分 雑感

          ネットのアーカイブ的な価値について思うこと

          ネットはウェブサイトもブログも何も運営会社が倒れた時点で何もかも消えてしまうから、亡くなった人の書いたアーカイブを残すのには全然向いてない場だと思う。現に今までに亡くなってきた多くの人達の日記サイトもブログもウェブサイトもほとんど残ってなんか居ないし 紙の本の方が結果的には後々まで残るんじゃないのかな、デジタルなネット空間のアーカイブを残していないのは、テレビ局が開局してから何十年もアーカイブを作らずかなりの番組が見た人の記憶以外から消えてなくなってしまって、現実の事象とは

          ネットのアーカイブ的な価値について思うこと

          今はきっと大丈夫

           猫三匹と僕のことが好きな妹と恋人に囲まれて過ごす幸福な夢を見てたけど夢の中の現実もどんどん辛くなって自分には耐えられなくなって最後は誰の元からも去って誰もいない世界を目指して歩きながら倒れてそのまま息を引き取る結末で目が覚めた。  目が覚めてしまうと、夢の中の全能感や幸福感は消え去ってしまっていて、夢の中に戻りたいと願ってももう戻れない寂しさでいっぱいだ。  僕は誰からも求められていないように感じてしまうけど、僕が思うほどには誰からも望まれてないわけじゃなくて、だけどど

          今はきっと大丈夫

          2020年10月22日午前3時54分

           深夜〜未明、早朝にかけて、死にたさに吸い込まれるようになるのはどうしてなんだろう、朝日が昇ると焼き尽くされるように思う。  太陽が無くなるだけで地球も人間の世界も滅びるのにみんなそんな心配をしないで生きていられるのだからいい気なものだなと思う、死ぬのにな。 2020年10月22日午前3時53分

          2020年10月22日午前3時54分

          某音楽と芸術の学校に思ってきたことをなんとなく書く

          ‪本、「最後の秘境 東京藝大』を読んで、でもそこには「東京藝大関係だった人なら常識としか思えないほど当たり前のことしか書いてなくて、それなのにその内容が受けて需要あるの? 世界って」と思ったので、東京藝大関連で思い出したことを書きます。 うちの母親は東京藝大出身で、その頃の友人達を紹介されても、みんなまともな人間からはかけ離れたタイプの人々で、僕としてはそういう人達をこそまともとして見続けて育ったので、世間一般でまともと思われてる人達と価値観が全く合わない‬。 ‪卒業後に

          某音楽と芸術の学校に思ってきたことをなんとなく書く

          映画は誰のもの

          「映画は誰のもの?」という話、判例でも「監督のもの」となってる。けど映画の世界に少し関わった僕の価値観でいうと、監督なんて所詮は現場監督にすぎず、実際その計画を企んでる首謀者はプロデューサーだし、脚本家は建築物においての設計者と同義だし、監督なんて価値のある立場じゃない。 映画は監督のもの、と「今の所は」思われてる社会状況だけど、監督なんてプロデューサーや企画者のアイデアの土台の上で些末な装飾をしてる人に過ぎなくて、俺様は監督だぞとふんぞり返ってる馬鹿みたいな連中が映画界に

          映画は誰のもの

          今は無い、でも今も有る、現実の、実際の、本当にあった、現存していない、かつての現世、という世界

          ‪唐突に思い出した昔の記憶。スーパージャンキーモンキーのライブに行けたのは良い思い出だった、どこまでもエネルギーが高まる演奏・歌・音楽がとにかく最高で、モッシュの渦に睦さんが飛び込んでくるのも楽しかった、何だか訳がわからない熱狂で、観客同士で『あんたすげーよ!」とか褒めあってた‬。 ‪超狂猿のTシャツって現存してるのかな、どこかに売ってたらまた買って着たい。会報みたいのも来てたけど、うちにはもう残ってない気がする。‬ ‪知人(アジョッタの尺八の人)が時々出演してたテレビ番組

          今は無い、でも今も有る、現実の、実際の、本当にあった、現存していない、かつての現世、という世界

          2020/07/14 ゆめ

          おはよう、大変だった 土砂降りの中、自転車で出かけて、 渋谷で自転車のバッテリーが切れて、 自転車をそこに止めて、雨の中、徒歩でさまよって、 自分がどこにいるのかわからないまま、歩き続けて、 海に出てしまって、 帰るはずだったのにどうして、と思ってパニックになって、 渋谷に停めてきた自転車に、財布や銀行のカードや何やら全て入ってるバッグを置いてきてしまったことに気づいて、 どこだかわからない海から渋谷まで歩いて行かなくちゃならなくて、 朝日が昇ってきて、絶望

          2020/07/14 ゆめ

          日記 2020/07/14朝

          僕は好きになった人達から嫌われる性質なんだと思うしこの人は素敵だな素晴らしいなと思った人にはなるべく迷惑にならないようにならべく関わらないようにしてる、なるべく離れてあげなくちゃいけないなと思うし、でもいいねするだけでも迷惑がられたりするしよくわからないんだよな 他者は誰かのほんのちょっとした「他者とは違う何か」を見ただけで、それを「人間扱いしなくて良い理由」だと思い込んでその違いを持つ相手を「人間扱いしない」という行為に出たりするけど、そういうことをする人こそ人間としての

          日記 2020/07/14朝

          番組に出演すること、について思うこと

          ドキュメンタリー番組の過剰演出(というか、やらせ)の話題に触れて思ったことを書きます。 「演者の知っておくべき前提」、の話かもしれない。 テレビは何回か出る機会があったので、台本があることは判ったし、放送作家の仕事も具体的に解った。 制作者によって出演者がどうするかの裁量はあるから、自由にさせてくれる人もいれば、何もかもその人が撮りたい絵面に合わせるよう求める人もいるし、つまり番組は創作物に過ぎない、ってことと思う。 出演者、というか、演者、という捉え方をされてる、という

          番組に出演すること、について思うこと

          鳩が来た時

          ‪飼育が禁止されてる野生動物のツイートをみて思い出したこと。僕の育った家は都内にも関わらず広く庭は日本庭園になっていて池や植物など自然が豊富で野生の動物がいっぱい寄り付いてた。池の鯉以外は飼う訳じゃなく勝手に来たりどっかいったりしてただけなんだけど、偶に動物が家の中まで入ってくることもあった。‬ ‪うちは人の出入りの多い家だったし、夏場は玄関の扉も開けてることが多かった。たまたま僕が玄関に来たとき、鳩が空からバサバサバサーと玄関内に飛来して板張りの床にスタッと降り立った。僕

          鳩が来た時

          居なくなることを喜ばれる人

          「あの人が死んだら嬉しいな」と思うことがよくあるけど、僕に想像力が無く相手を人として見てない訳じゃなくて、当人や周辺人物の思いまでつぶさに想定して、「ああ、この人は生きてるより死んだほうがずっと当人も救われるし、周囲の人も解放されて嬉しくその死を尊ばずにいられない」と感じたりしている それは自分が、親族の中に生きてて欲しい人が殆ど居なかったことや、実際にそういった親族が死んだ時に本当に解放されて嬉しくて泣いたくらいだったからというのもあるし、あんな親族達の血を引いてる僕のよ

          居なくなることを喜ばれる人