番組に出演すること、について思うこと

ドキュメンタリー番組の過剰演出(というか、やらせ)の話題に触れて思ったことを書きます。
「演者の知っておくべき前提」、の話かもしれない。

テレビは何回か出る機会があったので、台本があることは判ったし、放送作家の仕事も具体的に解った。
制作者によって出演者がどうするかの裁量はあるから、自由にさせてくれる人もいれば、何もかもその人が撮りたい絵面に合わせるよう求める人もいるし、つまり番組は創作物に過ぎない、ってことと思う。

出演者、というか、演者、という捉え方をされてる、という形容のほうが正確というか。

僕が出た幾つかの番組は比較的自由にさせてくれてたっぽいし、自分の言葉で熱量持って話す所を良いと思ってくれたと思う。映る素材としての演者は、ノンフィクションやドキュメンタリーの場合、ありのままの自分でいるべきと思う。演技の要望は拒否して良い。要らない所はカットされるだけだから大丈夫。

ついでに思い出。僕は番組制作会社のディレクターA氏から「あなたは怖くて生放送じゃ使えないけど、収録なら問題のある言動はカットできるから大丈夫」と言われ、次の瞬間ディレクターB氏から「いや、自分はむしろこの人は生で使ってみたい」と言われ、A氏から「えっ! 怖い!」って言われたことある。

その後、自分で映画を撮る勉強をしに映画学校など行って、映像でなんらかの状況を撮って形に成立させる作業をやってみたけど、僕以外の殆どの人は凡庸で、僕は「僕のような希少な人こそ撮る価値があって、一般人向けの当たり障りのない人なんて普通すぎて撮ってもしょうがないな」という確信が深まった。

だから映画学校に行ったことをきっかけに、映画の殆どから興味が消え失せたよ。僕にとって価値の無い人が、僕にとって価値の無いものをとってる、世の中の殆どの映画は。そしてごく一部の突出した最高な映画やそれを撮ってる人を尊ぶ気持ちが何倍にも増した。

何を言いたいかというと、撮る上で何を重視するかは撮る人次第だから、出演する人は、自分を尊んでくれる人に撮られるべき、ということ。気に入らない人に撮らせるな、ということでもある。

そんな感じです。

追記:
‪そうそう、書いた通り僕は幾つかの番組に何度か出たけど、やっぱり僕は使い勝手が悪かったのか、その後はそういう話は来なくなった。出演者の立場でも、自分に指示された演出で気に入らないものは断固として拒否してたからだと思うけど、器用に世の中を渡っていける人はそういうの上手くやっていくのも面白いかもね‬

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