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映画「オッペンハイマー」映画を愛する自分よりも、日本を愛する自分がこの映画を受け入れられなかった。

映画を愛する自分よりも、日本を愛する自分が

この映画を受け入れられなかった。

今年のアカデミー賞作品賞含む最多7部門受賞した傑作である。

今、一番世界中から次作を期待されるクリストファー・ノーラン作品だ。

私は昨日、180分、IMAXの凄まじい音響と映像でこの映画を体験した。

映画としては、傑作、なのであろう。

でも、心の中のモヤモヤが、苛立ちが、観終わった後も収まらなかった。

その心の奥を覗いてみたら、私は映画人、映画ファンである前に、

やっぱり日本人なのだと痛感した。

映画「オッペンハイマー」は、「ダークナイト」「TENET テネット」などの大作を送り出してきたクリストファー・ノーラン監督が、原子爆弾の開発に成功したことで「原爆の父」と呼ばれたアメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマーを題材に描いた歴史映画だ。

第2次世界大戦中、才能にあふれた物理学者のロバート・オッペンハイマーは、核開発を急ぐ米政府のマンハッタン計画において、原爆開発プロジェクトの委員長に任命される。

しかし、実験で原爆の威力を目の当たりにし、さらにはそれが実戦で投下され、恐るべき大量破壊兵器を生み出したことに衝撃を受けたオッペンハイマーは、戦後、さらなる威力をもった水素爆弾の開発に反対するようになるが……。

オッペンハイマー役はノーラン作品常連の俳優キリアン・マーフィ。妻キティをエミリー・ブラント、原子力委員会議長のルイス・ストロースをロバート・ダウニー・Jr.が演じ、第96回アカデミー賞では同年度最多となる13部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、主演男優賞(キリアン・マーフィ)、助演男優賞(ロバート・ダウニー・Jr.)、編集賞、撮影賞、作曲賞の7部門で受賞を果たした。

さて、観て、どう思ったか。

映画は総合芸術だと言われる。

映像、音楽、音響、編集、美術、キャスト、脚本といった複数の要素が一体となって、一つの映画が構築されているが、その意味ではこの映画は紛れもなく傑作だ。

ただ、映画的完成度が高ければ高いほど、そして、この映画を手放しに賞賛する人がアメリカにも、映画業界にも多ければ多いほど、何か大きなものが欠落しているような、一番見過ごしてはいけない大切なモノが無視されているような、心の深いところで渦巻く違和感が180分ずっと続いた。

映画「オッペンハイマー」は原爆を発明した、そして計画を推し進めた科学者オッペンハイマーを主体にしている。

そして、その科学者の苦悩が描かれる。

正直に言おう。

そんなこと知ったことか。

原爆を作った人の話であるのに、広島、長崎の被害状況は、数字で示されるだけで全く映し出されることもない。

被爆地の恐ろしい状況、それを克明に描き出すことが正しいとは思わないが、そこに生じた想像を絶する恐怖と痛みと絶望を全く感じさせることなく「それはさて置いておき」物語が進んでいく。

そして、映画の中で原爆が落とされた後も、カメラはそこには向かない。オッペンハイマーが試写室で現地の様子を見せられるシーンも、カメラはオッペンハイマーを映し、映し出された映像は見せない。

ただ、苦悶の表情を浮かべ、映像から目を背けるオッペンハイマーの顔が映し出されるだけだ。

物語の構成上、原爆が実際落とされる前には、オッペンハイマーはそれほど苦悩を見せずに原爆開発を推進し、落とされた後の冷戦の最中には空爆開発に非支持の意を表すが、その心の中に罪悪感が多少生じたことは感じられるものの、自身が生みだしてしまった原爆とその結果を自身の心の奥でどう受け止めたのかという、感情部分における描写も、科学者としての理性と人間としての感情の相克もたいして、こちらには迫ってこない。

クリストファー・ノーラン監督はインタビューで「オッペンハイマーの物語は、私が知る限り最も巨大でドラマティックなものです。私はそれを可能な限り大きなスクリーンにかけ、出来るだけたくさんの人の目に触れさせたかった」と語っている。

IMAXで私は観たが、折々にインサートされる原爆の化学反応を示す発火の爆裂音に心臓がドキっとして鼓動がしばらく止まらず、その威力の大きさ、恐ろしさを体感させる音響の威力にノーラン監督の意図を実感したが、、、

そんな体感は、本質的には、どうでもいいことなのだ。

またノーラン監督は「核兵器のような深刻なものに関して「エンターテインメント」という言葉はちょっと変ではあるのですが、それでもこの映画が「エンターテインメント」であることに変わりありません。しかし私が思うに、映画というものには常に、人々を出来事の中に引きずり込み、とてつもなくドラマティックな物語を見せる力がある。実際ここで私たちは、オッペンハイマーの目を通して、彼が巻き込まれた気違いじみた、逆説的な状況を追い、目にすることになります。だから私たちは観客に、願わくは可能な限り大きなスクリーンで観ることで、この映画的経験のただなかに参加してもらいたいと思っています。」

彼がこの題材に惚れこんだのは、広島や長崎で起きた原爆の底知れぬ恐怖、絶望、哀しみなどではなく、その恐ろしい原爆を生んだ科学者の苦悩、戦争と時代の転換の歴史的意味、そのインパクトの大きさ、それをドラマティックだと言っているのだろう。

たった一人の人間の命。それが、大義や、戦争や、時代的転換の意義に、掻き消されるだけでも心が痛むのに、

数えきれないほど多くの命を奪った原爆を生み出した科学者と時代背景を、まるで、科学者の客観的な視点こそが、歴史映画のダイナミズムを描く潔い姿勢だと言わんばかりに「痛み」と「絶望」を排除して制作された意義は、一体何なのか。

それが歴史映画を作る意義なのか。

科学者のアップや米国の時代背景を細密な映像と音響で体験させることが、ノーラン監督のやりたい、映画的ダイナミズム、映画的カタルシスなのか。

上記のインタビューには、映画を手段として、ドラマティックな題材を、そこに生じた「痛み」を排除し、ただ描きたい傲岸不遜な、世界的映画監督のエゴのようにも思える。

映画の中で何度も「原爆を使用することが戦争をより早く終結に導ける」正当性が語られるが、きっとこの1年で、この映画を観た多くの、いやほとんどのアメリカ人が「広島や長崎に想いを馳せることなく、上記のステレオタイプな観念を上乗りして」原爆の時代的意義を戦後80年近くたっても同様に心に抱き続けた人が多かったのだろう。

この映画を見た多くの人は、「なんと恐ろしい大量破壊兵器なのか、なんと恐ろしいことが広島や長崎で起こったことなのか、そしてそれが現在も存在するという恐ろしさに想いを馳せるのではなく、ノーラン監督の圧倒的映像美と音響に満ちた映画美学や、原爆を作るプロセスに科学者が時代と政府に翻弄されながらも、ドラマティックだったな」と思って劇場を出ることだろう。

被ばくされた方の写真を見たり、記録を読んだりする人はほとんど増えないだろう。それだけ恐ろしくて残虐なことだったのか。それを想像する余白も心に抱くことなく、劇場を出て、同時期に上映された映画「バービー」を見に行くことだろう(公開当時、悪ノリしたワーナーブラザーズの宣伝担当が、「バービー」に合成された原爆投下を想起させる画像の投稿に対し、同作品の米国公式アカウントで好意的な反応を示し、批判を浴びた)

ここには原爆投下に対する罪悪感や核の恐ろしさを想像する人もいない。

その実際と、歴史的意義を、等価交換のように、神の視点で後者を描き切ったノーラン監督。

映画を作る目的が違う、と言われれば、それまでだが、

この題材を、この視点で、「犠牲者の痛み」を想像させることなく、

完ぺきに作り上げることに、一体何の意味があるのか。

映画は神なのか。

監督は神なのか。

ノーラン、あなたは自由に神の視点でこの映画を作った。

彼は「私はドキュメンタリーを作ったのではありません。私なりの解釈をしたのです」と語ったが、それも映画監督の芸術の自由だが、原爆を題材にハリウッド超大作を作り、そして世界中で観られた現在、本当に「そこに起こったこと」を想像させない映画を作る意義に、私は映画監督の映画的エゴを感じざる得ない。そのインパクトを知った上で、正しい知識を伝える機会を一顧だにしなかったと、彼の数々のインタビューを見て改めて思う。

そして、アカデミー賞で華々しくトロフィーを掲げて、喝さいを受けた。

そして、それが世界中で多くの人が違和感なく受け入れた。

日本人以外は。

それが、私は元映画人として、悔しい。

大手配給会社はこの映画を昨年夏から配給しなかったのは(結局中小映画配給会社のビターズエンドさんが勇気を出して配給)日本の世論を気にしたためだろうか、そんなことよりも、

この映画「オッペンハイマー」のカウンターパートとして、世界中に見られるような傑作映画を作るべきではないだろうか。

きっとクリストファー・ノーラン監督も、アカデミー賞を受賞したキャストもスタッフも、この映画を観て違和感を抱かなかった世界中の映画ファンも、「はだしのゲン」も「黒い雨」も見ていないのだろうから。

そうでないと、この歴史的事実を、世界が捉える、真に意義あるバランスが成り立たないと、

私は心の底から思っている。

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