【ピタゴラス・ソクラテス・プラトン】神話が創造した哲学
真実に気づく人とと、気づかない人がいるとします。
哲学書『共和国』の中にある『洞窟の比喩』の寓話の中では、真実に気づいた人は真実に気づかない人を哀れんで彼らに真実を訴えます。しかし、真実に気づいた人は真実に気づいたあと、怪我をしていました。
それを見た真実に気づかない人たちは、ああなりたくはないと思い同じ行動をとることを嫌がります。もちろん、彼らが言っていることを信じようともしません。
可能であれば、自分たちの信じている真実から引きずり出そうとするならば、手を伸ばして殺そうとする人たちもいます。
最近だと、真実をテーマにテレビの報道が真実なのか、それともSNSが真実なのか?と、真実について考えさせられる機会は多いのではないでしょうか。ひょっとしたらこの話の状況を理解しやすい人もいるかもしれません。寓話に取り上げられている「怪我」の解釈が難しいところですが、真実を訴えることによって権力者から報復を食らうことになったり、真実を知ったことで全てを疑うようになり、精神の没落に陥ってしまう状況を指すとしたら、真実に気づかない人からしたら、ああはなりたくないと思うのは想像できることだと思います。
さて。そこで、さらに一つ付け加えてみるとします。
真実に気づいたが、しかし、その真実もまた真実ではない嘘だった場合、あなたはどうやって空嘘の洞窟から脱出しますか?
今日は、この問の手がかりとして、私たちの思考がどのように作られていったのか、哲学の起源から考察をしていこうと思います。
まずは、ギリシャ神話まで遡ってみます。
かつてギリシャ・ローマ時代に隆盛した密儀宗教としてオルフェウス教がありました。ギリシア神話に登場する吟遊詩人オルフェウスは歴史家の間でも実在する人物ともされ、彼はオルフェウス教の始祖となります。史実の中のオルフェウスも神のように崇拝されていたと言われています。おそらく、現人神のようなイメージではないかと思います。
悲しみの吟遊詩人
オルフェウスには妻がいました。彼は妻のことをとても愛していました。妻がいる生活はオルフェウスにとっても幸せな日々でした。
しかし、ある日、彼の妻は毒蛇に噛まれてしまい死んでしまいます。妻を突然失ったオルフェウスは、彼女の死を受け入れることがなかなかできません。毎日悲しみに暮れ、竪琴の哀切な音色を響かせながら彷徨い歩き続け、妻を追うようにして冥界へと足を踏み入れました。
冥界には地獄の番犬と呼ばれるケルベロスが見張っています。生者や亡者はケルベロスに捕らえて貪り食われるほど危険な場所です。オルフェウスを見つけると、ケルベロスはオルフェウスに襲いかかろうとしましたが、番犬に構うことなく歌い続ける彼の美しい歌声と琴吟の音色にすっかり聞き入ってしまいました。死者の霊を小舟で運ぶ使者たちもオルフェウスの歌にうっとり聞き惚れてしまうほどです。オルフェウスの音楽は生者のみならず死者までも魅了しました。
そうして、気の赴くままに暗闇の奥深くへ進んだオルフェウスはとうとう冥界の王の下へたどり着きます。
「あなたが冥界の王ですか」
「人間の男か。よくここまで来れたな。この私に何の用だ。」
「お願いです。妻はここにいるはずです。どうか妻を返してください。妻は毒蛇に噛まれて死んでしまった。妻が死んでからぽっかり心に穴が開いてしまって、この先私はどうやって生きていけばいいのかが分からないんです。お願いします。どうか、、どうか妻を返してください!!」
必死のオルフェウスの訴えに冥界の王は条件を出します。
「いいだろう。私はお前の妻を後ろからついていかせる。躊躇うことなく前を向いたまま進め。冥界から抜け出すまでの間、後ろを振り返らずに進むことができたなら、お前の願いは聞き入れられるだろう。」
「本当ですか!!ありがとうございます!!!わたしは決して振り返りません!!」
大喜びをしたオルフェウスはさっそく冥界の出口へと向かいます。
どれぐらい続いているのか分からない暗闇の中、骸骨の骨が敷かれた小道をひたすら歩き続けます。
3時間が過ぎ、6時間が過ぎ、そして1日中歩き続けます。
歩いても歩いても薄暗く不気味な光景が続き、次第にオルフェウスの心に不安がよぎり始めます。
本当に地上に戻れるのだろうか。
こんなところまで来てしまってよかったのか。
俺は、なんのためにこんなところまで来てしまったのだろうか。
誰もいない。
生きている人もいない。
転がっている骸骨が俺を呪っているように見える。
俺はここで死ぬのか?
こわい。こんなところで死にたくない!
これは現実なのか?本当に妻はついてきてるのだろうか?
足音も気配も何もない。
俺は一人でずっと歩いたままだ。
本当はずっと一人なんじゃないのか。
俺はあの冥界の王に騙されたんじゃないのか?
そうだ、そうに違いない!!
ここは地獄だ!地獄にいる神が人間を助けるはずがない!
あいつは俺を騙したんだ!!
オルフェウスに激しい後悔の念がこみ上げました。こんなところまで来なければよかったと考えるようになります。
足取りが重くなった頃、目の前に小さな光が見え始めました。
やっと出口が見えてきたはずが、不安や疑いはオルフェウスを支配し続けます。オルフェウスは置かれている状況から逃げ出したい気持ちでいっぱいです。
「あの光はあいつが俺を油断させて騙そうとしてるだけだ!!どうせ外に出れたとしても崖しかないんだろ?
俺を突き落として殺すつもりなんだ!
どうせ妻も後ろにいないんだろ?!
なぁ!そうなんだろ!!??」
そして、彼は不信感のあまりついに後ろを振り返ってしまいます。
しかし、オルフェウスは愕然とします。
そこには確かに驚いた表情で見つめる妻の姿がありました。
「あなた、、、!」
「!!!!!!!」
「なンデ、、、、フリ、ムイタ、、ノ、、、、。」
次第に消えていく妻の姿。
愛する夫の腕を掴もうとしますが、届かないまま消えてしまいます。
それがオルフェウスにとっては妻の最後の姿となりました。
その後、オルフェウスだけが地上に帰ることができましたが、妻を救えなかったことを後悔し、女性との接触を避ける禁欲的な生活を送るようになりました。そして、この教訓をもとにオルフェウス教を広めるようになります。
少しアレンジさせて頂きましたが、このお話は日本のイザナミとイザナギの黄泉の国の話を対比されることもあります。黄泉の国へ行き来することがポイントのようです。
ギリシャ神話では、オルフェウスの神話をもとに様々な話が展開されています。
冥界を往還した伝説的な詩人オルフェウスを開祖として、ここからまた冬ごとに冥界に降り、春になると地上に戻るペルセポネー、同じく冥界を往還したディオニューソスもしくはバッコスも崇拝されるようになりました。そして、冥界との行き来に伴う神話から人類の宗教が生まれたのです。
さらにこのオルフェウス教は、魂と肉体の二元論、転生、輪廻からの最終解脱などを基本的な教義とする霊肉二元論を確立させ、この考え方はピタゴラス、ソクラテス、プラトンの哲学まで影響しました。人間の霊魂は神性および不死性を有するにもかかわらず、輪廻転生(悲しみの輪)により肉体的生を繰り返す運命を負わされているという点と「悲しみの輪」からの最終的な解脱、そして神々との交信を目的として、秘儀的な通過儀礼(入信儀式)、禁欲的道徳律を定めていたことが主な特色となります。
なぜオルフェウス神話がそこまで重視されるのでしょうか。
それは、オルフェウスの神話は、オルフェウスの音楽の腕前だけでなく、冥界での目覚ましい冒険、妻との不運な恋、そして冥界の王による神の導き手としての役割にも及んでいるからです。最愛の妻を取り戻すために黄泉の国へ下った彼の物語は、音楽の力と繋がりや救済を求める人間の切望を表す深い隠喩として機能しています。
古代の記述によれば、オルフェウスは魔法の竪琴を持っており、その旋律は神々や動物、さらには無生物の心をも揺さぶる力を持っていたとされています。神話的な側面は、魅惑的なハーモニーを奏でる音楽が、死すべき存在の境界を超え、神の領域に触れることができるという考え方にあるようです。
ピタゴラス
オルフェウス教と最も古いつながりのひとつは、紀元前6世紀に生きていたピタゴラスです。彼はギリシャの哲学者、数学者、精神的指導者で、哲学的・宗教的学派であるピタゴラス派を創始します。ピタゴラス学院ではオルフェウス的態度が重んじられ、例えば、ピタゴラスは軌道上を回る7つの惑星がそれぞれ独自の音を出していて、そのハーモニーが宇宙の調和に繋がっていると考えたことで現在のドレミの基本となるピタゴラス音階を定めました。 このピタゴラスの系譜には、プラトンやプロティノス、アウグスティヌスらも名を連ねています。さらに彼の教えは、中世の著名な錬金術師や、その後の魔術の実践者、そしてピタゴラスが中心的な役割を果たしたフリーメイソンやイルミナティなどの秘密結社を通じて西洋世界に広められました。
ピタゴラスの手元にあるものはコンパスでしょうか。手には正四面体がありますね。一方、フリーメイソンのシンボルは今でも定規とコンパスが描かれています。フリーメイソンにとってのピタゴラスの偉大さが伝わってきますね。
フリーメイソンについてはこちらで記事にさせて頂きましたのでご参照ください。
たびたびピラミッドの三角形と併せて使われている、アメリカドルにも描かれるプロビデンスの目も三角形です。
三と言えば、第三の目と言われるものは松果体とされています。松果体と言えば、デカルトですね。彼は三次元空間を完成させた人物でした。
そして、これまでの記事で取り上げてきましたダン族がいたケルト人のシンボルも三脚巴です。
ケルト人に関してはこちらの記事から取り上げさせていただきました。
昔の記事で恐縮ですが、よろしければどうぞご覧くださいませ🙇
彼らにとって奇数である3という数字は特別な要素がありそうですね。
話をもどしまして、ピタゴラス派によるフリーメイソンの活動の背景には西洋の神秘的な伝統の起源とエジプトからクレタ島、ギリシャ、そして西洋世界の他の地域へと思想やシンボル、宗教的な習慣が移行してきた歴史に起因しています。人々の大移動による軌跡は歴史を通してその真の起源をたどることができます。
イタリアの哲学者であり、現在イルミナティ・アカデミーのグランドマスターであるジュリアーノ・ディ・ベルナルド氏はこう述べます。
さらに続けて、
と、結局のところ根本的なところでは同じ宗教であり、神話から生まれているフリーメイソンとイルミナティに違いはありません。そもそもイルミナティとは、フリーメイソンから派生し、フリーメイソンの活動を大衆に広げた役割を果たしました。
ですので、西洋秘教と真のフリーメーソンを語ろうとするのであれば、オルフェウスの歴史を十分に理解する必要があります。有名なフリーメイソンの学者であるアルバート・パイクは、その代表的な著作『道徳と教義』の中で、オルフェウスの秘儀とフリーメイソンとのつながりをこう示唆しています。
20世紀の著名なメーソン哲学者・歴史家Many. P.ホールも言います。
霊肉二元論
オルフェウス教は、初期のキリスト教にも少なからず影響を与えました。救い主であるキリストとして竪琴を抱えたオルフェウスが描かれることもあったほどです。
基本的な考え方は「人間は魂と体からなり、魂は死後肉体を離れて輪廻転生する。」というものでした。神話の中では、オルフェウスが冥府に下っていき、帰ってくるといった形で魂の存在が暗示されています。
「肉体の牢獄」を意味する「ソーマ・セーマ」という概念は、古代ギリシャのピタゴラスやプラトンの教えに関連する有名な言葉のひとつです。 この言葉は、魂は肉体の中に閉じ込められ、私たちの真の精神のために牢獄のような役割を果たしているという古代の信仰とグノーシス的な概念を表しています。
ソクラテス
ソクラテスの霊肉二元論に対する考え方は、哲学書「パイドン」からもよくわかります。師ソクラテス死刑の日に獄中で弟子達が集まり、死について議論を行う舞台設定で描かれていますが、ソクラテスが死をどのように考えていたか、そして魂の不滅について話し合っている場面となっています。
その中でソクラテスは「死とは魂の肉体からの分離」であると言い、思考を肯定し、肉体を完全に否定します。
ソクラテスは、魂を肉体からできるだけ切り離しながら魂を自分自身として集中し、独立して生きるように習慣づけることこそが浄化であると指摘します。また、魂の不死性についても提唱しており、相互循環の論証として美・醜、正・不正、分離・結合、冷・熱のように、反対物は相互に生成し合う関係にあり、生・死も同様である。死者は生者から生まれ、生者は死者から生まれるという循環がなく、一方通行的なものであれば、やがて万物は死んでしまうことになる言います。
支配の定義
続いて、ソクラテスは「合成されて出来たものは同じ仕方で分解されるが、非合成的なものは分解されない」「自己同一を保つものは非合成的で、自己同一を保たないものが合成的」であると条件を付け、「魂」は神的・支配的な性格を持ち「肉体」は奴隷的・被支配的な性格であること、それゆえに「肉体」は分解されても「魂」は分解されないことを指摘します。
こうして、神的・支配的と被支配的・奴隷的な関係までもが霊肉二元論から生まれました。
この支配的関係はプラトンの作品である『国家』に、正義についての議論の中で支配の定義がなされています。
その内容は、「医者」「船長」「馬丁」などを例に、「支配 (世話)-被支配 (被世話)」の関係を持つ「支配者の知識/技術」というものは、「対象 (被支配者) を善くすること」「対象 (被支配者) の利益」のために存在しているのであり、(厳密な意味での)「支配者」とは、「被支配者の利益」のために考察・命令する者であると述べています。
しかし、これに対し別の哲学者から反論も受けています。
例えば、「羊飼い」「牛飼い」の場合、「支配者」が「被支配者のためになること」を考えて行うのは、あくまでも「自分自身の利益」のためだということ、そして、「正しいこと (正義)」も「その「支配者の利益」のために、被支配者に対して求められるもの」であり、被支配者にとってそれは「自分よりも強い者 (支配者) の利益」「他人にとって善いこと」でしかないこと、逆に「不正なこと (不正)」は、そうしたお人好しの「正しい人々」を支配する力となり、支配者にとっての「自分自身の利益」となることを主張されます。
確かに賄賂や汚職ばかりの政治に税金を支払うのは、お人好しの正しい人々ですね😅
続けて別の哲学者は、「不正な人間」が常に「正しい人間」よりも「大きな利益」を得ることを、様々な事例を挙げて説明し、その最たるものが「国民全体から収奪」して国内外から「祝福された人」と呼ばれる「独裁政治」であると言いました。この理屈も分からなくもないです😅
これに対し、ソクラテスは「技術」には、それがもたらす「固有の利益」があり、それらと (技術者自身が「自分の利益」を得るための)「報酬獲得の技術」は別ものであり、(先に述べた通り)「技術」や「支配」それ自体は、「支配者自身の利益」ではなく、「被支配者の利益」のためのものであること、つまり、他者にとって役に立つものであるべきだとされます。
そして、一般的には、はじめから「支配者」の地位につく者などおらず、金銭・名誉などの「報酬」が、別に与えられることで初めて人は「支配者」の地位につくのだと言いました。更に、金銭・名誉などでは説得されない「優れた人々」を「支配者」にするには、強制・罰などが必要になるが、中でも最大の罰は、「自分が支配することを拒んだ場合、自分より劣った者に支配されることになる」ことだと言います。
これは、降格や左遷が具体例かと思われますが、出世願望がないと無能な上司の下で働くというのは、今の時代でもよくあることかと思います。
しかし、正義とは何か?を議論するはずが、脇道の議論に逸れてしまったため「正義」について「何も知っていない」ことが分かっただけであり、結局は「正義それ自体」が分からなければ、何も判然としないままであると述べた後、さらに「正義」の議論を展開させますが、今回の記事では「支配」について取り上げたいので、いったんここで区切ろうと思います。
プラトン
プラトンもまた対話「パイドロス」の中で、彼はオルフィズムの伝統に触発された神話を提示し、転生と審判のサイクルを経る魂の旅という概念について論じています。
魂の転生に関するエジプトとオルフェウスの教え、そして魂の不滅と超越的な領域との合一を切望するプラトンの信念は類似しています。魂はsōma「身体/墓」の囚人であるというオルフェウスの信仰とともに、グノーシス主義に共鳴する教えを暗示しています。sōmaの語源は、プラトンは肉体が魂の器であると同時に、閉じこめられた墓の役割も果たしました。
この対話は、冒頭で取り上げました「洞窟の比喩」の物質的な領域における魂の囚われという概念についての洞察を提供し、後の哲学的・宗教的運動におけるオルフェウスの思想やグノーシス思想の影響、キリスト教を含む古代の知恵の伝統間の広範な対話を浮き彫りにしました。
肉体と魂は別ものであるという霊肉二元論からあらゆる西洋的二元論思想が確立されたわけですが、プラトンはさらにソクラテスの支配・被支配的関係の二元論をもとに資本主義かつ量産的物質社会の土台を築くことになります。
資本主義といえば、雇う側と雇われる側、支配する側と支配される側で分かれるということは、今ではよく理解されていることだと思います。
株主と会社という構図もそうですね。
プラトンはこの支配する側と支配される側を「知」と「行為」とに分離させます。
「知」・・・命令=支配
「行為」・・・服従=執行
設計作業で例えるなら、緻密な設計作業が「知」の部分に当たり、設計を元に製造する部分が「行為」に当たります。工業デザイナー(設計)と工場(製造)は効率化を図るために重要な分業体制です。
プラトンの美を融合したユニークな思想は何世紀も続くきました。 しかし、彼の著作のうちで特にこの支配の概念の部分が長く活かされていもいるのです。知と行為の関係を支配に置き換えたとき、もっと真実らしく説明するために製作の分野に事例に求めました。この置き換えはいっそう強化され、実際にプラトンは、その哲学上の中心的概念である「イデア」という用語を、製作の領域における経験から得ており、それに気づいた最初の人物だったのです。
何かを制作する上では、必ず原型があります。オリジナルといえども、幾何学を原型にして創造されるものもあれば、自然というデザインを原型にして創造されるものもあります。プラトンの生きた時代のローマでは、道路建設のために道路幅や道路の材質などの基準(原型)が用意され、馬車等にも同じ寸法の車輪が使われていたことが知られています。そうした決められた製作技術がプラトンによって生み出され、ローマ帝国の崩壊とともに消えていき、後のドイツに引き継がれ、現代では世界に一定の尺度が広くいきわたりました。この量産技術の確立は、戦争の暴力装置の量産に使われていくことになります。
私たち人間は意味がないことはやりたがらない生き物です。
仕事で意味がなさそうに見えることでも、お金がもらえるという意味がある以上、やり遂げることができます。
しかし、製作においては別です。
料理でも、与えられたレシピをもとに料理をする人がほとんどです。知的好奇心が強い方は分かるかもしれませんが、灰汁を取る理由や、灰汁が何からできているのか、下ごしらえがなぜ必要なのか、料理さえ出来上がればいいと深く知ることを気にしない方もいるかと思います。幾何学がどんな意味が込められているのか、どんな自然のデザインから取り入れられたのか、オリジナルの「知」は知られなくても製作は成されることは可能です。
このように知と行為の分離は、日々の経験にすぎません。なぜなら、製作の過程が、知と行為の二つの部分に分かれていることは明白だからです。第一に、あるべき生産物のイメージあるいは形(エイドス)を知覚し、次いで、手段を組織化し、仕事に取りかかります。
プラトンは、仕事と製作を人間事象の領域に与えるために、活動と製作に置き換えようとしましたが、このような彼の願望は、彼の哲学の中核であるイデア論から見てみても最も明白です。ただプラトンの著『国家』においてのみ、知は、標準、尺度、行動基準に変形されています。これらの基準はすべて、ギリシャ的意味における「善(グッド)」、すなわち「役に立つ(グッド・フォー)」観念に変化しました。
善においては、人間の役に立つための「知」をもとに生産するという「行為」は、支配されるということ、そして服従を意味するということです。
資本主義における大量生産の仕組みもイメージしやすくなりますね。
支配という言葉を聞くとお金や権力、地位を思い浮かぶこととなりますが
実はそれだけではなく、他者の「知」によってすでに支配されていることを気づかなければいけません。
それでは、この量産的資本主義社会では、どのようにして精神性が実社会に反映されているのでしょうか?
ハイデガー哲学をもとに解説してみましたので、気が向きましたらこちらも併せてお読みくださいませ🙇♀
最後に個人的な見解としてですが、ソクラテスやプラトンも自分たちの利益を追求して現代に残る資本主義の問題を引き起こしたわけではないと思います。とくにプラトンは途中で違和感に気づき、オルフェウスの教えに対し非難を向けることとなります。ソクラテスも正義と不正の議論の中で、善には不正が入り混じり、後の不正もはじめから不正があったわけではなく、善に入り混じっていた不正が後で浮き上がり不正となると論じているように、善が生まれれば、必ず不正が入り交じるものです。つまり、例えばですが、善をなす人々の一部に善をなしながら不正を抱く人もいて、後にその人は不正一色に染まる、というような現象が自然の法則としてあるということです。ですので、人間を罰したり撲滅すれば、それで済む話ではないでしょう。はじめから疑いの心を張り巡らすことも1番の解決方法でもないと思います。しかし、善をなす以上は、不正が生じることを踏まえて挑む必要があるということを現代の私達は理解しなければいけないのかもしれません。
それでは、今日も最後まで読んで頂きありがとうございました。
貴重な時間を頂戴しましたこと、心よりお礼申し上げます🙇
よろしければ、次回以降もお付き合いいただけますと嬉しいです。
それでは、またお会いしましょう。
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