義務感で行動?やりたくない病と幼少期のトラウマ 1(雑記)【2020.11.7改訂】


日記、兼、気付き。

その行動はホントに自分がやりたくてやってる?自分の中のやりたくない病の分析。


気持ちの良い晴れ空の下。ある人へのプレゼントを買いに店まで歩きながら、ふいに自分の気持ちがあまり乗っていないことに気づく。 

なんとなく「やらされている感」を背負っていて。やれやれと言うか、しぶしぶと言うか、ちょっとやりたくなーい、体ダルーい感じ。

色々と相手の欲しいものの調査をし、数ある店のなかでもベストだと思うお店に行ったのだけど、昨日は閉店時間に間に合わず。。「今日こそは!」と向かったのに!である。

仕事だったり、誰かに強制されてやっていることでは全くない。「自分で決めて自分で行動しているのに、何か、乗り気ではない。
へんだな??」と。。

よくよく、自分の中を探ってみると、そこには少なからず
「義務感」があることに気づいた。

で、なんでそう思うのかを深掘りしてみた───

頭と心の対話

以下、そのあとの私の「頭」と「心」の会話。

心=店まで結構距離があるので、ぶっちゃけ、ちょっとめんどくさい。あと、〈今回のプレゼントは、一人目の人にあげたから、ついでに、みたいな成り行き〉のようなものだしなあ

頭=でも、〈誕生日が迫っているので、絶対今日いかなくては〉!

心=別に仕事じゃないし、行かなくてもいいんでしょ?頼まれてもないし。

頭=いやいや、プレゼントしようと思ったのは、誰に命令されたわけでもなく私の意志だよね?

心=そうね。まあ、あげなくても私は困らないけどさ。でも二人は同じグループなので、〈差がうまれることで一方を悲しませたくない〉。あと、今までプレゼントしてなかったから、喜んでくれればいいなあ。

──と、まあこんな感じで。

要は、自分がやりたいことの動機の中にも、実は「義務感」が混じっていたわけです。義務感の部分は上の対話の〈〉の中。
普段、こんなことをわざわざ細かく分析しないので気づかなかったのだけど、ちょっと、意外だったのです。
「自発的にやっている行動」っていうのは、100%「自分がやりたいこと」で、義務感なんかが混じっていないと思っていたのですよ。
そして、その少しの「義務感」に対して「心が、嫌がっているな。」と気づいた。
実は、とてもとても「義務感」に対して「拒否反応」を起こしてしまうんだ、と。。

これはもしかしたら、ある特定の人に強く現れて、そういう人にしかわからない感覚かも知れない。

おそらく「良い子症候群」の後遺症。

─────

「いい子症候群」の、行動に対する拒否反応

話は変わるが、私は幼少時、しめつけが厳しく怖かった母親の下で母の顔色を伺って生きていた。自分の欲求・意志というものをほとんどあきらめ、いわば、操り人形のような感じで。
そして、言いつけや規則をよく守る「良い子」になっていった。
親や先生の言うことをよくきく。
反抗しない。わがままを言わない。
親の期待を裏切らない努力をする。etc..

(いい子症候群についてはネットに沢山あるので調べてね。一つだけ貼っときます。https://family.php.co.jp/2020/07/post22.php )

自分がしたいことをすると怒られる

自分の「したいこと」を自然にすると、母親の都合で怒られたり、顔を曇らせられる。
日常的にたくさんあるので、ここでは挙げきれない。(日常系の一例としては、例えばおやつに出されたクッキーを普通に食べようとすると、すぐさますごい力で、クッキーのかけらをこぼさないように頭をテーブルの上に差し出すようにかなりの前傾姿勢にされる。「ボロボロ、床にこぼさないで!気を付けて食べなさい!(+不快感を表す眉間のシワ)」という圧がすごくて、前傾姿勢もつらいし一粒もこぼさないように注意して食べるため、正直「クッキー美味しい!」とか感じるどころではない。→「おやつ」は「美味しい」よりも「絶対にクッキーのかけらを床にこぼさないこと」が私にとって第一の命題になる。)
私のなかで、「やりたいことを禁止される」「やりたいことをやると怒られる」のは「いつものこと」すぎて、もはや土壌や地面のようになっているので、砂や石一つ一つを意識できない、みたいなレベルなので。砂粒を認識する作業も、自分の中でしたくないみたいで、上のクッキーの例も、時間かけてようやく思い出せた。

日常系とは少し違うので覚えてる例としては
おままごとにリアル感を出したくて、発泡スチロールをむしってご飯つぶにすることを思い付く(多分三~四歳)。何か買ってもらわなくても、本物ぽいし、自分ではめちゃくちゃ良いアイディア!だと思ったが、きれい好きの母親に超イヤな顔、怖い顔をされ「散らかるからダメ!」と怒られ、リアリティご飯は実現せず。
小学5.6年生になって、友達に誘われて自転車で少し遠くへ出かけようとすると「危ないからダメ!」
心配するよ、という意思表示だけでなく、明らかに不快感な、めちゃめちゃ眉間にシワ寄せた顔をされる。

私が、相手の空気に敏感(HSP=Highly Sensitive Person ハイリー・センシティブ・パーソン。 子供の場合はHSC =Highly Sensitive child ハイリー・センシティブ・チャイルド)なのも大きいかもしれない。
「母親が怒っている。私がこれをすると嫌だと思っている。」
という情報(母親の表情・声色・他=「空気」と呼ばれるもの)を受け取った末、「私はこれをやりたい。」と思ったことでも、相手の空気を読んで「これは、やってはいけない」と考えてやめてしまう。
そして、母親の機嫌を損ねないために「私がしたいと思うことは、きっと何もしない方がいいんだ」と徐々に思うようになる。

したくないことをさせられる

反面「やっていること」は「大人の都合でやらされていること」で、「自分では大してやりたくないこと」。
一般的に言えば「学校の勉強やら宿題」とか「基本の生活しつけ」。
個人的に言えば「食事」とか「急かされること」。
そんなに食欲ないのに、親が決めた量のご飯を食べろと言われ、お腹いっぱいでつらいのに「残すな」と食べさせられる、とか。
普通に着替えてると「サッサと着替えなさい!(怒)」とか。
尿意もないのに「外でトイレに行きたくなると汚い公衆便所に入らなければならず(母親が)困るから」と無理やり、出ないトイレに行かされる、とか。

行動すること=やりたくないことに

上の二つを繰り返す結果、行動するかしないか、が、
「自分が何かをしたいからする」のではなく、「親がやれというからやる」ことになる(=やらされてる感)。
「自分のやりたいこと」は、やってはいけないと怒られたり嫌な顔をされるから「やらない」。

自分が「行動すること」のうち、ほとんどが「やらされてること」になっていく。

そんなことを繰り返すうち「行動する」ということ自体が「やらされてる感」に直結しやすいのかもしれない。

散々。さんっざん!やりたくないことをやっているうちに「行動すること」自体が嫌になってしまう。

また、長年「やらされていること」ばかりになっていくうちに、「心が嫌がっている」こと自体にも鈍感になっていったのだろうと思う。

おそらく幼少期からのその癖が、未だに抜けない…んだと思う。

こういうのは一体なんと呼べばいいのですかね?

ネグレクトでもなく、ご飯作ってもらえてたし、暴力などの虐待でもなく。(連続した舌打ちから、ひっぱたかかれるのはしょっちゅうだったけど。)

トラウマ?

どなたか、ご存知のかた、教えてください!!!

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義務へのアレルギー反応

そうやって、プライベートのホントの自分(周囲には滅多に見せない)は、ちょっとの「義務感」にも、実はものすごくアレルギー反応を起こす。

自分の中から発したものでないことや、自分ではあまり必要ではないと思っているけど、世間的にやった方がいいこと、などは、しぶしぶやりつつも、心は拒否していることが多い。

素直に自分を出せる健全な幼少期を送った人、また嫌なことは嫌と言える自分を貫ける強さがある人は、「やりたくないことはやらない」という、シンプルな論理で行動できると思う。

が、私を含め、「言いつけをよく守る、良い子症候群」の子達は、そこがこじれている。

これまでの人生、やりたくないことを沢山やってきたからこそ、
やりたくないことがキャパオーバーになっているはずなのだ。
堪忍袋の緒が切れる、じゃないけど、そういう感じ。
それが「義務感アレルギー」。

で、それ ( 義務感 )をとても不愉快に感じて、やる前から気が重くなって、そこばかり意識してしまって、
→結果、すんごい重たい「やらされてる感じ」になる。っていう。

この「自らが選んでいる(はず)にも関わらず、やらされている感」「義務感から行動している」っていうのが、日常至るところにちょくちょくあって。ちょっと問題だなあ、と思ってる。

なんか、本当の本当はそんなにやりたいことじゃ無いのか?っていう。


2に続く

https://note.com/tekumakumayak9on/n/nd19d5cc7fa32







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