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3.11から12年、復興途上の宮城旅

東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)

 2011年3月11日14:46:18。牡鹿半島から南東方向に130km離れた三陸沖、深さ24kmを震源とするM9の地震が発生。国内観測史上最大規模、世界で見ても4番目の規模の地震でした。宮城県栗原市で震度7、千葉県〜岩手県の広い範囲で震度6、沖縄など一部地域を除き、鹿児島県まで揺れました。
 三陸沖から茨城県沖にかけて400kmもの範囲が連動して巨大地震になりました。通常の地震では大きな揺れは1回ですが、2~3回大きな揺れが続けて発生しました。さらに、建物ごと揺れている感覚。長周期地震が3分ほど続きました。特に高層ビルでは高い場所ほど大きな揺れを感じました。12年経った今も余震も続いています。2022年3月16日には、M7.4、震度6強の福島県沖地震が発生しており、まだまだ油断できません。
 地震発生から20〜30分後に巨大津波が東北、関東地方太平洋沿岸を中心に巨大津波が押し寄せました。揺れによる被害は比較的少なかったものの、地震の揺れより津波によって亡くなった方が多く、福島第一原発では津波により電源喪失し、メルトダウン、水素爆発が発生し、放射性物質が発生。20km圏内の住民が避難する事態になりました。
 震災直後、ガソリンなど物資不足、東京電力管内では、計画停電による電車の運休や電力の停止などがありました。さらに、長野県北東にある栄村、静岡県富士山麓の街、富士宮市で震度6強の地震など、日本各地で誘発地震と思われる地震が発生。富士山の噴火の懸念も伝えられました。

震災から9年後の宮城旅

 あの日から12年が経ち、復興は進みつつありますが、風化させてはいけません。今回は、2020年1月に訪問した宮城旅のまとめ。塩竈神社→女川駅→石ノ森萬画館→石巻グルメの行程でお送りします。また、2023年3月に静岡市三保半島にある東海大海洋博物館で津波の脅威を体感しました。

女川駅

 JR石巻線の終点。女川駅は津波により、エレベーターを残して流されました。東に女川港を望みますが、海岸沿いにあった建物も津波により破壊されました。震災から半年後、復興計画を策定。減災を意識したコンパクトシティがコンセプト。山を削り、平地をかさ上げしました。女川駅を中心に、教育、医療、交通、商業、行政の拠点を集約し、住宅地から中心市街地へと人の流れを集約化しました。水産加工場、観光施設も隣接されていました。
 女川駅は、2015年3月に再建し、JR石巻線浦宿〜女川間が3月21日に再開されました。女川駅構内、2階に温泉施設 ゆぽっぽがあることが特徴です。震災前は女川駅隣の建物にありました。女川温泉の泉質は、弱アルカリ泉。中和によって垢、確執などの汚れを落とすことから、美肌の湯として効果が期待されます。地元のお土産を購入、ゆったりと休憩もできます。3階には、展望室があり、復興後の女川の街並みを眺めることができます。
電車の待ち時間が短い方は、足湯がオススメです。

女川駅


女川温泉ゆぽっぽ
営業時間 9:00~21:00
定休日  第三水曜日
観覧料  中学生以上500円、小学生300円
アクセス 女川駅直結

石巻市

 石巻は、仙台に次ぐ人口です。縄文時代から海の幸が豊富なため、人々が住み着き、平安時代には港として重要な役割を果たしていました。江戸時代、仙台藩に異動した川村孫兵衛が北上川を改修。当時の北上川は増水時、洪水によって流路が変わり不安定、度々氾濫を起こしました。氾濫防止のために堤防を築いたり、北上川と支流の江合川、迫川の流路を統合しました。これにより、低湿地の開発が可能になったり、船運の便も良くなりました。開発によって新田が続々と造られ、石巻港は米などの物資を一時的に保管する御米蔵などが多く造られ、江戸などへ運ぶ経由地として栄、仙台藩にとって需要な港になりました。
 しかし、市街地の近くに堤防がなかったため、津波が直撃し、石巻市内だけで約4000人もの死者行方不明者を出しました。この教訓から、2012年に旧北上川の堤防計画を策定し、建設が進められていました。それと同時に市民の憩いの場となる水辺空間の整備も行っています。旧北上川下流の20kmに堤防を建設している住民の理解を得ることから始まり、苦労がうかがえました。

石ノ森漫画館

 石巻市出身の漫画家、石ノ森章太郎さんの作品が展示されている記念館。石巻駅から石巻マンガロードを通って15分ほど歩き、旧北上川の中洲にあります。石巻マンガロードには、石ノ森作品のモニュメントがずらりと並んでました。石ノ森章太郎さんは、石巻市の北にある登米市中田町石森地区の出身。ペンネームの石ノ森は故郷が由来です。学生時代、自転車で2~3時間かけて石巻市の映画館に通っていたため、第二の故郷とされています。
 主な作品は、仮面ライダー、サイボーグ009。博物館内はミュージアムショップ、原画展示やアニメの上映、歴代の仮面ライダーの仮面展示、漫画の世界を体感できるアトラクションもあり、作品の世界観を体感できました。ちなみに、仮面ライダーのほとんどはトノサマバッタ、スカイライダーはイナゴがモデルです。
 震災時、津波により1階が水没。従業員やお客さんは3階に避難して全員無事。津波を想定して設計されたため、原画など貴重な資料も無事でした。館内には、震災時の状況について細かく書かれています。

ベンチで記念撮影


営業時間 9:00~17:00
定休日  火曜日
観覧料  大人900円、中高生750円、小学生500円
アクセス 石巻駅から1km

金華さば

 石巻の名物の魚は、金華さばというブランドサバ。11月が旬で、金華山沖で定置網、一本釣り、巻き網でとれ、(2014年から東北、関東地方太平洋沖まで漁場が広がりました。)石巻港で水揚げされた一定以上の大型のサバのことを指します。-40℃で瞬間冷凍されるため、鮮度がよく、脂がたっぷりのっていることが特長。当時は金華サバを塩焼きにしていただきました。脂がのり、身も柔らかく、旨味のつまったごはんがすすむ逸品でした。

金華サバの塩焼定食

塩竈市

 かつての塩釜港は公園として整備されました。塩釜駅から鹽竈神社へ向かう途中に津波到達の標識があり、塩釜湾(イオンタウン塩釜)から1.4km離れたところでも津波が到達しています。徒歩18分の場所まで到達しています。

鹽竈神社|《しおがまじんじゃ》

 東北地方の鎮護、海上の守護として地元を中心に東北地方の方々にも信仰されています。塩土老翁神が主祭神、武甕槌神、経津主神も祀られています。820年にはすでに存在。南西にある多賀城市に国府が置かれると、国府の守護と蝦夷地平定の精神的支えとして都から赴任してきた政治家に信仰されました。他にも、奥州藤原氏、伊達家など東北地方を治めていた権力者に支持されていきました。

津波の脅威を学ぶ

 地震発生から20分後、津波の映像が入ってきたときに津波の怖さを目の当たりにしました。建物を次々と飲んでいき、街が一瞬にして破壊され、最大1.2mの地盤沈下など、地形の変化も起きました。
 また、青森県八戸市にある蕪島神社では、5.3mの津波が到達。神社の境内につながる石段に津波到達地点があります。震災遺構も東北、関東地方の太平洋側の各地で観られ、この地震の大きさを物語っています。

東海大海洋博物館

 三保半島にある東海大海洋博物館では、水族館の他に、津波の実験も行われていました。津波は、地震のとき、海底の断層が上下に動くことによって水面が持ち上がってできるイメージを持たれがちですが、火山活動でも津波が発生することがあります。2022年のトンガの噴火により、衝撃波が発生し、海面が持ち上がり、日本にも1mもの潮位の変化が発生しました。このとき、奄美諸島などで津波警報が発令されました。津波は深い場所ではジェット機並みのスピードで広がります。しかし、浅瀬に近づくに連れ、減速します。減速するとはいえ、時速約30km。砂浜に到達するときにはウサイン・ボルトの100m走に匹敵する速さ。減速する分、浅瀬へ波が集まっていくため、津波は高くなります。岩手県から宮城県にかけて広がる三陸海岸は、リアス式と呼ばれる元々山々だった場所が海面上昇によって沈んでできた地形。複雑に入り組んでいて陸地に向かって狭くなる湾奥に津波のエネルギーが集中しやすいため、斜面を駆け上がります。
 東海大海洋博物館では、海岸を襲う高さ10mもの大津波が発生した場合の実験を1時間に1回行われています。防波堤のありなしによる被害の大きさの違いも学びました。


※2023年4月1日以降、予約のみ受付。

海岸で揺れを感じたら

 津波は車の方が速いため、逃れられると思われる方がいらっしゃいますが、実際は渋滞にハマり、時間がかかります。走って逃げることが一番早いです。揺れを感じたとき、ただちに海岸や河口からから離れるのが鉄則です。しかし、1985年日本海中部地震、1993年北海道南西沖地震では地震発生後5分以内に津波が到達しました。猶予がない、高台がない場合は、津波避難ビルなどの建物を探すか、その場で垂直避難
 しかし、余震と恐怖でスムーズに逃げることができません。緊急地震速報が出ても意外と行動できないものです。そのためにも、訓練は本番のように行うべきです。

津波てんでんこ

 「津波が来たら、い ち早く各自てんでんばらばらに高台へ逃げろ」という岩手県に伝わる津波防災の言い伝え。岩手県では、防災マップ、避難訓練によって普段から防災意識を高めています。避難場所でも安心できず、さらに高い所を目指した結果、助かった事例もあります。一方で避難場所で問題ないと判断し、とどまった結果、津波にあい、亡くなった方も多くいます。過去の経験を鵜呑みにせず、安全な方法を考えるべきであると実感しました。

まとめ

 自然の脅威、復興による新しい街作りの現状を知った宮城旅。阪神淡路大震災を機に、防災は一気に進みました。しかし、地震は予測が不可能。そのため、被害を0に抑えるのは無理です。しかし、被害を抑えることはできます。これが、減災という考え方です。
 旅行を通じて地域経済を活性化させる。ブログを通じて旅した地域の魅力を伝える。それが使命だと考えています。

参考文献

https://www.pref.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/012/174/13_teigen.pdf

https://www.jma-net.go.jp/sendai/knowledge/kyouiku/eqvol/a_tunami_mamoru_ws.pdf

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