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【告知】お寺でシェイクスピアを読みませんか?

来月の9/3(土)に行うイベントの告知をさせていただきます!

今回は,神戸大学の芦津かおり教授をお呼びして,神戸市西区の与楽寺(オンラインでも参加可)でシェイクスピアの四大悲劇と言われる作品のうちの1つである「マクベス」を紐解いてみよう!というイベント(読書会)です。


1.芦津かおり教授について

芦津かおり教授は現在,神戸大学 大学院人文学研究科 文化構造専攻 の教授で,主に「人文・社会/ヨーロッパ文学」を研究していらっしゃいます。

芦津かおり教授の著書には「股倉から見る『ハムレット』」というものがあります。(「ハムレット」も「マクベス」と同じ「四大悲劇」と言われる作品の1つです。)

日本人がシェイクスピア悲劇『ハムレット』を「股のぞき」により自由に書き換えた例を論じ、異文化受容とはどういうことなのかを考える。本文に記した作家以外にも、小林秀雄、太宰治、久生十蘭、仮名垣魯文、堤春恵らの作品を取り上げる。
https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/essay/202004/sp/0013280192.shtml

著書の中で,シェイクスピアは日本の文豪に多大なる影響を与えているということが書かれています。

「夏目漱石」の「吾輩は猫である」という作品を皆さんご存知だと思いますが,その作品の中にも,シェイクスピアに関する記述が見られます。「草枕」「三四郎」といった他の作品も同様にです。

物には両面がある、両端がある。両端を叩いて黒白の変化を同一物の上に起こすところが人間の融通のきくところである。方寸を逆さまにして見ると寸方となるところに愛嬌がある。天の橋立を股倉から覗いて見るとまた格別な趣が出る。セクスピヤも千古万古セクスピヤではつまらない。偶には股倉からハムレットを見て、君こりゃ駄目だよくらいに云う者がないと、文界も進歩しないだろう。
夏目漱石「吾輩は猫である」/青空文庫
余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察するとだいぶ美しくなる。何であんな不愉快な所を択えらんだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり画えになるのだ。水に浮んだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮んだりしたまま、ただそのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。それで両岸にいろいろな草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、衣服の色に、落ちついた調和をとったなら、きっと画になるに相違ない。しかし流れて行く人の表情が、まるで平和ではほとんど神話か比喩ひゆになってしまう。痙攣的けいれんてきな苦悶くもんはもとより、全幅の精神をうち壊こわすが、全然色気いろけのない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリヤは成功かも知れないが、彼の精神は余と同じところに存するか疑わしい。
夏目漱石「草枕」/青空文庫
「ハムレットは結婚したくなかったんだろう。ハムレットは一人しかいないかもしれないが、あれに似た人はたくさんいる」
夏目漱石「三四郎」/青空文庫
ハムレットがオフェリヤに向かって、尼寺へ行け尼寺へ行けと言うところへきた時、三四郎はふと広田先生のことを考え出した。広田先生は言った。――ハムレットのようなものに結婚ができるか。――なるほど本で読むとそうらしい。けれども、芝居では結婚してもよさそうである。よく思案してみると、尼寺へ行けとの言い方が悪いのだろう。その証拠には尼寺へ行けと言われたオフェリヤがちっとも気の毒にならない
 夏目漱石「三四郎」/青空文庫

どうでしょうか。一見シェイクスピアの作品は,私たち日本人には馴染みがないと思われがちですが,少しでも「身近なものなんだな」と感じていただいたのではないでしょうか。

2.なぜ『お寺』でシェイクスピアを読みたいのか

日本の伝統建築である「お寺」と,イギリス文学である「シェイクスピア作品」

一見何の関係性もないと思われるこの2つの要素をなぜ今回のイベントで組み合わせようと思ったのか,と疑問を持つ方もおられるかと思います。

まず「お寺」という場所をなぜ選ぶのかということですが「統合性の獲得」というというものが目的としてあります。もう少し簡単に説明しましょう。

現代は科学が発達したことにより「名付け」「分けて」「記述する」という考え方が主流になりました。しかし,このような科学における考え方というのは人間を対象としたときには,逆効果になる場合があります。

例えば現代では,HSP,LGBTQ,不登校,ギフテッドといったように「生きづらさ」には名前が付けられ,細かく分けて研究され,記述されています。しかし,そのように名付けて正確に記述しても,生きづらさが癒されることはありません。一時的なものです。むしろ,生きづらさに名前をつけたことによって「あなたは私たちが持つ痛みとは違うから」というふうに痛みを線引きするようになり,終いにはどんな痛みにも属すことのできない,グレーゾーンの部分に属さなければならない人,つまり「名前のない痛み」を持つ人が生まれます。

名前をつけるのが悪いと言っているのではありません。

「名前」があることで「私にはこういう痛みがある」と、そう気づいてもらえる。だから、名前の存在自体は必要なのですが、現代の資本主義社会では「痛み」さえも人の目に入れるためには“過剰な“ほどに「名前」を売り出さねばならない。痛みまでも、資本主義の道具になっている。

私は、生きづらさを紐解く糸口として抽象的に言えば「統合」「バランス」といったようなものを大事にしたいと考えています。具体的なものを挙げれば「お寺」「禅」「整体」といったようなものでしょうか。お寺を建てる大工さんの考え方であったり、長期的に身体の健康を考える整体の考え方というのは、自分自身のバランスを整えて日常を過ごすのに、大きなヒントを与えてくれます。

こういったところで「お寺」という場所をわざわざ選んでいるのです。

3.シェイクスピア文学について

イベントでも話すと思うので,ここでは詳しく書かないのですが,なぜシェイクスピア文学を題材にしようと思ったのか。

今回の「マクベス」であれば,人間が既に決まっている運命に飲み込まれていく様子が作品の中で描かれています。

皆さんが「マクベス」のどの登場人物に自分を重ねるか分かりませんが,私はこの「マクベス」という物語は,現代に重ねて読めると思うのです。

現代は科学が発展して,良くも悪くも未来が想像できないほどに,社会も情報も複雑化していきました。そして,老後2000万円問題のように「未来はこうなるから,準備しなきゃいけないよね?」というふうに私たちは未来のことばかり考えて右往左往しています。そして,色んな「生きづらさ」が,この世界に形あるものとして表れる。

「マクベス」のなかのマクベス夫人も、不眠症や夢遊病,不潔恐怖といったような症状に悩まされているシーンが目につきます。

このように,私はこの作品を取り上げることで,皆さんが登場人物に自分を投影し,普段言葉にすることができない感情でも,表現するきっかけになるのではないのかと思っています。

なので,今記事を見てくださっている方の中でイベントに参加する予定のない方もぜひシェイクスピア作品に触れていただければと思います。

4.最後に

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