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居場所のない自分が、「分人主義」を推すというミス

僕は、平野啓一郎さんが唱える「分人主義」を推している。

分人主義とMBTI

いきなり余談ではあるが、
「分人主義」を知ってから、巷に広がる性格診断(MBTIなど)への不満が言語化しやすくなった。

MBTIなどの診断で性格を種類分けすることは、心理学などにおいて1つの手段に過ぎない。(手段にすらならない?)

診断による種類分けで満足するのは、単なる娯楽ではないか。

(互いの診断結果を共有して楽しむ分には良い。ただそれを真剣に捉えて考えるのはリスクではないか?)

なぜなら、人は一つの個人ではなく、複数の分人で構成されているからだ。

分人主義では、

…「本当の自分」の存在を認めない点にあります。 一人の人間がどこにいても一つの個性しかないのではなく、対人関係ごと、環境ごとにいろいろな自分になっていく。…

平野啓一郎公式サイト (k-hirano.com)

と書かれている。

そのため、自分を分析したいのであれば、性格診断テストなどを使うのは逆効果ではないか。
("自分を分析する"ことについても議論が必要だが、ここでは省く)

性格診断テスト等では、あたかも「本当の自分」が存在するかのように思ってしまう。自分を客観的な枠組み(INTPだとかなんだとか)に当てはめることで、自分とは別の何かを作り出し、「本当の自分」だと自覚する。

しかし、「自分」というのは無数の「分人」で構成されているのではないか。

一生できない性格診断テスト

僕も友達に誘われて、MBTI性格診断テストなどを行ったことがある。
しかし、全くもって答え進めることができない。

例えばこの質問

https://www.16personalities.com

下記の点を踏まえると、大きく同意できる
 ・日常的に自分が一人でいることが多い
 ・一人で部屋に籠って作業することが多く、それを快適に感じ落ち着く
 ・幼い頃一人でいることが多く、それを快適に感じ落ち着いていた

しかし、下記の点を踏まえると、全く同意できない
 ・交友関係を気にすることが非常に多い
 ・寂しさを頻繁に感じる
 ・学校などで常に誰かに話そうとしている

そのため、「一人でいるのが好きだ」と偽ることで、自分の孤独や寂しさを言い訳しているのではないかとも考えられる。

しかし、孤独や交友に関する雑念に囚われていなかった純粋な幼い頃(小学低学年)でも、一人でいることが多く、それを快適に感じ、落ち着いていたのであれば、それは"本当の自分"であるとも考えられる。

だったら中間なのでは?と思われるが、それだけは絶対的にないと考える。僕は、「一人が好きだ」という強い感情に自覚があり、それと同時に「人といるのが好きだ」という強い感情にも自覚がある。

このようにMBTI診断に囚われている自分が、恥ずかしい限りだし、時間の無駄でしかない。

結局自分は、"一人でいるより、人と一緒にいる方が好きな分人"と、"その正反対な分人"の両方で構成されている


分人主義を誤解?

 巷に広がる性格診断への疑問や、無意味なホンモノ探しへの不満が原因で、分人主義を推すようになってきた。 
 でも分人主義を推すことで、苦しめられ、人を傷つけることすらもあった。

 僕は、誰もが複数の分人を持っているという前提で人と接しており、また分人の中にも"大きさ的なもの"があると考えてしまっている。 
 
 もちろんそれでは本来の分人主義とは異なってしまうのだろうが、10年間過ごした人と接する時の分人と、初めて接する時の分人ではその範囲が大きく異なるだろう。「幼馴染が10つの分人を知っているとすれば、新しく出会った人は1つの分人しから知らないだろう」と考えてしまっていた。
やはり、信頼度の高い相手には、より多くの分人を見せられるのではないか、と。

 僕は、転校を繰り返し、また自分の悪い性格のせいもあり、幼馴染やベストフレンド的な存在が一人もいない。仲良くなっては、離れていく一方。(物理的にも精神的にも)
ある時までは居たのだが、他界してしまった。それ以降僕には、"お互いに一番信頼できる関係"を築いたことはなかった。(少なくとも意識的には)

僕は、出会う相手のほとんどは自分の知らない分人で構成されているのだな、と思いながら生きてきた。
世間的な言い方にすると、"本当の自分"を見せてくれる相手がいないんだな、と言い換えられるだろう。

幼馴染やベストフレンドのいない自分は、できるだけ多くの相手の分人を知ろうとしていた。
相手の全てを知ることに必死だった。
でももちろん、プライドは非常に高いため、あからさまには知ろうとはしていない。受動的に知ってしまい悲しくなる、ことの繰り返しだった。

分人主義を推すというミス

一人、僕は自分のプライドを捨てて接していた相手がいる気がする。両思いの相手だ。
僕は、その人の全てを知ろうとしてしまっていた。できるだけ多くのその人の分人を知ろうとしていた。
そうでなきゃ、信頼し合える関係とは言えないし、愛し合っている関係ではないと思っていた。
全ての分人を知れば、それは"本当の相手"を知れると思っていたし、一番との関係"になれると考えた。

しかしそれは、分人主義を基に考えれば根本的に間違っているのではないか。"本当の相手"を知りたい、と思ってしまう時点で間違っていた。僕は、分人主義を中途半端に理解し、そして推す。居場所のない自分は、相手の全ての分人を知ることが、自分の居場所形成になり、一番の相手になると考えた。

しかし、相手には、僕に接する時の分人というものがあり、それとは別に他人に接する時の分人というものがある。
分人は数えられず、多寡はなく、全てもクソもない。それぞれの分人は全くもって比較できるものではなく、大小もない。

居場所のない自分は、心の底から、「信頼できる相手」を作りたがり、居場所と言えるコミュニティを作ろうとしていた。しかし、分人主義を推し始めてからは、相手と言う存在を「対人関係ごと、環境ごとにいろいろな自分になっていく分人」と認識し、その 全て/多く を把握しようとしてしまった。

「相手の一番になりたい」程度の、抽象的で感情任せな欲で済ませば良かったのだろう。

当時の自分が、どこまで分人を意識してコミュニケーションしていたかはわからないが、今から当時を思い返すと、本稿での過去の自己分析はある程度正確ではないかと考えられる。

まとめ

やはり、ホンモノ探し幻想に囚われないのは非常に難しい。いつでも、心では「本当の自分で接したい」「本当の相手を見たい」を思ってしまう。そこに頭で推す分人主義が後押しし、いくつかある相手の側面の一つがホンモノだ!と思ってしまう。

でも違う。
それぞれ分人は、比較不可能で、唯一無二の分人だ。
人は複数の分人でできている。
ホンモノも大小もない。

追記:
考えていることを、ただひたすらに書く駄文になってしまった。
時間のある時に編集したい。

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