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ショートメッセージ

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聖書から日々黙想をしている中で、短いひとまとまりのメッセージを書き留めています。それをおすそわけします。ご面倒ですが、聖書箇所について聖書を開くか、検索してくださると、いっそう身… もっと読む
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#預言者

自分の足で立ち上がる預言者

自分の足で立ち上がる預言者

エゼキエル2:1-7 
 
祭司の子エゼキエルに、主の言葉が臨み、幻を見せられました。不思議な生き物でした。その遙か上に、人の姿のようなものが見えました。エゼキエルに向けて語り始めます。「自分の足で立ちなさい」と、エゼキエルはそれを聞きます。しかし、「霊が私の中に入り、私を自分の足で立たせた」などと言っています。
 
これは、自分の足で立ったことになるのでしょうか。主は自ら命じておきながら、立ち上

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立ち上がらせたのは幻

立ち上がらせたのは幻

イザヤ6:1-8 
 
私イザヤは、玉座の主を見ました。それは、ウジヤ王の死の年でありました。ウジヤ王は、半世紀ほどの長きに渡り、南ユダ王国を治めました。北イスラエル王国との関係を良くし、国を安定させたといいます。紀元前8世紀のことです。イザヤから見れば、国の繁栄よりも、人間が傲慢になってゆくことが、主の民に相応しくないように見えたようです。
 
だが、今はイザヤはまだそのことに立ち入ってはおりま

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呼びかけよとの声

呼びかけよとの声

イザヤ40:9-11 
 
「慰めよ、私の民を」と、40章はそれまでの様相を変えて、イザヤの名で新しいメッセージをもたらします。この民に呼びかけよ。主の言葉が飛びます。誰が誰に向けて呼びかけるのでしょうか。主がまず、預言者に呼びかけています。それから、預言者がイスラエルの民に向けて呼びかけています。神の言葉はこうして私たちに届きます。
 
神の言葉はとこしえに立つ、そんな有名な言葉が聞かれる中、こ

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自身が呼ばれ変えられたから

自身が呼ばれ変えられたから

エゼキエル11:14-21 
 
エゼキエルは幻のうちに、エルサレムの神殿を見ます。否、神殿へ連れて行かれます。幽体離脱のように、いまエルサレムを見ています。そして主から教えられることは、ここにイスラエルの民が集められるというストーリーでした。この物語はこれから起こることとして示されますが、文献としては捕囚からの解放を知る者の手によるのかもしれません。
 
しかし、だとしても単なる過去の歴史とはな

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神と人とをつなぐ

神と人とをつなぐ

ミカ7:18-20 
 
神の審きを告げ、終わりの日の到来を預言するミカですが、その眼差しは「救い」に向けられています。「わが救いの神を待つ」(7:7)というのが、ミカの信仰姿勢です。敵の口撃にも耐え、信仰の幻のうちにその敵の壊滅を見ています。エルサレムは復興し、平和が訪れる、イスラエルの民は神の民として主を礼拝することになる、と預言します。
 
なんとも希望たっぷりの預言書です。「あなたのような

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預言者の立場と限界

預言者の立場と限界

ヨエル2:11-14 
 
主は、御言葉を行います。主の言葉は力をもち、現実となるのです。言葉がリアルだ、ということです。聖書の基本スタンスは、そういうことです。人間にとり、やがて大いなる非が来ます。来ると言ったら来るのです。人は、それに耐えられません。しかし、とヨエルは続けます。「今からでも」よい。まだ間に合うのだ、と。
 
「今」という時を意識している者は、生きているからです。生きていれば、そ

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主を証しする者

主を証しする者

イザヤ44:6-8 
 
イスラエルへ向けて神が告げます。それをイザヤが代弁します。熱心に、強く畳みかけます。祝福の言葉は、多くの困難を超えてきた民への報いなのでしょうか。そのためには、主なる神のアイデンティティをはっきり示しておかなくてはならないでしょう。主は「イスラエルの王」です。イスラエルのトップに君臨するお方です。
 
それは、イスラエルを支配する、ということでしょう。イスラエルを守る、と

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詩人と預言者

詩人と預言者

イザヤ12:1-6 
 
短い一章です。詩編の一つであってもよさそうなものに見えます。詩人たちもまた、預言者の一人なのでしょう。ここはイザヤ。数々の預言を発し、イスラエルの思想に多大な影響を与えた預言者です。そればかりか、新約のメシアの姿を決定づけたと言っても過言ではない、偉大な証言者でもあります。新約聖書での引用もイザヤ書が最多クラスです。
 
詩人の、主への賛美と、イザヤからの賛美には、少しば

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平和の道を歩むために

平和の道を歩むために

イザヤ2:1-5 
 
預言者イザヤの召命の記事は、6章に記されています。預言の書は時間順に述べているわけではないにしても、この構成は少し気になります。つまり、召命を語る以前に、そもそもイザヤという預言者が生涯で何を語ったのか、その全体像をまず見せているように思われるからです。ここで掲げられたのは、平和の宣言でした。
 
裁きを超えて終わりの日に、イスラエルが主の救いの光の中を歩み始めることへの導

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平和の幻

平和の幻

ミカ4:1-3 
 
主の家の山が、どの峰よりも高くそびえる、という姿が描かれます。終わりの日の情景として、イザヤ2:2にあったのと同じ言葉です。川のように、国々または人々が流れてきて、「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう」などというのも、イザヤ2:3と同じです。ミカは、どうやらイザヤ書からそのまま引いてきたようです。
 
誰かが、このミカの預言の中にそれを組み込んだ、という可能性もあります。教

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ペンテコステの認識を改める

ペンテコステの認識を改める

使徒2:1-4 
 
聖霊降臨日は、ユダヤの祭儀に合わせて、ペンテコステと呼ばれますが、さて、それでいいのか。初穂の祭りから七週目、シャヴオットと本来呼ばれる祭りです。七週の祭りとは、小麦の収穫を祝うものです(出エジプト34:22)。ユダヤの三大祭の一つです。この祭りは、ユダヤ教とキリスト教とで一致した祝祭であるようにも見えます。
 
この日はまた、モーセが十戒を授かった日だとも考えられています。

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語る内容と自身の関係

語る内容と自身の関係

エレミヤ24:5-7 
 
主の神殿の前に、いちじくの籠が2つ置かれています。エレミヤの目にはそう見えました。主によって見せられた景色です。何が見えるか、と主に問われ、エレミヤは見たままを答えました。主はその意味を説きます。対比させ、バビロンに捕囚とされた人々を良いいちじくとし、ユダの地に残った人々を悪いいちじくとするのでした。
 
ユダとエジプトの方面に残るということは、バビロニア帝国の侵略にに

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キュロス王とは何者か

キュロス王とは何者か

エズラ1:1-4 
 
エズラ記は、その冒頭から、神がキュロス王を動かして、ユダヤ人の故国への帰還が実現した、という喜びの宣言を掲げています。歴史をどう解釈するか、ということは、史実を連ねてそこから構築されていくものでしょうが、エズラ記は、まずその結論がもう決定的であるものとしている様子です。ユダヤ人にとり、歴史的価値はもう決まっているのです。
 
メディア王国を滅ぼしたキュロス王は、いわゆるアケ

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他人事ではない

他人事ではない

列王記下24:1-4 
 
ユダの王ヨヤキムの時代に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来た。これは主の命令によるものである。それはユダの王が主を信じず、人々を虐げていたからである。粗筋を示すと、これだけの説明で終わってしまいます。けれども、口先でこう説明するのとその内実とは、隔絶されたものであるかと思います。
 
王が虐げた正しき人々の血が、いったいどれほどあったのでしょう。また、バビロン

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