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自身が呼ばれ変えられたから

エゼキエル11:14-21 
 
エゼキエルは幻のうちに、エルサレムの神殿を見ます。否、神殿へ連れて行かれます。幽体離脱のように、いまエルサレムを見ています。そして主から教えられることは、ここにイスラエルの民が集められるというストーリーでした。この物語はこれから起こることとして示されますが、文献としては捕囚からの解放を知る者の手によるのかもしれません。
 
しかし、だとしても単なる過去の歴史とはなりません。まだそれは未来の姿でありうるからです。現代の私たちは、イスラエル国の成立を知っています。でもそれをここで説明しているのだ、などと片付けることもできません。まだ先のことを言っているのではないか。そう考えて然るべきなのです。イスラエルの民が、いつか呼び集められるのです。
 
イスラエルの民は、散らされました。互いに遠ざけられてしまいましたが、それぞれ住む土地で主を礼拝することを、忘れはしませんでした。神殿というシンボルはなくとも、主自身が各地にいてくださり、それぞれの神殿をもたらしました。だから、これを見て主は、人々を集めにかかります。イスラエルの民は、こうして一つになることができるのです。
 
呼び集められた民は、忌むべきものをすっかり取り除かれ、神から「一つの心」「新しい霊」を与えられます。そうして、主の法を守るようになるのだといいます。頑なな石の心は、もうありません。温かな肉の心を主から与えられるからです。こうしてイスラエルは、全き主のものとなります。真に主の民と呼ばれるに相応しい者となるのです。
 
但し「憎むべきものと忌むべきもの」に心が向く者には報いが下される、と釘を刺します。この後エゼキエルは、バビロンの捕囚の民のところへ幻のうちに連れて行かれ、主に従わぬ民へ預言します。一度エルサレムの栄光を知ったことで、預言の力も増します。エゼキエル自身新しい心を与えられ、肉の心を覚えました。預言者もまた、変えられたのです。

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