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預言者の立場と限界

ヨエル2:11-14 
 
主は、御言葉を行います。主の言葉は力をもち、現実となるのです。言葉がリアルだ、ということです。聖書の基本スタンスは、そういうことです。人間にとり、やがて大いなる非が来ます。来ると言ったら来るのです。人は、それに耐えられません。しかし、とヨエルは続けます。「今からでも」よい。まだ間に合うのだ、と。
 
「今」という時を意識している者は、生きているからです。生きていれば、そこから修正が可能です。主に立ち返るがいい。心を尽くし、断食と嘆きにより、また衣を裂いて、否、心をこそ裂いて、主に立ち帰るのです。主は憐れみ深い。それに対して怒るようなことはなされない。恵み深く、慈しみ深いのです。主は、思い直しをすら厭いません。
 
主の言葉は現実でありながら、それを翻すことを忌まわしく思うことをなさいません。ヨエルの預言は、預言者という人間の側からの言葉です。主が「私は」と述べているのではないからです。人間の立場から見える限界というものがあります。預言者も、そこまでしか述べられないことがあります。でも、それでも、それはやはり預言なのです。
 
人間の希望だけでできているものではありません。ヨエルは、主からこの言葉を聞いているからです。預言者は、人間であって、人間ではありません。もちろん神ではありません。神と人との間に立つ者です。「人間神」として、人と神との間に立つのです。人が神に献げるものが無駄になることはありません。つなぐものは重んじられます。
 
ヨエルが知るのは、ここまでです。しかし神はこの後、驚くべきことをします。神の子イエスを遣わすのです。怒るに遅い、災いを思い直すどころではありません。主に立ち帰れと呼びかけるだけでは終わりません。主自ら傷を負い、痛みを人間から被り、これを見れば赦しを与え救おうというのです。改めて、キリストの救いの大きさを覚えます。

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