4月ばか

「伊勢物語」や「源氏物語」を習っていた高校時代からの昔話を、つらつらと。

4月ばか

「伊勢物語」や「源氏物語」を習っていた高校時代からの昔話を、つらつらと。

最近の記事

大好きからつながる今

大好きで仕方がなかった。 親以上に年の離れた既婚者の事を、何でこんなに好きになったのだろう。 自分でも不思議な位、大好きだった。 先生には、高校2年生の時に古典を教わった。 私と先生の接点は、それだけ。 担任でも顧問でもなく、たったそれだけ。 先生の事を好きと思い始めたのは、いつだったか覚えていない。 授業を受けるなかで、話し方、雑談の内容、声や字、そんないくつもの要素に惹かれていくようになったのだと思う。 恋、と呼ぶには無理があり、当然周りの人に話せるようなものではな

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      前年の年末から入院をしていた家族がいよいよ危なくなり、新年度が始まってからも地元を往復した。 そんな中でも、学校の新年度のあれこれはあり、バイトはあり、習い事はあり、家族の結婚話があり、常に特別な何かが起こっていた。 結局、ゴールデンウィークが終わった頃に家族が亡くなった。 地元にいる時間も長かったが、先生には会いに行けていなかった。 この間も、先生の事を考えないわけではなかった。 相変わらず、不毛な思いを相談したり、研究室にいる先輩たちに構ってもらって、その思いを

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        この頃の私は、慌ただしかった。 アルバイトをしたり、習い事をしたり、テストがあったり。 年末に入院した家族の状態があまりよくなかったり。 2月なかばからの春休みは、地元の自動車学校に通った。 そして、家族が入院している病院へ通ったり、他の家族の世話をしたりしていた。 大学での予定もあったので、その都度往復をしていた。 大学に入学してから、私は先生からもらった手帳に、日々の出来事を事細かに書き記していた。 それが、この頃から大まかな予定と出来事しか書かなくなった。

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          最後に会ってから、約4ヶ月。 この4ヶ月は、私にとってはひたすら長くて、会いたい気持ちと向き合うのがつらかった。 今の私の4ヶ月と、10代後半の私にとっての4ヶ月は、全くの別物だった。 50代だった先生にとっても、「4ヶ月」という時間の長さは、10代の私とは全く別だったはずだ。 私と違って、会いたいという思いがないから、尚更。 先生は、会いに来ていいと言ってくれた。 年が明けてすぐに会いに行く予定だったが、年末に家族が入院し、風邪をひいて年を越し、新年早々親戚が亡

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          待ちに待った、夏休み。 地元に帰れば、先生にたくさん会いに行けると思っていた。 高校の夏休みと、大学の夏休みは、期間が違う。 どちらも休みの8月が、私にとって貴重な時間だった。 夏休みになってから、地元に帰り、先生に会いに行った。 その時の詳細は、手帳にきちんと書かれていない。 書かなかったのではなく、うれしすぎて書けなかったのだ。 私の記憶では、休養室で先生とゆっくり座って話した。 そんなに長い時間、二人きりで話したのは初めてだったはず。 そして、先生から

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          私と同じ学部に、同じ高校から進学した人がひとりだけいた。 1浪してからの入学で、高校生の時は面識はなかったが、私の先輩の友人で、住んでいる場所も近く、すぐに親しくなった。 いろいろと話をしていると、何と、実家は先生の家の隣だということが判明した。 このことは、春に会いに行ったときに先生に伝え、もちろん先生も承知していた。 7月。 この友人から、一緒に母校の野球の応援に行かないか、と誘われた。 友人の弟が野球部に所属していて、ベスト4をかけた試合だった。 私は昔か

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          私が所属していた部活では、卒業生が夏の大会の応援に行く習慣があった。 私は隣の県から、部活仲間はもっと遠方に住んでいたけど、後輩たちのために集まった。 地元に帰ることは、先生に近づくこと。 ダメ元で連絡をしてみたら、先生が引率する部活の大会から帰る電車に、もしかしたら私も乗れるかも、ということになった。 大会の進行が遅れ、後輩や遠方から来ている友達たちとの挨拶もそこそこに、私は先生も乗る予定の電車に飛び乗った。 私が乗った次の駅。 2月に受験へ向かう電車で一緒にな

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          もう20年近く前の話。 先生との思い出は鮮やかで、色褪せていない。 というのは、大きな勘違いで、たくさんの事を忘れ、自分の都合のいいように脚色してしまっていると感じる。 高校を卒業してからの日々の事は、先生からの手帳に書き留めていることが多い。 読み返すと、すっかり忘れてしまっていた事ばかりで、自分がこんなことをしたり、言ったり、聞いたりしていてビックリする。 そして、先生に相変わらず迷惑ばかりかけていたこと、そのことに対してきちんと感謝の気持ちを伝えていなかったこと。

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          いつ、どこで、渡されたのだっただろうか。 先生が私にプレゼントしてくれたのは、シンプルな、小さな手帳だった。 調べると、それはフランスの有名な手帳メーカーのものだった。 どこにでも売っているものではなく、近場ではほぼなかった。 実際に使うと非常に使いやすく、今までに使ったことがあるものと使い勝手が全く違った。 手帳には、濃い緑色のカバーがついていた。 18歳の女子大生が使うには、なかなか渋い色合いだと思う。 この手帳を、先生がどのように購入したかはわからない。

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          合格する前だったか、後だったか。 私は先生に冗談混じりで 「合格したら、何かちょうだい」 と言っていた。 もちろん、たかるつもりではなく、ただただ大好きな人からのプレゼントが欲しかった。 そして、私は見事に合格した。 合格してから、私は念のため 「本当に何かくれるが?」 と確認した。 そしたら、いいと。 何が欲しいか言って、と。 もちろん、私の強引なお願いを仕方なく聞いているのは、その時もわかっていた。 それでも、うれしくて、うれしくて。 そして、私

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          卒業式は終わっても、進路は確定しておらず、3月31日までは、私の身分は高校生だった。 2月末にあった試験の結果は、卒業式後にあった。 その日は確か、午前10時に発表があった。 直接見に行けない場合は、短大の時と同様、レタックスを待つのが一番早かった。 まだインターネットでの発表は一般的ではなかったのだが、もしかしたら見られるのではないかという情報があったのだったか、私はずっと画面を開いていた。 1時間後の、午前11時。 ホームページに合格者の受験番号が発表された。 私

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          この年は、うるう年だった。 1日でも多く先生と一緒にいれる、と思ったが、2月29日は休日だった。 3月1日。 休み明け、先生と話した。 休みに東京に行っていた、六本木ヒルズに行った、狭いところに落語を聞きに行った、と言っていた。 短大には受かっていたが、まだ受験は続いていた。 次は小論文の練習を、とのことで、添削をしてもらう担当が先生にならないかと期待したが、違った。 違ったのに、相変わらず先生に聞いていた。 卒業式前日。 いつものように先生のところへ行って話をした。

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          2月24日。 私は受験のため、電車に乗った。 そして、初めて今も住む県に降り立った。 行く前に、先生と何か話したんだっだろうか。思い出せない。 翌日、試験を受け、地元に戻った。 その翌日、試験が終わった解放感と疲労で、学校には行かずに家にいた。 午後、何時ごろだっただろう。郵便が届いた。 まだインターネットの普及が発展途上だった頃。 その郵便は、レタックスというもので、東京の短大の合格者の番号が書かれたものだった。 前日までのことで、この日の発表などすっかり忘れていた。

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          受験校は決まった。 我が家は、私立を受験させてもらえなかった。 どこか滑り止めを受けれないかと探していたとき、東京の短大が思い浮かんだ。 4年制大学との合併が決まり、この年が最後の募集だった。 実は、この合併先の4年制大学こそが、先生の母校だった。 もちろんこれを把握した上で、この学校への受験を決めた。 2月のバレンタインの頃。 私は、受験のため東京に向かった。 電車に乗るため、父親に地元の駅に送ってもらった。 駅に入ると、券売機の近くに先生の姿があった。 びっくりし

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          受験生に、クリスマスや正月はない。 と言うものの、熱心な受験生じゃない私は、相変わらず先生の事ばかり考えていた。 年が明けたら、本格的な受験シーズン。 この頃も毎日会いに行っていたはずだが、何をしていたのか覚えていない。 センター試験の前も会っているのだろうが、何か話したんだっただろうか。 試験が終わった翌日の、月曜日。 学校で自己採点をした。 試験中に気づいていたが、得意科目の国語が全くできず、今までで最低の点数だった。 夕方、先生のところへ行き、結果を報告した。 とに

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          知っている人に、先生のイメージを聞いたら、「ヘビースモーカー」と答える人が多いだろう。 一度、1泊の宿泊の引率にいく日のカバンの中身が見えたが、タバコが1カートン入っていた。 先生の歯や髪や指は、常にタバコのヤニで汚れていた。 当時は校内で喫煙できたし、今ほどタバコを吸うことに対して、風当たりが強くなかった。 タバコを吸う先生はたくさんいたけど、一番そのイメージが強かったのは、断然先生だった。 「休養室」と呼ばれる、先生方の喫煙所。 先生は、この部屋にいることが多かった