見出し画像

齋藤彰俊選手引退。

my note vol 1196

#スキしてみて
#私のイチオシ


齋藤彰俊選手が引退しました。

7/13日本武道館、齋藤彰俊選手は保持していたゼロワンの世界ヘビー級王座をかけて潮崎豪選手と対戦。エメラルドフロウジョンから豪腕ラリアートとつながれて3カウントを聞きベルトを失いました。

記事中より抜粋

試合後マイクを持った齋藤選手は、「あの天におられる偉大なる方(故 三沢光晴氏)の足もとにも及ばないが、2009年6月13日に広島の地で心に誓ったこと、約束したこと、俺なりに、今日、果たしたのかなと思う。だから、引退を決意した! 潮崎、チームノアをプロレスリング・ノアを、プロレスを頼む!」とまさかの引退を表明。自らベルトを潮崎豪選手に手渡すのだった。

遡る事15年前…

2009年6月13日

6月13日午後8時30分ごろ広島県立総合体育館であったプロレスリング・ノア広島大会の試合において、メインイベントの「GHCタッグ王座選手権試合」バイソン・スミス、齋藤彰俊(王者)vs三沢光晴、潮崎豪(挑戦者)において、三沢光晴選手(46歳)が齋藤彰俊選手のバックドロップを頭に強く受けて倒れ、そのまま動かず心肺停止状態となり、緊急搬送された広島大学病院で死亡が確認された。

この試合の後、齋藤彰俊選手は死亡を聞かされた直後は一睡も出来ず引退も考えたが、6月14日の試合後、齋藤は三沢の遺影に向かって土下座し「どんな重い十字架でも背負う。リングに上がり続けることが社長への恩返し」として現役続行を決意した。事故後には多くのファンが「不幸な事故」「齋藤は悪くない」などと同情を寄せた一方、インターネットで一部のファンからは中傷を受けたが[3]、齋藤は「自分に言うことで気持ちが晴れるなら全部受ける。逃げることはしない」と語った。

齋藤彰俊選手をはじめて知ったのは、1991年「W★ING」に徳田光輝、木村浩一郎とともに「格闘3兄弟」として活躍していた時に「週刊プロレス」で見た時です。

「W★ING」格闘3兄弟

木村浩一郎、徳田光輝、齋藤彰俊

イケメンな空手戦士という事で、僕も空手をやっていたから、とても興味が湧きました!

そして「W★ING」が解散し、
齋藤彰俊選手がどうなるのかと思ったら、1992年1月4日の新日本プロレス東京ドーム大会に「誠心会館」の門下生と徒党を組んで乗り込み、新日本プロレスに宣戦布告。

齋藤彰俊選手 " 空手家 " として「新日本プロレス」に乗り込む!!

誠心会館門下生と

些細なキッカケから抗争へと発展し(長州力氏の差し金?)、小林邦昭選手との試合が決まった。
 第1Rは1月30日の大田区体育館大会のメイン終了後の番外戦で行われ、小林が彰俊を迎え撃ったが、彰俊が正拳突きや膝蹴りのラッシュを小林に浴びせて流血に追い込めば、小林もアキレス腱固め、腕十字、マウントを奪って膝をグリグリ押し付けるなどして反撃、そしてリング下ではセコンド同士が乱闘を初め、小林のセコンドに着いていた蝶野正洋が誠心会館側のセコンドである田尻茂一にケンカキックを浴びせ流血、同じく新日本側の金本浩二も誠心会館側の襲い掛かり、相手を骨折させる。試合は小林の流血がひどいためレフェリーストップで彰俊が勝利を収めた。

その試合後にも抗争は続き、越中詩郎選手、小原道由選手(新日本プロレス)や田尻茂一選手、来原圭吾選挙、そして館長の青柳政司選手も巻き込み抗争は激化するが、何度かの対決を経て決着。
 その後、新日本プロレスの選手会を辞める事になった小林邦昭選手、越中詩郎選手、小原道由選手、木村健悟選手達と共に「反選手会同盟」に参加した。
その後「反選手会同盟」は勢力を拡大し「平成維震軍」となりました。
そしてムーブメントが収まった「平成維震軍」解散目前の1998年に新日本との契約を更新せず退団。
いったんプロレスから離れるも、青柳館長の勧めで共に旗揚げしたばかりの『プロレスリング・ノア』に参加。

そして「GHCタッグ王者」を5度も巻き、『プロレスリングZERO1』に乗り込み「第33代 世界ヘビー級王座」も奪取しました。

引退試合は行われるのかな!?

齋藤彰俊選手
ひとまず長い間の現役生活大変お疲れさまです。
たくさんの素晴らしい試合
ありがとうございます。

ではまた👋

スキ、コメントお待ちしてます♪

こちらもよろしくお願いします。

twitter(X) @RiderGaia
Instagram tasei222




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?