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発症-押し寄せる波に心の防波堤が壊れた

こんにちは。TASです。私の記事をたくさんの方に読んで頂き、「スキ」もたくさん頂いて、とても励みになります。本当にありがとうございます。
今回の記事は20年前の話です。もちろん読んで頂けると嬉しいですが、必ずしもたくさんの方に読んで頂かなくてもいいかなと思っています。私の他の記事を読んで頂いた方で、私がどういう経緯で発症(躁うつ病、当初診断はうつ病)したのか知りたいという方が、もしかしたらいらっしゃるかも知れないとも思い、ここでお話しさせて頂きます。決して楽しい内容ではありませんが、その時期を乗り越えて今私は充実した日々を送っており、そのこともあわせてお伝えしたいです。

暴風・波浪警報

当時30歳だった私に、いくつもの波が、良い出来事も含めて、押し寄せてきていました。1つ目は、妻の妊娠。念願の子供を授かることとなること。2つ目は、人生の師とも言える母が白血病となり余命が幾ばくもなくなってきていたこと。3つ目は、仕事関係です。当時親会社から子会社に出向していた私は、経営企画課長として社長の信頼を一身に得て、これ以上ない充実感を得ながらも、多忙を極め睡眠も十分にとれないような状況にありました。

息子の誕生

その年の6月に待望の息子が誕生しました。妻と私にとって本当に嬉しいことでしたし、親族にとっても初孫で、皆の愛情を一身に受けていました。そして、なんと病身の母は父とともに私の実家から、当時息子と妻が滞在していた妻の実家まではるばる来てくれて、息子を抱いてくれました。その時の母の幸せそうな笑顔は今も忘れられません。何とか母が生きているうちに息子を合わせたいという私の願いは叶いましたが、その後すぐに母の病状は悪化し再入院となりました。
私は当時東京に住み、私の実家は大阪でしたが、私は母に息子を抱いてほしかった一心で、ほとんど毎週末と言っていいくらい、私たち(妻と息子も)は東京と大阪の母の病院を行き来しました。産後間もない妻には負担をかけてしまったと今でも思っています。

母の死

母の病状は徐々に悪化していきました。それまで抗がん剤治療で一時的に良くなって入退院を繰り返していましたが、今度は難しいと医者からも言われていました。
決してマザコンというわけではなく、母は私にとって人生の師でした。聡明で、それでいて情に厚く、勇気があり正義感の強い人でした。
その年の末に母は亡くなりました。なぜか私はふさぎ込むことはありませんでした。それどころかより力を増したような感覚がありました。今思うと母の死という人生最大の衝撃により、完全に、しかも強烈な、”躁のスイッチ”が入った状態でした。自分は尊敬する母の息子だ、母の名に恥じない立派な人間になろうと。また愛する妻子のためにも。
私は仕事に没頭しました。明るく、勤勉に、寝る間も惜しんで。いくら働いても疲れませんでした。いくらでも力が沸いてくる気がしました。しかし数か月たち、春が近づくにつれて、やはり徐々に体調がおかしくなっていきました。
まだ肌寒い日が続くにも関わらず、異常なまでの発汗をすることが多くなりました。汚い話で大変恐縮ですが、粗相をしてしまうこともあるなど、これまで考えられないような事が起りました。明らかに自律神経に変調をきたしていました。

社長交代とパワハラ

それでも会社のために一心に働き、私は社長から厚い信頼を得ていました。しかし4月の人事異動でその社長は親会社に戻り、その親会社から新たな社長が就任しました。
新社長は最初から明らかに私に対してマイナスの感情を持っているようでした。若手で重責を担っており、発言力もあった私が気に食わなかったのでしょう。どのような案件の説明をしても、必ず些細な事を取り上げて私を叱責し、全く案件が通らなくなりました。
前述の体調面の要因も重なり、5月、6月と私の仕事のパフォーマンスは急降下していきました。そこにつけ込むかのように、社長の私に対する攻撃はますます激しくなっていきました。

防波堤の決壊

ある時の会社の懇親会で、私はその社長から、多くの社員の前で屈辱的な言葉を投げかけられました。そこで私の心の防波堤は決壊しました。その日の事はあまり覚えていないのですが、懇親会の終了を待たず会場を後にしたのではなかったかと思います。
翌日から会社に行くことはできませんでした。もはや限界でした。1カ月ほど前から心療内科に通っていましたので、主治医に診断書を出してもらい、2カ月間の休職をすることになりました。
ここから私の闘病生活が始まりました。なお20年前の当時はメンタルの病気に対する理解も低く、会社からは毎週状況について電話で報告するようにと指示されました。私は会社に電話をしなければならないということが1週間ずっと頭から離れず、ほとんど気を休めることができませんでした。結局当初2カ月の予定だったのが4か月に延びました。そして病状は大きく改善することのないまま復職となり、そこからの紆余曲折があり約1年後、2回目の長い休職に追い込まれます。

ちょっと重い内容となってしまったかも知れません。ただ現在の私は服薬・通院(月1回)をしつつも、ビジネスの第1線でやりがいを持って仕事に取り組んでいます。私も辛い時期は自分の人生に全く光が見えず、今のような元気な自分の姿を想像することはできませんでしたが、「朝の来ない夜はない」と自身の体験からもお伝えできます。もし、辛い思いをされている方がこの話を読んでくださっているとしたら、私の別の記事にはその回復過程について書いているものが多数ありますので、よろしければそちらもご覧ください。その方の支えに少しでもなってくれればと思っています。

今日も最後までお読みいただきありがとうございました。

TAS

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