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イメージ人類学/ハンス・ベルティンク

僕らはきっと実際の物事を見ているより、イメージを見ている方が多い。

そう思うのは、単にスマホやPC、テレビの画面に映し出された静止画や動画に目を向けている時間が長いからというだけではない。街にさまざまなグラフィック広告があふれかえっているというからというのでもない。
そもそも、実際目の前に人間やその他さまざまな物事があっても、果たして僕らは本当にそれらの実在のものに目を向けているのだろうか?と思うからだ。

もちろん、僕らは世界を見てはいる。
けれど、意識にのぼってくる視覚情報はそんなに多くはない。
考えごとなんかしてたら、頭のなかのイメージが優先されて目の前のものがほとんど見えなくなる経験は誰にだってあるはずだ。

本来は目に入っているのに、意識からは省略して消してしまっている部分が大部分なのだろう。
そして、残った部分がイメージであると言いたいが、実際はベルクソンが言っていたように、それはいま見えているものと過去の記憶の混合イメージなのだ。
その意味で、イメージとは、そもそも現実の世界の単純な視覚像ということではないのだろう。

しかし、そうしたイメージ観もきっと、ずっと昔の祖先たちが見ていたイメージのそれとは別物なのだ。

そんなことをハンス・ベルティンクの『イメージ人類学』が読んでみて感じた。

イメージとともに人間の本質は変化する

この本は、美術史家であり、メディア学の理論家でもあるハンス・ベルティンクによって2001年にドイツ語で出版されたものだ。

ドイツ語の原題は、"Bild-Anthropologie"で、Bildはドイツ語で「イメージ」と「絵」の両方を意味する。ただ、この本で扱われるBild に関しては、絵のほうの意味で使われるというより、イメージ=像という意味で用いられている。
という訳語が用いられるのは、それが単なる視覚像だけを指すのではなく、触覚にも関係しうる彫像や、そもそもの人間などの身体なども視野に入れているからだろう。

僕らにとっては、イメージといえば、視覚的要素がとても強いものだ。
しかし、ベルティンクによれば、太古の人類にとっては死者崇拝の範型であって「死者は失った身体を像(イメージ)と交換し、生者たちのあいだにとどまる」という意味で、触覚もともなうより統合された知覚を刺激するものだったという。

人類学に関する本で、太古の人々の象徴的思考について知識がある僕には、この違いは比較的ピンときやすいが、そうでなければ、像が死者の代理身体の役目をするということ自体を正しく認識できないはずだ。
ようはそのくらい、イメージ観の変容は、人間の本質そのものの大きな変化と相関しているということだ。

そうした意味において、ベルティンクはこう書いている。

さまざまなイメージが存在するということ自体が証明しているように、イメージにとっては変化こそが唯一の連続性であり、イメージを変化させることだけが人間に可能な自由である。イメージはしたがって、疑問の余地のないほどに、人間の本質がいかに変化するものであるかを示している。

死者の身体を代理する像を日常の生活空間において常に死んだ祖先と語らいながら崇拝し続ける人間の本質と、生活空間から遠く離れた墓所に祖先を隔離してせいぜい年に1度の墓参りをするだけの現代的な人間の本質は大きく異なるだろう。
生命観、生と死の捉え方、人間と動物や自然との関係の理解、あらゆる面で異なる人間観がイメージの捉え方の違いに反映しているのだ。

この写真の右上の写真のように、髑髏に肉付けして着色した像を日常空間に置いて、ともに暮らす人間観はあまりに僕らのそれとはかけ離れている。

僕らはこの像を受け入れることはできなくても、この像を受け入れていた人々と自分たちのあいだにある変化そのものは受け入れなくてはいけないと思う。

それが最近僕が繰り返し主張している、変化をデフォルトに考えるということだ。「イメージにとっては変化こそが唯一の連続性であり、イメージを変化させることだけが人間に可能な自由である」。
この自由をちゃんと享受するためにも、物事をスタティックに捉えて、自分と異なる者たちを排除するような思考は見直す必要がある。

イメージ・テクノロジーと人間の本質の変容

さて、ベルティンクは先の引用に続けてこうも書いている。

こうした変化が示すように、人間は、世界や自己自身への問いに新たな方向を与えようとすれば、みずから作り出したイメージをやがて放棄することになる。自己自身について確かなことは何も知りえないという人間の不安定な本性から、己を他者としてイメージの内に見ようとする性向が生まれるのである。

イメージは人類の歴史のなかで何度も大きく変化してきた。
そのことが本書ではさまざまな形で示されるが、その変化は単にイメージ側の意味の変容ではなく、人間自身が自分たちが何者であると考えるかの変化でもあったということを、ベルティンクは「人類学」的な視点から考察している。

近々、VR空間に自分自身と見紛うようなアバターを実現したり、あるいは、バイオテクノロジーによるクローン技術で文字通り同一生物のコピーができたり、AIが人間さながらの思考を展開したりするようになったとき、それらのイメージが「人間とは何か?」をさらに大きく変容させることは目に見えている。

2001年の出版なので、そうしたテクノロジーの影響にはさほど言及されていないか、ベルティンクが本書で差し出しているのは、そうしたイメージと人間の本質の変容の連関だ。

イメージの場所

ベルティンクは本書の第2章を「イメージの場所」と題している。

その冒頭「人間がイメージの場所であることは疑いない」とはじめている。
そして、その理由を「人間は自然物としてイメージにとっての生きた器官だからである」としている。

もちろん、instagramをはじめとするさまざまなメディアを通じて、日々膨大な量のイメージが生み出される社会においては、それらのイメージの場所は、そうしたメディアのなかであり、さらには人々には共有されることなく、作成した本人もすぐに忘れるようなデータとしてクラウド上にアーカイブされたりもする。
その点も視野に入れると、「人間がイメージの場所であることは疑いない」としても、その存在的なシェアが著しく低下してあるとはいえそうではある。

かつてマニエリスム期の芸術家フェデリコ・ツッカーリは、1607年のエッセー『絵画、彫刻、建築のイデア』で、ディセーニョ・インテルノ(内的構図)という概念をもって芸術家の役割を明らかにしている。
ツッカーリは、芸術家は自身のなかに生まれたイデア的概念としての内的構図を、自身の技術を用いて現実の像(外的構図)としてあらわす役割をもった者だとすることで、彼の描きだす技術以上に、イデアそのものを幻視できる力においてその価値を主張した。

そう。この時点で、イメージは内的なものと外的なものに区別されて捉えられていたことがわかる。
1つ前の「再物質化するイメージと動きだす世界」で、ダンテが中世の終わり/ルネサンスのはじまりの時代に、その区別を決定的なものとしたことを紹介したばかりだ。

しかし、ベルティンクによる人類学的な視点に立ってみればこの見方は「西洋的な伝統内に」とどまるものでしかない。

たしかに「イメージ」概念自体に、すでに内的・外的イメージという二重の意味が含まれるので、西洋の伝統内にとどまっている限り、われわれはこうした二元論の正しさを疑うことができない。しかし、それぞれの時代の心的イメージと外的イメージ(たとえば夢とアイコン)はあまりにも複雑に絡み合っているので、明確な物質性の差は別にして、各々の持ち分を分離しようとしてもできるものではない。

イメージを現前化するためにはメディアがいる。
そのメディアが人体そのもの以外に、太古の彫像から、ルネサンス的絵画、写真や映画を経て、スマホ+インターネット上のSNSで日々大量に生産される画像、さらにはVRなどとメディアのバリエーションが増えたとしても、それはベルクソン的な意味運動を介してメディアと人間がつながってこそイメージは存在しうる。
その意味では、「メディアの場所」とは、内部と外部がつながったところというのが正しいのではないかと思う。

メディアとイメージ

「イメージ=メディア=身体」、それが全体の問題提起としての役割も担った本書第1章のタイトルである。

イメージがメディアという身体を介してしか現前化しえないことはすでに書いたとおりだが、そのメディアの違いがイメージのもつ意味に大きく影響を与えるものであることを理解するのにも、やはりベルティンクのような人類学的な視点が必要そうだ。

例えば、肖像画という絵画ジャンルに関しても、いま僕らが美術館でそれをみるとき、誰々が描いた肖像画という画家を起点とした見方をする(西洋美術史についての知識がないとそれさえもむずかしいが)。けれど、当然ながら、それは描かれた当初は、誰々の肖像画という形で描かれた人のほうを主眼として、視線を向けられていたはずである。

しかし、そうした個人の肖像画が描かれるようになったのも、絵のメディアがポータブルなものに変容したことがきっかけであることを僕らは知らない。
ベルティンクはこう指摘する。

結局のところ、こうした議論が病んでいるそのおおもとは、肖像板絵の支持体メディアとして考察せず、またコンテクスト(壁画から細密画に至るまで)を無視して、各々の肖像画を比較してきたことにある。しかし、自律的な肖像画といえるのは、肖像画が独自のテーマとなって、独自のメディア上に―― つまり、この場合は持ち運びできるメディアである―― 現れるようになってからであり、肖像画の内容と形式はそうしたメディアの刻印を帯びるのだ。そもそもメディアは社会的慣習と結びついているので、肖像画の意味もこの慣習から解明されると期待される。イメージとメディアという二重の言表の関係性を考慮に入れて初めて、ヨーロッパのイメージ文化における中心的な発明へのアプローチが可能となるのである。

壁画あるいは写本の挿絵として描かれる細密画においては「自律的な肖像画」は生まれ得なかった。それはベルティンクが指摘するとおり、「持ち運びできるメディア」ではないからだ。細密画は本の挿絵なら持ち運べるではないかと思う人がいるかもしれない。しかし、当時の写本はとても貴重で高価なもので、教会の図書室に鎖で繋がれた状態で所有されていたもので、とても持ち運べるようなものではなかったことが、その発想においては忘れられている。

持ち運び可能になったのは、板絵やキャンバスに描く絵が登場したあとである。しかも、それが個人の肖像をのせうるメディアとして機能するようになったのも、太古の祖先も彫像を代理身体とする文化が回帰してきたからでもある。

ただし、それは肖像画という個人の身体の代理だけでなく、それと対になったファミリーの身体の代理としての紋章とセットになっての回帰だったのだ。

紋章と肖像画というテーマにおいても、本書でつねに問題としている2つの観点、つまり身体とメディアに固執することになる。こうした観点から見れば、肖像板絵も紋章盾もともに身体の代理として登場し、身体の現前を空間的・時間的に拡張するという意味で、「身体のメディア」と呼ぶことができる。

個々人のイメージ、ファミリーのイメージは、こうして板絵や盾というポータブルなメディアを手に入れたことで現前化可能になった。

代理の意味の変容

そして、それは太古の時代のように純粋な故人の代理というよりも、法的な権利の主張という近世的な意味での代理として機能としたのだ。

紋章的思考法は「自然人格を第2の身体と取り替える」という意味で、「法人格を作り出した」のである。したがって、紋章でいえるのは、まず「現前するために、誰かが持ち運ぶか、どこかに取り付ける」必要があり、次に、紋章は権利だけでなく、所有者がそうした権利をもつ法人格であることの証明でもあったということである。これはそれなりの変更を加えれば、肖像にも当てはまる。今日われわれはあまりにも性急に記号やイメージをその支持体メディアから切り離そうとする。そして、それらの使用法の重要な意味を受け取ろうとしない。しかし、紋章盾や肖像画に法的性格を与え、それらの記号やイメージの意味を作り出したのはほかでもないその使用法であったのだ。われわれ近代人のまなざしはモデルとの「類似性」の観点から表現力に注目するが、王家の死者崇拝において仮象身体、つまり身体の代役が果たした役割によってわれわれになじみの「代理=表象」の概念は、それ以上に表現の権利の意味を含むのである。

ベルティンクがイメージのメディアがもつ意味に目を向けさせるのは、まさにこうした社会の変容がメディアの変容とともに生じるからだ。
新たなメディアの登場とそれによるイメージの新たな使い方の発明があって、はじめてそれまでの時代になかった社会のシステムが可能になる
法人格という社会的な装置の発明などはその典型だろう。

しかし、大事なことは、そうしたイメージとメディアの関係性だけではない。法人格ということであれば、とうぜん、その肖像画に描かれた実際の人物の身体という要素を抜きにしては語れない。
ゆえにイメージ=メディア=身体という問題提起をベルティンクは行うのだ。

今日のわれわれは肖像のほうを「自律的肖像画」と呼んではばからないだけでなく、直接、身体を表すのは、ただそうした肖像画だけだと考えている。しかしその際、法的要件において肖像板絵に代理と認証の役割を与えるひとりの人物が、背後に控えているということが忘れられている。宗教的領域でも、肖像画は単に描かれた人物の容貌を家族と友人たちに思い起こさせるというよりも、その前で祈りに励むよう奨めるものであり、また神と象徴的対話を行うためのメディアでもあった。したがって、それは不在の人物と接触するための、一種のユーザー・インターフェースと呼べるかもしれない。

不在の人物と接するためのユーザー・インターフェイス。
その意味ではまさに現代におけるSNSやチャット、オンラインコミュニケーションツールとまさに変わりない。

そして、その意味では実際の人物の映像を介してのコミュニケーションと、VRコミュニケーションツール上でのアバターを介したコミュニケーションも、メディアの違いとそのイメージの使用法の違いによって、今後、新たな社会システムを生みだす可能性をもっているということだ。

そういう意味において、このイメージの変容の問題は、まさに現代的な問題なのである。

イメージの死、世界の死

最後に、「芸術概念の成立としてこのように記述される事態は、像が死者崇拝から引き離された結果、生じた構造とも理解できるだろう。アナロジーが死者崇拝においてもっていた存在論的指示関数は、芸術作品の技術的側面への賞賛とともに消え去るのである」というベルティンクの指摘は、すこし恐ろしい響きをもっている。

ダンテ以降、ルネサンス〜啓蒙主義の文化にいたるまで、精神と物質を分けた二元論が主流となるにつれ、イメージには生命が宿っていないと考えることが当たり前になった。
その感じはいまの僕らも引き継いでいるはずだ。
イメージに生命を感じたりすれば、むしろ、妄想癖があると疑われる。

しかし、先にも書いたとおり、それはダンテ以降のことであって、太古の社会はもちろん、ローマの時代においても像と生命は切り離されてなどいなかった。

ここで空虚な眼窩という言葉が示唆しているのは、像にはそもそも生命など宿っていないということであろう。しかし、われわれは次のように反論しなければならない。像の生命は、そもそも像に移し入れなければ、存在したことがなかったではないか、と。生命を像自体から導き出そうとするのは、当時の啓蒙思想の誤解にすぎない。といって、像に対する存在論的幻滅が新しい時代を開いたことも否定できない。つまり、これ以降、像は死んだものであるので、死者崇拝においても生命を体現することができなくなったのである。

像は死んだものとして扱われるようになった。
いわゆるオカルトにおいて人形が動いたり、死者がゾンビ化することが恐怖に感じられるのは、像は死んだものとして扱うことが浸透した結果だといえるだろう。

もっとも古代においても、像がそのまま動くものと信じられていたわけではなかった。像に加え、生気を吹き込む儀式が必須だった。

もっとも古代の文化では、像による死者の体現化はメディアだけに負わされていたのではなく、それ以上に儀式の挙行が必要であった。儀式の諸規則に従い、死者は強制的に像はに結びつけられたのである。儒教は死者への敬虔な追憶のために魔術的実践を拒否したが、そのような死者の追憶自体、死者をイメージによって連れ戻す儀式であり、生気の付与であることに変わりない。

儀式によって、像=イメージに生気を吹き込む。アニメーションする。
それはいま3Dモデルにリギングをほどこし、アニメーション可能にすることとどれほど異なるだろうか。リギング〜アニメーションという操作は現代における像に生気を吹き込む儀式ではないか。

古代の詩人たちも、像を抱きしめることができないように、死者に触れることはできなかったのである。たとえば、ホメロスがそうしたむなしい抱擁を描写している。オデュッセウスは母の像を両腕で捕らえようとするが、それは「影か夢のように」ふわりと逃げてしまった。身体と像の混同は失望をもたらすだけなのである。

これが像と身体が別物で、像が死んでいるとする際の根拠とも考えられるものだ。しかし、1つ前の「再物質化するイメージと動きだす世界」でも書いたとおり、VR空間に触覚的なヴァーチュアル・リアリティが付与されるのもそう遠くないし、バイオテクノロジーの発展は人工的な肉体の生成を可能にしようとしている。そこではもはや像は「抱き締めることができない」ものではなくなる。

そのとき、西洋の伝統的な二元論が維持した精神と物質の分離を維持することに意味があるようには思えない。

ましてや、こんなベルティンクの指摘を読めばいっそう、そう感じる。

ダンテが彼岸への旅で描いたものが、いまや画像という此岸の旅で取り上げられる。そのイメージによるだまし絵は、この後も絶えず求められ、やがてイメージ・メディアのテクノロジーによる生動化の未来にまで至るのだ。ダンテの場合は詩的ヴィジョンであったものが、このように絵画による虚構となったのである。(中略)今日では、誰もが認めるだろうが、イメージは生命の仮象に満ちていればいるほど、逆に身体世界の確固とした知覚を脅かし、まさに生命の虚構によって世界に死をもたらすのである。

僕らは、もう生命とは無関係なイメージのあり方に幕を引き、生命とイメージはちゃんと連動するような、そうしたメディアのあり方、そのためのテクノロジーの検討をはじめるべきなのだろう。

この本は、そうした新しいメディア・テクノロジー、イメージ・テクノロジーを考えるための示唆に富んでいる。
そうした分野に関わる人には、ぜひ一読いただきたい。


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棚橋弘季。人間の思考はどんなふうに作られているか?を問うことがライフワーク。とりわけヨーロッパ文化史に興味あり。中世後期から19世紀あたりまでを広く守備範囲に。渋谷のロフトワークという会社で働いてます。
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