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科学を人類学的思考の俎上にのせて

「人類学者には西洋を民族誌学的に研究することは不可能である」と書く、ブルーノ・ラトゥールの『虚構の「近代」』が、なかなか面白い。

「自分たちから見た異文化に対しては問題なく遂行できる研究でも、西洋文化(「自然-文化」と呼ぶべきか)に対してはなかなか遂行できない」というラトゥールは、自分たち西洋人が生み出した人類学という人間の文化・社会がどんな基盤の下に成立しているかを分析する方法が自分たちの外の異文化には適用できても、自分たち自身の文化にはうまく適用できずにいることを指摘する。

自然-文化

その要因としてラトゥールがあげるのが、西洋近代が絶対的なルールのように囚われている決して交わることのない「自然-文化」という二元論的なものの存在だ。"文化人類学"として、そもそも文化の軸から異文化における自然と文化の混淆をみる既存の人類学では、以下の図の上半分に示されたように、人間の文化と異なるものとして、非人間的なもよとして自然(科学)を位置づける西洋近代を捉えることができない。そもそも、人類学自体が、自然-文化的な西洋的構図に縛られているからであり、その視点でみるから、自然-文化を未分化で混淆させたままでいる非西洋的な社会を「未開」と考える。

しかし、本当に、近代西洋人がそんなに異文化の人と違って、自然と文化を分化させているのだろうか?とラトゥールは問う。いや、問うまでもなく、両者が混ざりまくったハイブリッドで溢れているのは、むしろ、西洋ではないかと指摘する。

分析者が優れた感覚の持ち主なら、西洋社会において病原菌、ミサイル、燃料セルを分析した際に私たちが描き出した、あのネットワークに酷似したものをそこに見出すはずだ。それは「社会技術的なもつれ」ともいえるものだ。つまり、私たちだって空が落ちてきはしまいかと恐怖を抱くし、エアゾールのスプレーを噴霧する、そのちょっとしたしぐさを天空にまつわるタブーに結びつけている。また、上空の大気圏で起きる化学作用について科学が教えるところを理解するには、私たちだって法律、権力、倫理を同時に考慮に入れなければならないはずである。

西洋人も実際は、ハイブリッドなものが溢れる社会に生きているし、科学と、政治や経済やアートやらの非科学的な思考法が織り混ざった中で思考し創造している。ただ「もっとも私たちは彼らの言う未開人ではないので、そのように私たちを研究した人類学者はいない」というだけだ。
いや、これは西洋人だけの話ではなく、すっかりどっぷりと西洋的思考や生活に馴染んでしまっている日本においても同じことだ。僕らも科学的思考を何か特別なものとして考え、非論理的な思考やデータに基づかない思考を一段下のものと評価しがちだ。しかし、それは単なる幻想でしかなく、科学にしたって、他と同じ人為的な妄想と切り離せることのできない思考でしかないことに無自覚すぎる。
ラトゥールは、その点をこの本のなかでしっかりと指摘してくれるので面白い。

科学を自然に接続する手品のタネ

さて、そんな風に面白く読み進めるラトゥールの本の中に、こんな一文がある。

テクノロジーのネットワークとは、その名の通り空間に広げられた網であり、いくつかの要素が空間内にぽつんぽつんと点在している状態のことをいう。それは面ではなく連結された線である。張り巡らされ遠くまで延びてはいるものの、表面をすべて覆うわけではない。包括的、グローバル、組織的というには程遠い代物である。

この一文は、いまら僕らがスマホなしでは日常を生きていけないことを思い出させる。
インターネットは世界中をひとつにつないで、ある意味、時間や空間を超越した価値や情報の享受を可能にした。しかし、この「どこでも、いつでも」にみえる状態は、スマホに代表されるネットワークに接続された端末ありきで可能になっているものだ。
一見、包括的だったりグローバルだったりしているように見えるが、実は「表面をすべて覆うわけではない」し、ただの「連結された線」でしかない。「ネットワークはどんな場所へも伸ばすことができ、時間的、空間的に拡散させることができる。ただし、時間や空間を満たすことはないのである」とラトゥールの指摘は、インターネットに限らず、交通網、放送網など物理的なものはもちろん、研究者たちの論文をベースとした知の体系などでも同様のものであることを思い出させてくれる。

スマホなどの端末機器がなければネットワークの中の価値や情報が意味をなさないのと同様、駅やテレビなどの受信機がなければネットワークの価値は成立しない。そして、それは科学というあたかも自然と一体化したように思われる知の体系でさえ同様なのだ。

異文化間の関係を樹立する、文化を共約可能にする、測定装置を調整する、度量衡の連鎖を設ける、対応項目の事典を作成する、規範や基準が相容れるかどうか議論する、計測されたネットワークをさらに延長する、価値測定装置を設けてそれをめぐる折衝を行う--こうした活動が「相対主義」という言葉のもとで目論まれているものだ。絶対的相対主義は、その宿敵でもあり兄弟でもある合理主義同様、最初に測定装置を作り出さなければならないことをすっかり忘れている。機器類の働きを無視し、科学を自然に一体化させようとする。

科学は自然なまま、自然と一体化しているわけではない。
そこには、自然の計測を通じた数値化、そして、その数値化を可能にする機器類と数値化のための取り決めといった人為的な装置が不可欠だ。

その手品のタネを忘れて、あたかも科学が自然を自然のまま語っているかのように考え、政治や経済やアートのような思考とは別のことをしているなどと考えるのはおかしい。

ボイルの時代以来、私たちの文化の根幹を構成するものが常時、人類学者の目をすり抜けてきている。私たちの住処であるコミュニティを支えているのが、実験室で作られた対象を軸として結ばれる社会的絆であることに彼らは気づいていない。実践が思想に、あるいはコントロール下で紡ぎ出されるドクサが反直証論法に、そして科学者の承認が万人の同意に取って代わったことも見過ごされている。事実は人間が作り出すものとはいえ、人間の手作り品ではない…。事実には因果律はないが説明は可能である…--事実の超自然的起源が、こうして実験室内で高らかに宣言される。

すでに「自然の極と精神の極」で紹介したように、ロバート・ボイルをはじめとする、17世紀の英国王立協会の科学者たちが、実験をなかば見世物的に次々と敢行して、「ボイルの法則」など、さまざまな科学的な法則を打ち立てはじめたのが、ある種、近代的な思考のはじまりだ。

実験、あるいは、それに用いる空気ポンプと機器を、あたかも自然そのものが自身の秘密を語っているかのように"代理"する方法が、まさに同時代人であり、ボイルと激しく論争もした政治学者のホッブスが確立した政治における"代理"制度と双璧を成して登場した点を指摘するラトゥールの視点は、M・H・ニコルソンの『ピープスの日記と新科学』などを通じて、17世紀英国での科学の誕生がいかに同時代のアートや錬金術や、顕微鏡や望遠鏡やらその他機械仕掛けのまやかしとは切っても切れない縁であることを知っている僕としては納得がいく。

自然も、科学も、社会を反映してるし、社会も自然や科学を反映している

だから、ラトゥールが正しく指摘しているように、自然-文化を交わることのない異なる2つの極として、思考の前提に置くのではなく、アートも科学もテクノロジーも政治も経済も手品師のハッタリも詩人の感性も混ざり合ったハイブリッドな思考からさまざまなアウトプットが創造されるほうが最初だと考えた方がよい。
二元論の軸は単にそうやって生まれたものを後から分類して純化させただけの恣意的で派閥的なものでしかないことを、認識した上で議論しないと不毛なことが多い。

近代の知性や権力が前近代と異なるのは、社会の圧制をようやく逃れたということではなく、社会的結合を組み立て直し、さらにそれを延長するために、より多くのハイブリッドを追加したということなのである。空気ポンプだけでなく、微生物、電気、原子、天体、2次方程式、オートメーションとロボット、ひき臼とピストン、無意識とニューロンの情報伝達などが追加された。螺旋の1つひとつの旋回において新たに準モノが翻訳されると、社会全体、主体や対象は新たな刺激を受ける。「彼ら」(非西洋人)にとって自然は社会構造を反映しているのだが、同じように「私たち」(西洋人)にとっても科学やテクノロジーは社会を反映しているのである。

どんな方法で、どんな領域のどんな対象を思考するにしても、僕らはその文化や社会の構造やら何やらを反映して思考せざるを得ないし、それらはどれも人為的なものだ。
そこに使われるのが、神話なのか、遠近法的な視覚像なのか抽象画のコンポジションなのか、はたまた空気ポンプや電子顕微鏡かDNA分析装置なのか、4元素なのか元素の周期表なのか、職人技なのかAIによる生成なのか、ということに関わらず、すでにいろんな人為的なものや自然の影響を被ったハイブリッドな背景の元でしか生成されえない。
だから、ラトゥールが示す、こんな図の下半分のように、西洋的な視点を外してみれば、非西洋と西洋の思考の基盤にあるものは何ら変わりはない。

そういう前提のもとで、どんなことでも他の誰かや異文化の人と議論をするのであれば、相手と自分は寄って立つものが違う可能性があり、そのどちらが優れていて正しいなんてことは決定しようがないことを認識したうえで、相手に敬意をもって話をすることが大事だろう。
そうでなければ、どんな意見だろうと押し付けでしかない。それは科学的な思考に基づいていようとなんだろうと、変わらない。


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