四季がなくなって、私はいない。

スーパーにスイカが並んでいた。
夜中の気分のままヒートテックの重ね着で外に出ると、歩いているうちに汗が滲んできた。
アロハシャツを羽織っていたけれど、季節と矛盾したのは肌着の方だった。
ゴールデンウィークの始まりを告げる祝日、街は静かだ。

今日の晩御飯は唐揚げ。
夕食だけは友人と協力して文化的なものに仕立て上げている。
しかし、それ以外の日常生活は堕落の一途である。
朝、カーテンの隙間が白んできてから眼を閉じる。
昼過ぎにやっと身体を起こして台所に行くと、一時間の差で友人も同じような習慣に生きていた。

最近、夏を待ち遠しくしてばかりいる。
暑いのは苦手、でも寒いのよりはまし。
越してきたこの家のたった一つの問題は、エアコンが使えないこと。
私の部屋に一台付いているが、古いし長らく掃除もしていないようで、たぶん業者さんに来てもらわないといけない。
エアコンに関しては目下検討中だが、別のアイデアもある。
夜風で過ごすのも悪くはないのでは、と考えているのだ。

日中だって、この家の風通しなら大丈夫なのでは、と。
今は簡単にそう思うけれど、きっと夏になれば、そうは言ってられない。
夏に何を期待しているのか。
季節が変われば、何か変わるだろうか。
ただ当たり前が当たり前にあって欲しいだけ。
それだけかもしれない。

去年の夏、シンガポールにいた。
この国は一年中蒸し暑い夏で、日本人の言う四季はない。
どこに行っても室内は常に空調が効きすぎていて、上着がいるくらいだ。
常夏であるために大きな施設内(あるいはどこでもそうかもしれない)では、空調を一括管理していて、自由に温度を変えられる部屋がなかったりする。
私たちの社会では、チェーンのカフェなどに行けば自分の席だけ空調を上げてもらったりできる。
四季があるから、誰もが、自分に最適な温度に敏感なのかもしれない。

日本の夏は、過ごしにくい。
これは他と比べなくてもそうだろうし、カリフォルニアには他州のアメリカ人だって憧れる。
だけど、日本の夏でなくて、どんな夏があり得ようか。
二週間の短い滞在から帰って、関空の外に出たとき、空気がずっしりと肩に乗っかって来るのを感じた。
"うだるような"暑さ、この意味が改めてしっくりきた。
シンガポールの気候は、確かに日本の夏に似ている。
けれど、やっぱり全然違う。

日本人がいなくなるときには、日本の四季もない。
日本の土地の四季がないところに、私はいない。
飛行機は、身軽に人間の身体を運ぶ。
でも、本当は、何一つ運んでいないような気もする。
降り立った先の見知らぬ土地で、私たちはほとんど何の工夫もなしに、呼吸し、歩き、食べることができるけれど、それは一体どういうことなのか。
私が私の影のように歩いているとき、私を私として歩く私は不在になって、その浮遊のあいだに出逢ったものが、ことごとく現実であったことを知る不思議。

スーパーにスイカが並んでいた。
今日は買わなかった。
もう少しすれば、私の手は自然に伸びる。
そうなれば、夏が来る。