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世界で活躍する同世代の起業家の人生をたどる - Andy Dunn/Bonobos編

とうとう来ましたBonobosのAndy。今日の偉人伝はAndy Dunnです。お話していきます。これまでの偉人伝noteは、読んでいて気持ち良くなるようなサクセスストーリーの雰囲気があった中で、今回は葛藤と苦悩、Hard thingsに満ちた大人の偉人伝になっていると思います。書きたいこと多すぎてまとまらず、過去最長の1万字でお届けします。

Bonobosは日本では流通していないブランドなので、最初に紹介したく。まずはこちらの動画をどうぞ。

動画にある「masculine(男らしい)」の定義を現代に合わせてより柔軟に、男性が自分らしくいられるようにしようというコンセプトに基づき、Eコマースを活用して、華やかなバリエーションの男性向けファッションを展開しているブランドです。

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(写真引用:Pinterest

アメリカに住んで衝撃だったこととして、男性のファッションが、日本に比べてシンプル、というか言葉を選ばずに言うと、適当だったことを思い出します。髪型も服装も、こだわりすぎている男は女々しい。男はTシャツ、ジーパン、髪型はツーブロックでOK!!その分筋肉と無精髭で男出してけや!!的なプレッシャーを感じつつも、申し訳ないことに、僕はヒョロガリ東アジアの一般ピープルなので、その傾向には乗れず、ちょっとした生きづらさを感じていました。

そんな中でBonobosのファッションはカラフルでバリエーションが多くて、日本人の好みにも合う!と思ったブランドだったので、印象に残ってます。今日はそんなブランドの創業者であるAndyについて、恒例のPodcast 「How I built this?」に沿いながら、ご紹介していきたいと思います。

幼少期~起業まで

シカゴの中流階級出身で、父親は教師、母親はインドからの移民でX線の検査技師をしていた。シカゴ郊外の地元では白人の存在が圧倒的で、母親がインド系であるため、高校生の頃に同級生からイジられたことを覚えている。
ノースウェスタン大学で学位を取得した後、投資銀行で働きたいと思い、2005年にスタンフォード大学の経営大学院に通った。350人の同級生は皆、多様性があって連帯感が太く、それぞれのバックグラウンドを活かして助け合いながら学生生活を過ごした。そこでBrian Spalyという素晴らしい同級生と出会い、ルームメイトになる。実はBonobosのアイデアを持っていたのはBrianの方だ。彼はアメリカで流通している男性向けパンツが、ぶかぶかのものか、超細身のものしかなく、満足いくものが無い状態に不満を持ち、クラスメイトにユーザー調査をしていた。
既存の男性向けパンツは丈が合えば腰回りがぶかぶかで、逆にぴったりのウエストにするとぴちぴちしすぎると、皆一様に不満を持っていた。そこで彼が実現したのは、パンツのウエストを合わせるためにゴムのウエストバンドを腰回りにつけるというアイデアだった。
更に天才的なひらめきとして、そのウエストバンドをカーブにすることで、腰回りのラインをすっきりして、綺麗なシルエットを出すという工夫をした。これは男性用パンツのデザインとして、見たことが無い取組だった。

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(ウェストバンドをカーブさせることでヒップをすっきりさせられるようデザインされた、Bonobosのパンツ 写真引用:bonobos.com

(※ファッション初心者なので、訳が正しくないかもしれません。お気づきの方がいれば、ご指摘いただけると有難いです。)

2年生の春休み。Andyはケニアに研修へ、Brianは同級生の結婚式のため、ブラジルへ行こうとしていた。BrianはAndyに「結婚式に行って良いと思う?残ってパンツの開発を続けるべきかな?」と聞いてきたので、「一生の思い出だからブラジルに行けよ」と告げて、自分はケニアへ向かった。
旅から帰ってきてBrianに「ブラジルどうだった?」と聞くと、彼は「行かなかった。パンツの開発を続けたほうが良い気がした。」と言い、カーブドウェストバンドつきのパンツの試作品を見せてくれた。サンフランシスコの仕立て工場と話して作り上げた、素晴らしいターコイズ色のコードゥロイパンツのサンプルを見せてくれた。
Brianは自分の貯金を使って起業し、クラスメイトに自分がつくったパンツを売り始めた。サンフランシスコのジャイアンツスタジアムの近くの裁縫工場で作ったオリジナルパンツをTrader Joe's(アメリカのオーガニックスーパー)の手提げかばんに入れて学校を練り歩き、クラスメイトに売り続けた。とても評判が良かった。ある日、Pants partyを家でやろうとなった。家に集まって、簡単な即売会兼ホームパーティのようなものを開催した。その日だけで、16,000ドル(約180万円)を売り上げることができた。Andyはこの時司会をやったり、写真を撮ったりして、パーティを盛り上げた。2人で「これは何かが起きるかもしれない」と感じた日だった。
ある日、Brianがブランド名をBonobosにしたいと言い始めた。誰も言葉の意味が分からなかったが、Brian曰く、「争いを嫌い、平和を愛する優しいチンパンジーのことだ」という。なんでそんなことを知ってるのかもわからなかったが、当時はこの事業はBrianの趣味のようなもので、彼が全てを決めていたので、口は挟まなかった。

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(これが、争いを嫌い、平和を愛するBonobos。)

ただ、実はBrianは就職活動先から内定が出ていて、卒業したらプライベートエクイティで働く予定だった。Andyは「この素晴らしいパンツをインターネットで売ればいいのに。俺も興味があるから、やってみたい」と告げると、奇妙な話ではあるのだが、BrianはBonobosをAndyに譲渡すると言い、Andyが共同創業者兼CEOという形で経営することになった。もしこの事業がうまくいけば、Brianは戻ってくるという条件つきだった。

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(若き日のAndy(写真左)とBrian(写真右)、写真引用:CBS.com

MBAを卒業したあと、シカゴに帰省した。シアトルにあるMaveronというベンチャーキャピタルから内定が出ていたが、両親に向かって「内定は蹴ってパンツを売る会社をやりたい」と告げた。母親はとても驚いていたが、承諾しれくれた。これが2007年の夏。

なんか爽やかな友情ストーリーという感じですね。AndyとBrianが若くてエネルギッシュで、すごく熱い感じが写真から伝わってきました。てかMBAホルダーながら自分でパンツを裁縫できるBrian、マルチタスクすぎるのだが。

起業~決別まで

2007年の卒業後、引き続きパロアルトに住んだ。当時、手元資金は全く無かった。貯金も無く、逆に学生ローンで16万ドルの借金があった。なけなしの数千ドルのへそくりと、Brianが貯めた過去の売り上げが、数万ドル程度。運転資金が必要だった。
投資家へのピッチとして考えたのは、まず、商品の品質に加えて、「未来の小売」を指し示す、インターネットでの販売戦略だった。小売というものは商品の質とカスタマーサービスの2つが両輪になって顧客満足を高めていくもの。Bonobosはこれをインターネットの世界で実現しようとした。小規模のブランドにこそ、インターネットでの販売はうまく機能すると考えた。ラルフローレンとAppleの融合みたいなアパレルを目指す、というようなことを話そうと考えた。

ネットでアパレルやろうというアイデアは当初からAndyにはあったようですね。ここで商品の質に加えて、リテールテック的な動きを取り始めます。

最初に話を持ち掛けた投資家は、Joel Peterson氏 で彼はスタンフォードMBA大学院時代の教授で、空き時間に個人でエンジェル投資を行っていた。朝7時からのミーティングに呼ばれた。Andyの説明に、彼は静かにうなづいていた。Joelは「Jetblue(アメリカ大手LCCの創業者)のDavid Neelemanを思い出した。業界常識に捉われず、顧客中心のUXを作り直すアイデアだ」と言い、アパレル業界を再定義するゲームチェンジャーになるかもしれない、とまで言ってくれた。
いくら投資して欲しいの?と聞かれ、30万ドル(約3,300万円)で株価全体の10%を差し上げます、といった。そしたら「時価総額は300万ドル(約3.3億円)ということだね。もし時価総額を200万ドル(約2.2億円)にするなら、30万ドル出資しよう」と言われた。うーん、できれば今の時価総額を維持したいと思い、別途、同大学の教授であり、Benchmark社の共同創業者でもあるAndy Rachleff氏にも相談した。彼もまた投資したいと言い、彼は時価総額は300万ドルのままで良いと告げた。ひとまずこれで出資者の目途はいったんついたと思った。

すごくスムーズに投資を集めることが驚きですね。スタンフォードMBAのネットワークの強さよ。同じように、驚いたインタビュアーが、Katrina Lakeの話を引き合いに出します。以前紹介したように、彼女は投資を集められなかった。同じMBA出身で、アパレルの話なのに彼女は非常に苦労したが、この違いをどう思うか?とAndyに問いかけます。

Andyの妻も姉妹も起業家なので同じように問題意識があるが、投資環境には多くのジェンダー問題があるというのは同意する。B2C市場はグローバルにおいて65~80%くらいは女性の購買によって行われている。なのにベンチャーキャピタリストの中で女性は9パーセントしかいない。女性が何を買うかわかっていない男性も多く、ミスマッチがあるということは同意する。

そんなサイドストーリーの紹介もありつつ、いよいよ事業の拡大に入っていきます。

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資金のめどがついた上で、ニューヨークに向かった。MBA時代の先輩のMichaelにサポートしてもらい、小さな即売会を開催した。彼の友人が何人か参加してくれた。顧客はファッションのプロというわけでは無く、今の服装に不満はあるけどどうしたらいいかわからない、というレベルの人たちだった。7人が3着、6人が2着、何も買わなかったのは1人だけだった。この結果を見て、ニューヨークで会社を経営しようと決めた。
2nd Avenue のアパートを知人が借りてくれた。100着くらいのパンツを並べて、ネットで買った人に配送するための在庫、兼店舗として展示した。その部屋の一部でAndyは寝泊まりした。地道に口コミで、興味を持ってくれた人にリファラル形式で商品を売る日々が続いた。最初の従業員を雇い、ネットでブログを書き、「男性にフィットするパンツを作る」というブランドの背景や目指す姿について語った。
2007年10月に通販サイトをオープンさせたが最初は全然売れなかった。10月は10ドル、11月は20ドル、12月は30ドル...年が明けて年始は売上がゼロ。結局1月は30ドル、2月は60ドル、3月は90ドルと低空飛行が続いた。その最中に、アパートの一室で店舗をしていたことが大家にバレて、部屋を追い出されたりした。仕方なく、6th Ave/16th Stあたりに引っ越したりした。
低空飛行を続ける中、2008年3月にBrianが戻ってきた!これは本当にありがたくて、彼が製造や品質管理、デザインを全て見てくれたので、Andyはマーケティングやカスタマーサービス、投資家周りなどに専念することができた。ところが、それが次の問題につながった。まったく同レベルの経営者が2人。意見も2つ。うまくまとまらなくなった。これまでずっとパンツに専念してきたから次の商品をやろう、となった時に、Brianは水着、Andyはシャツをやりたいといった。お互いにそれらしい理由がある。そんな感じで、あらゆることで衝突した。友人がビジネスパートナーになってしまったら、もう元の関係には戻れないのだとこの時に知った

ニュース番組の特集に出演するAndyとBrianの秘蔵映像を見つけました。放送は2008年8月。まさにこの時期の2人の肉声が聞けます。

Andyはひどく落ち込み、思い悩む日が多くなり、うつ病に近い症状が出始めた。薬を飲み、何とか自分を奮い立たせて会社に向かう日々が続いた。お互い、理性を保ちながら仕事をしていると思ったが、ある日投資家から電話がかかってきて、「社員から、AndyとBrianが毎日、社員の面前で口喧嘩していると聞いた。問題の原因を探り、社の問題としてしっかり解決したほうが良い」と言われた。どうしてこんなことに‥と思い悩んだ。
自分が辞めるべきか。Brianに辞めてもらうべきか。会社は悪くない。どちらかが残って決断をしっかり下せば、会社は成長していけると思った。友人に、セラピーに通えと言われた。そんなことはみじめで恥ずかしくて、行きたくないと思ったが、行かざるを得なかった。幾つかのカウンセリングを経たあと、セラピストに「あなたは、今の問題に怒りを抱えていますか?」と聞かれた。「怒り?怒りって何に?」と考えて、自分が身の回りで起きているあらゆる変化をうまく自分で対処できず、結果として周りに怒りをまき散らしていることにようやく気づいた。
すごく複雑で、表現するのも難しいが、Brianに長いメールを打った。「きっとどちらが会長職につき、どちらかがCEOになるべきだと思う。CEOは身の回りの意思決定を行い、会長はもっと外部との関係構築に専念すべきだ」と告げた。

これは、言葉が出ないくらいに辛い状況ですね…。

その後、週末土曜日にまだやることがあってオフィスで働いた時に、AndyはBrianに対して、「いまやっているこを全て手放して、いまの立場から離れてくれないか」と告げた。驚くほどあっさりと、しかしうっすら涙を流しながらBrianは「わかった」とだけ告げた。Andyはずっと、この話をした時にBrianとどんな会話になるのだろうと怖くて、何度もその様子をイメージしていたので、こうもあっさり承諾されたことに少し驚いた。一方、心から愛するものを手放す瞬間とは、こういうものかもしれないとも思った

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(写真引用:Medium

Brianは自分がつくり、自分が名前を付けた会社をこうして、完全にAndyに譲ることになった。2人はそれから友情を取り戻そうとしたが、時間がかかった。2人で夕食をしたり、Andy地元のChicago Cubs(プロ野球のチーム)の試合を見に行ったり、そういう関係に戻るまでに1年必要だった。結局BrianはBonobosを離れて、別の企業で働くことになった。
2007年はそういう年で、人生でこれ以上ないというくらい辛い年だった。ところが、2009年はもっと辛い年になる。2007年に起こったのは、誰が悪いとかいう類の問題では無かったが、2009年は圧倒的にAndyの経営者としての手腕が原因で、会社が困難に陥るからだ

大学院時代の青春ストーリーとは一転して、起業当初の衝突や創業者問題など、色んな問題が噴出していく様子を語っていました。しかしこれから経営は長らく、難しい状況を迎えるようです。

葛藤~兆しまで

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(写真引用:地球の歩き方

2009年、事業が思ったように伸びず、経営が困難になる。資金ショートし、このままだと従業員に給料が払えないような状態になり、急遽ニューヨークからパロアルトへ向かった。サンフランシスコ空港でレンタカーを借りようとしたら、会社のクレジットカードは限度額超過で利用できなかった。仕方なく自分のカードで車を借りて、シリコンバレーを目指した。みじめな気分だった。
スタバに入って、近くの投資家にアポを取り、事情を説明して、出資をお願いする。何とか10万ドル(約1,100万円)融資してもらって首の皮を繋ぐ...。こんな電話を何十回もし、こんな生活が何か月も続いた。結局、総額800万ドル(約8.8億円)の調達を祝うタイミングで、120人もの投資家がいるという状態だった
ビジネスの状況は、良くなかった。初年度に200万ドル、2008年度は400万ドル、翌年は700万ドルと、じわじわ伸びている状況だった。それよりも重要な問題は、第2ラウンドとなるエンジェルからの投資において、高値で調達をしすぎたことだった。第1ラウンドで投資をしてくれたJoel は、このことにひどく腹を立てていた。Joelにフォローのメールを入れたが、悪い言い訳のようになって更に彼を怒らせてしまい、彼からは手元の株式をすべて手放して、投資先から離れたいと言われてしまったのだった。
もう何と言っていい変わらない程にショックな体験で、すぐJoelのもとを訪れて謝罪した。「投資の再開については今の時点では回答できないので、時間を空けて話そう。」と言われた。Andyは「あなたにはメンターとして、困難を乗り越える方法を沢山教えてもらった。もし、投資対象に残らないとしても、せめて取締役として経営に残ってほしい。」と懇願した。Joelは了承してくれた。

Hard things続きすぎる。。

問題はもう1つあった。インターネットでパンツを売るうえで、検索やレコメンド表示アルゴリズムの構築などソフトウェア技術者のサポートは欠かせないが、当時はニューヨーク在住のエンジニアが全然いなくて採用にすごく苦労した。良いエンジニアは西海岸にいたし、良い候補を見つけたとしても、アプリ開発やAIの企業で働きたい人が多く、男性用パンツブランドで働きたいと思ってくれるエンジニアはなかなかいなかった。結局、良いエンジニアを採用するため、2012年にパロアルトにもオフィスを開設することになった。これが更なるカオスを生むことになる。

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(当時のパロアルトオフィスの様子。写真引用:Pinterest

デザイナーやマーケターはニューヨーク。エンジニアはパロアルトにいるという状況。2か所になれば、それぞれのオフィスが別々のことを考えるようになる。単純に支出も増える。そこで採用するエンジニアは、FacebookやNetflixでも働けるような人材だから、当然人件費がとてつもなく高い。そして、なかなかうまく機能しなかった。テックとリテールは、当時、そのくらい遠く離れた産業だった。更にAndy自身も週2でパロアルト、週3でニューヨークとなると、従業員と意思疎通をとるのも今より難しくなった。
会社として1つのビジョンを共有し、その理念に向かって一丸となって動くことを社員は求めていると感じたが、それは極めて難しいと感じた。考えた結果、翌年の2013年、西海岸オフィスは閉鎖しようと決め、取締役会に持ち掛けた。皆、「時期尚早では」「もう少し様子を見ては」と言ってきたが、増え続けるコストや内部調整の時間、従業員のすれ違いを考えると、猶予はないと判断して、結局閉じることにした。
Bonobosは今も昔もリテールxテック企業と言ってきたので、この決断は本当に怖かった。朝令暮改のような意思決定をする怖さも取り込んだうえで、全部自分が責任を取ると伝え、2013年、パロアルトオフィスを閉じた。
ただ勿論、エンジニアの問題は解決していない。そこでどうしても残ってほしいデータサイエンティスト2人に近くのカフェに来てもらい、平身低頭、頭を下げてお願いしたどうしてもカリフォルニアからニューヨークに来て欲しいと。1年か2年、事業が軌道に乗るためにどうしてもその人たちの力が必要だった。頼み込んで、ニューヨークに来てもらった。
そんな2013年度だったが、事業としては依然赤字のままだった。会社としては本当に厳しい時期だったが、この苦しい状況から1つずつ学んで、改善していくしかなかった。「会社は赤字で潰れるのではなく、経営者が諦めたら潰れるのだ」と自分に言い聞かせて、日々の経営にあたった

なんてこった…。本でしか読んだことのないHard thingsがそこにありました。実際はAndyが自分の声で話すラジオを聴きながらこの記事を書いているので、書きながら泣きそうになるような状態です。でもここから徐々に、Bonobosに変化が訪れます。

変化~買収まで

そこから少しずつ変化の糸口が見えた。理由の1つは、販売のマルチチャネル化だ。これまでネットでパンツを打っていたのに加え、徐々にノルドストロームのようなデパートメントストアに卸し始めたところ、利益が出始めるという現象が起きた。これは不思議な矛盾だ。普通、BonobosのようなEコマースアパレルが台頭するにつれ、大手デパートは苦しみ、経営が悪化していく。にもかかわらず、Eコマースアパレルが最大の利益を出せる場所が、実はデパートメントストアだったのだ。その次が小売店舗。Eコマースに投資し続けるほど、オフライン店舗が儲かるという不思議な現象が起きた。

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(米国最大規模のデパート、ノルドストローム)

これについて、取締役会で出た興味深い議論を参照して論じたい。それは「Bonobosはネット通販の会社なのか?それとも体験提供の会社なのか?」ということだ。Bonobosではネットで服を買うが、その前に店舗を訪れて、試着をしサイズを確かめてから、ネットで購入する動線を用意している。
つまり店舗はタッチ&トライのための場所なのだ。そこからも言える通り、Bonobosはネット通販を目的とした会社ではなく、顧客1人ひとりに適切なサイズの服を見つけ、試す体験を提供する会社であることを、企業のコアに置けば、その商品を実際に買う場所がどこであれ、体験の一貫性という意味では関係ないという風に考えられる。この点を「自らはネット通販の会社だ」と考えると見落としてしまうのだ。
そうした時に在庫をどう捉えるべきだろう。Bonobosは大量のサイズパターンとカラーバリエーションがあり、在庫を抱えようとすると沢山スペースが必要になる。行きついた答えは、在庫なんて店舗にいらないということだ。顧客は買う服さえその場で決められたら、その場で持って帰る必要なんてない。アパレルをやって、その感覚が分かった。だからBonobosの直営店舗では基本的に在庫は置かない。一方で、忙しいけど買い物に来てる人もいて、そういう人はすぐ商品を持って帰りたいと思う。その時はデパートで買ってもらえれば良い。そういう、顧客にあわせた体験提供を常に考えていた。

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(在庫を置かず試着にフォーカスする、Bonobosの店舗 写真引用:bonobos)

このオンラインのUXの中にオフラインが存在するという考え方は、名著アフターデジタルの中でも語られている内容に近いように思います。

2014年以降、徐々に経営が軌道に乗り、2017年にBonobosはWalmartに買収されることになった。この世紀の買収をどう考えていたのか伝えたい。
実はこの時点で、創業当初から投資してくれていたエンジェル投資家には、10年近くずっとお世話になっていることになる。何人かそういう古参の投資家がいてくれた。会社を次のステージに乗せる意味でも、更に多くの出資者を集める意味でも出資配分について次の手を打つ必要があると思っていた。特にIPOされているコンシューマ向け小売企業から学ぶことが多くあると感じていた。
ある時、見知らぬ番号から電話がかかってきて取ると、Jet.com(※会員制のEコマースサイトとして始まり、顧客と事業者が直接やり取りできるなどAmazonにない取組で成功したECサイト。2016年にWalmartが買収。詳しくはこちらから)からだった。今の状況を考えると、会社の今後について相談するベストの相手だと思った。その時はBonobosがWalmartに買収されるなんてイメージがつかなかったが、向こうも東海岸にいたし、話だけでも聞いてみようと思った。同社CEOのMarcは素晴らしいビジョンを持っていた。彼は、Netflixがあらゆるコンテンツを包括する素晴らしいプラットフォームになった上で、目玉となるオリジナルコンテンツを発信したように、小売におけるNetflixにJet.comはなると。その時にBonobosというブランドは、プラットフォームをけん引する目玉になるだろうと言った。

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(参照:Jet.com

結局1か月でディールはまとまり、3.1億ドル(約350億円)という高額でBonobosは買収されることになった。Andyはこれまでの苦労が報われたと感じた。苦難の日々を乗り越え、これだけ評価される会社を経営することができたことを誇りに思うと告げた

・・・

ということで、Andy Dunnの偉人伝をお届けしました。実は後日談としてWalmartは2019年にBonobosを手放すことになります。この買収の成功・失敗については様々な意見がありますが、今回はそこではなく、創業者の苦悩や共同創業者との衝突、資金を巡っての葛藤、当初掲げていたテックxリテールを実現するための挑戦について、生々しくお伝えできればと思っていたので、想像以上の文字数になりましたが、書ききれたことに満足しています。

個人的には「会社は赤字でつぶれるんじゃない。経営者が諦めたら潰れるんだ」が熱くて好きです。よかったら皆さんの感想を教えてください!ではまた次回の偉人伝でお会いしましょう~。

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