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「する」は見えるけど、「しない」は見えない

SNSを通して色んな人とコミュニケーションを取る機会が増えてきました。実際に話してみましょう、会ってみましょうという機会も増えてきて最近は嬉しいことが多いです。そんなとき、ふと思ったのです。

「この人は○○しない」とSNS上のコミュニケーションだけでは分からないと。

いまのSNS中心のコミュニケーションでは「しない」を感じるのはとても難しくなっている気がします。SNSは構造上「する」が注目されるモノです。「しない」の可視化はされません。

もともと人の行動にある「する」と「しない」の二つを取り上げると、きっと「する」に注目が集まりがちなんだと思います。

この傾向がSNSの世界ではそれがさらに顕著になっているんじゃないでしょうか。「この人○○しないなぁ」とSNSだけのコミュニケーションしている人に感じることはとても難しい。

僕が「○○をします」と言ったことは、すればすぐに分かる。しなくても分かる。
僕が「○○をしません」と言ったところで、その行動が本当かどうかは長い時間をかけないと分からない。

SNSが可視化したのは「する」の世界観。
逆に「しない」はさらに見えなくなっていった。
そんなコトを思うのです。

さて、そんな気づきから「相手がすること」と「相手がしないこと」について考えてみましょうか。あくまで僕なりの捉え方ですよ。

例えるなら「相手がすること」は足し算。

目に見えるから、分かりやすい。最初から、ある程度の認識をつくることもできる。しかも、相手が「すること」をどんどん重ねていけば、情報の蓄積から精度も高まっていく。だから足し算。

一方で、「相手がしないこと」は引き算。

「しないこと」を見ることはできない。相手と長い時間に渡ってふれ合い、たくさん「相手のしたこと」を蓄積した結果、逆方向の「しないこと」がボンヤリ見えてくる。「相手のしたこと」が一定数あつまらないと引き算はできない。コミュニケーションを重ねることで、少しずつ「しないこと」の輪郭が明らかになる。

「する」にはその人が生み出せる価値が現れている。「しない」にはその人が持つ美学が現れている。そんな表現ができるかもですね。

「しない」には意志が宿っている。「する」は他人から評価されるけど、「しない」が評価されることはほとんどない。自分自身のあり方として「しない」を決めている行動ですよね。

だからなのか、「すること」から抱く印象と、「しないこと」から抱く印象って、結構ちがうかもと思うのです。「する」は期待、「しない」は安心。なんとなく、そんな感覚です。

「こんなことをしてくれる人なんだろう」と感じられると、期待が相手に向けられる。一方で「こんなことはしない人だろう」と感じられると、自分がここにいられるような安心感を抱く。期待と安心がセットになると、もっと大きな感覚につながるんでしょうね。この感覚をなんと言えばよいかは分からないです。

いわゆる言行不一致も、「する」と言ってたのに「しなかった」ときと、「しない」と言ってたのに「した」ときでは、相手に与える印象がまったく違うとすら感じます。前者は「期待」が失われる、後者は「安心」が失われる。この意味の違いは結構大きいと思っています。

誰かの「しない」がいまの社会では感じ取りにくくなっていることに間違いはないけど、そこに人の美学が現れている気がしています。だから、これからはできる限り誰かの「しない」を探していきたいと思うのです。そんなことを感じました

「するのかい!?」「しないのかい!?」「どっちなんだい!?!?」

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