見出し画像

論文紹介 中国の圧力に立ち向かうフィリピンの国家戦略はどのようなものか?

南シナ海において中国が領域支配の現状変更を試みていることに危機感を覚えている国の一つにフィリピンがあります。フィリピンは2010年代以降、中国の脅威を認識し、対内的安全保障から対外的安全保障へと国防の重点を移行させてきました。現在、フィリピンは軍事力に基づくバランシングによって中国の圧力に対抗しようと試みていますが、今回はそのことを取り上げた論文を紹介したいと思います。

De Castro, R. C. (2024). Exploring the Philippines’ Evolving Grand Strategy in the Face of China's Maritime Expansion: From the Aquino Administration to the Marcos Administration. Journal of Current Southeast Asian Affairs, 43(1), https://doi.org/10.1177/18681034241234670

以前から中国は南シナ海において海軍、海警、海上民兵の勢力を背景に自国の管轄権を主張し、周辺諸国に対してその主張を受け入れるように圧力をかけてきました。洋上に人工島を建設することも中国が海洋権益を既成事実化する手法の一つでしたが、近年ではより手法が大胆になってきています。著者は、南シナ海で中国が周辺諸国に自らの管轄権を認めさせるため、強制行動をとるようになってきたと指摘し、フィリピンも2010年代に対中戦略を見直す必要に迫られるようになったと述べています。このフィリピンの行動を著者はハード・バランシング(hard balancing)として分析しています。

ハード・バランシングは、認識された脅威に対して、軍備の増強と同盟の強化によって対応し、自国の権益を守るための国力を増強することを目的とした国家戦略です。ハード・バランシングという国家戦略は、自国の軍備を増強する対内的バランシングと、同盟を強化する対外的バランシングという二つの要素に分けて理解することができますが、前者は多額の費用を要するため、財政に負担がかかります。そのため、経済力に限りがある中小国がハード・バランシングを実施する際には、脅威に見合った能力を持つ同盟国の存在が重要となります。

2010年から2016年にかけてフィリピン大統領を務めたベニグノ・アキノ三世は、中国に対してハード・バランスを採用し、フィリピンの立場を強化しようとした政治家でした。アキノ政権の下でフィリピンは軍備の近代化に着手し、国境警備の能力を向上させるようになりました。同時に、アキノ政権はアメリカとの同盟関係を強化する外交に取り組み、バラク・オバマ大統領から援助を得ることにも成功しました。

著者は、フィリピンにアメリカ軍の部隊を長期にわたってローテーション配備させ、そのために基地の使用も認めています。ちなみに、フィリピンは国際仲裁裁判所に仲裁裁判を申し立て、2016年に中国が主張する歴史上の権利について法的根拠がないという司法判断を得ていますが、これもアキノ政権がフィリピンに残した外交的成果の一つといえます(2016年南シナ海判決)。

2016年にロドリゴ・ドゥテルテが大統領に就任すると、彼は既存の国家戦略に大きな修正を加えています。この時期のフィリピンの国家戦略は宥和政策に転換したと著者は見ています。特に中国との関係についてドゥテルテ政権は楽観的であるという見方を繰り返し述べるようになり、アメリカとの関係については公然と軽視しました。ドゥテルテ政権は、2016年に仲裁裁判所の司法判断が示されたとき、この判断を棚上げにして中国との二国間関係を改善したいという意向を表明しています。ドゥテルテ政権としては、当時フィリピンで進行中だった経済開発プロジェクト、特に鉄道建設プロジェクトで中国から融資を期待していたと考えられています。

しかし、ドゥテルテ政権でフィリピンが中国に対して宥和政策に転換したにもかかわらず、中国は南シナ海で自国の軍事的プレゼンスを強化し続け、フィリピン海軍やフィリピン沿岸警備隊の活動を洋上で妨害していました。しかも、中国が経済開発プロジェクトに約束していた融資を行わなかったため、ドゥテルテ政権は中国に対する態度を厳しくしました。このため、フィリピンの国家戦略も宥和路線から限定的ハード・バランシングへ修正されました。この限定的ハード・バランシングというのは著者独自の用語ですが、これは経済問題と安全保障問題を切り離すことで、中国の海洋進出に対抗する行動の余地を確保しつつ、経済関係に悪影響が及ぶことを避けようとしていたことを意味します。ドゥテルテ政権でも、フィリピンの軍事力の増強は続けられ、外交関係においてもオーストラリアや日本との安全保障関係を促進しました。

2022年に新政権を発足させたボンボン・マルコス大統領は当初、国家戦略として中国との経済関係には一定の配慮を払うバランス路線を模索していましたが、南シナ海における中国の活動がますます強硬になるにつれて、アメリカとの同盟関係を強化することを目指すようになりました。2023年にアメリカとフィリピンは外交活動と防衛協力のレベルを引き上げる合意を成立させており、首脳級の戦略対話の再開、合同の軍事演習の実施、アメリカのフィリピン防衛のコミットメントの確認、装備品の移転を含めた両国の連携の強化が推進されることが決まっています。またマルコス政権がオーストラリア、日本、韓国との安全保障協力を強化したことも、フィリピンが中国に対するハード・バランシングを推進する一助になっています。

著者は、こうしたフィリピンの国家戦略を分析した上で、東南アジア諸国の中でこれだけ中国の脅威を認識し、費用負担を覚悟の上でバランシングを試みているのはフィリピンに特有の現象であることを強調しています。他の東南アジア諸国は、中国との武力紛争を回避するため、アメリカと中国の両方に対して均等に関係を保つヘッジングのような国家戦略を追求する傾向があります。フィリピン政府が状況の進展に応じて対中認識を更新し、次第にバランシングへ移行してきたことは、対外政策の選択において客観的な軍事バランスというよりも、当事者の状況認識が重要であることをよく示していると思います。

フィリピンの国家戦略の変遷について、中国がどのように認識しているのかについては、さらに調査を進める必要があると思います。これは中国にとって望ましい展開ではありません。フィリピンはアメリカとの関係を強化することで、その国防体制を強固なものにすることができるようになりました。それだけでなく、アメリカはフィリピンにおける基地へのアクセスを確保することによって、南シナ海や台湾海峡の方面に対する軍事的プレゼンスを増大させ、中国の行動を抑止しやすくなったためです。

関連記事

調査研究をサポートして頂ける場合は、ご希望の研究領域をご指定ください。その分野の図書費として使わせて頂きます。