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❓❕【哲探進歩/てったんしんぽ】❕❓…4歩目(年末年始の風物詩)

🐾4歩目(年末年始の風物詩)🐾
(「散歩」で気づきを得て、「探究+哲学」で考察を重ね、「進路」で学問・仕事と結びつける)

「散歩…気づきの土台・地面」
2021年が終わりを迎え、2022年がやってきた。年の切り替わりを象徴するものの一つが「除夜の鐘」である。最近は、盆踊りなどが近所迷惑だというクレームに対応して、大きな音が出せないこともあって、大晦日といえばゴーンゴーンと響く除夜の鐘が風物詩になるものだが、除夜の鐘さえも場所によっては自粛傾向のようである。そんな除夜の鐘であるが、108回撞かれるのが一般的な理解である。

「探究<課題の設定>…気づきの芽」
それにしてもどうして「108」という中途半端な回数なのだろうか(❓)。

「探究<情報の収集>…(都合により非公開)」
108回について諸説あるが、おそらく最も知られているのは「人間の煩悩が108個あり、鐘を撞くごとにそれらを打ち消していくため108回である」というものではないだろうか。そして、なぜ煩悩が108個あるのかという点についても諸説がある。
(説①)人間に迷いを生じさせるものとして、眼・耳・鼻・舌・身・意の6つが煩悩を生み出す根源とされていてまとめて「六根」と呼ばれている。そして迷いが関わる人間の感情は、快と不快そしてその中間のどちらでもないという3つの状態があり「三不同」と呼ばれている。また感情にまつわる問題を浄(きれい)だとか染(汚い)とか区別をしてしまうという2種類の程度があって、そのような問題は過去・現在・未来という3つの時間区分(「三世」)において生じるという説がある。
(説②)この説が少し変化したものとしては、「六」根を介して様々な感情が生じ、その状態としての「三」不同をどのように受け止めるかということで「三受」があるとする説である。
(説③)他の説としては、暦にまつわる数字から108が導き出されるとするものもある。
(説④)もう一つの説を上げると、「四苦八苦」という仏教における苦の種類から108が導き出されるとするものがある。

諸説の是非はさておき、このように108個あると言われる煩悩の中で、特に根源的なものとして「貪(とん)・貪欲(どんよく)」「瞋(じん)・瞋恚(しんに)」「癡(ち)・愚癡(ぐち)」の3つがあり、これらはまとめて「三毒(三不善根)」と呼ばれている。これらは全て善であろうとすることを阻害するものであり、これらに囚われたり固執したりすると、よけいに苦しみや迷いが生じてしまうと仏教全般で考えられている。また、この108個ある煩悩に関わる漢字として「苦平悪意舌耳女子身鼻眼浄染」が組み合わされて108画の一文字になった漢字もあるようだ。(この漢字の読みは「ぼんのう」であるが、これを覚えるのは大変そうだ)

煩悩の漢字

また、108という数字が関係しているものとして「数珠」がある。数珠は仏を念ずる際に用いられるため「念珠」とも呼ばれ、仏教の宗派によっては、その回数をカウントするための役割を担う法具でもある。数珠は珠が一つの輪として結びつけられており、その形状は仏教の起源であるバラモン教から引き継がれている円環的な時間の観念が関係しているとみなすこともできる。そして、この円環の形状から「数珠つなぎ」という言葉が生まれ、それは「糸でつないだ数珠玉のように、多くの人や物をひとつなぎにすること」を意味する。

「哲学…(都合により非公開)」
「信をおこして、阿弥陀仏の救いを喜ぶ人は、自ら煩悩を断ち切らないまま、浄土で悟りを得ることができる」
これは浄土真宗の開祖である親鸞の著書『教行信証』に収められている「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」の一節である「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」を現代語訳したものである。初期の仏教である原始仏教では煩悩を完全に滅することが目指されていたが、その後、人間を含めた全ての生き物である一切衆生は様々な欲求と関わり合って存在するものであり、その欲求と結びついた煩悩を全て除き去ることはできないと考えられるようになっていく。また、そもそも悟りを得ようとするのは、人間がもともと持っている欲求・煩悩に起因しており、欲求・煩悩があるがゆえに、悟りを得ようとする心としての「菩提心」も生まれてくると考えられるようになった。この考え方が「煩悩即菩提」である。親鸞が「正信念仏偈」で示した「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」は、煩悩即菩提に基づいていると考えることができる。これは煩悩を悪として、全く煩悩と関わらない状態の人間を思い描くような理想主義ではなく、煩悩と関わることは仕方のないこととして、どのようにその煩悩を制御・抑制していくか、そのためにどのような心構えが大切かなどを常に考えるような現実主義によるものである。

「探究<整理・分析>…(都合により非公開)」
さてここまで確認してきた「なぜ108回なのか」の説について、数字そのものに注目して考えてみたい。
説①の場合、「六根」「三不同」「浄と染」「三世」を掛け合わせた6×3×2×3が108となる。
次に説②の場合、「六根」のほかに、三受は、楽・捨・苦の3つであり、楽しんで受け止めるか、苦しんで受け止めるか、それともどちらでもなく捨ててしまうかという意味である。そして、先ほどと同じく「三」世がある。ただしこの説の場合、数字は単に掛け合わせるものではなく、感情の状態である「三」不同をどのように受け止めるかという「三」受の部分はセットとされ、足し合わされる。その結果、6×(3+3)×3となって、合計は同じく108になる。
説③の場合、「十二」カ月に、「二十四」節気という夏至や冬至、寒露、立春といった季節の区分と、その節気をそれぞれさらに初候・次候・末候の3つに細分化した「七十二」候を足し合わせる。その結果、12+24+72の合計で108となる。
説④の場合、人間の根本的な苦である生・老・病・死の「四苦」から4×9=36という数を導き出し、一方で発展的な苦である愛別離苦・求不得苦・怨憎会苦・五蘊盛苦と四苦を含めた「八苦」から8×9=72という数を導き出して、それらを合計し108とする。(苦を音から9と捉えているので、これは数字遊びという感じもする)
この「108」の諸説をマトリクス図(座標図)で整理・分析すると、以下のスライドのようになる。

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「探究<まとめ・表現>…気づきの花」
このように様々な煩悩が108個あることについての説を見てきたが、説①と説②は人間の内面にある煩悩の種別に注目し、それを積み上げていったとき、最終的に108となったと考えることができる。しかし、説③と説④は108という数字に向けて説明が組み立てられているところがあり、いわば結論ありきの説と考えることができる。当初は結果としての108だったかもしれないが、そのうちに108を予定調和とした新たな説が追随したということではないだろうか【次なる課題の設定】。何より、こうして時代が変わっても関心を持たれ続ける煩悩は、いかに科学技術が発達したとしても、人間という生き物が逃れることができない永遠のテーマであることを示しているのである。それは親鸞が説いた現実主義そのものであり、煩悩は排除すべき異物ではなく、人間として逃れられず、一生ついて回る自分の一部分ということなのである。

「進路…気づきの果実」
今回の考察によって、煩悩は人間の本性に根差したものとして、その理解や克服は古来より人間の大きな関心事であり、様々な角度から注目されてきたことが明らかになった。ここから、学問の一例として「宗教学・歴史学・心理学」など、仕事の一例として「学芸員・僧侶・カウンセラー」などが連想される。

さて、2022年が始まった。今年も自分を取り巻く事象から気づきを得て、引き続き「哲探進歩」の考察をしていきたい。今年もよろしくお願いいたします。

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