【小説】 ミラクルミラー 【酒井商店シリーズ】
親の愛情をたっぷりと受けながら育つ夏美は、高校二年の夏を迎えようとしていた。友人達の多くは海へ行く話で盛り上がっていたり、彼氏と祭りへ行く約束をしていたり、青春を謳歌する姿が教室のあちこちで見られていた。
こんな話になると、日頃明るい夏美はだんまりを決め込んでしまう。
中学に入ってから体重が増加し、やたら物を食べるようになった。
両親も娘に手を掛けるのを惜しまず、好きなものは何でも作って食べさせた。その結果、誰から見ても大きな体躯の持ち主となったのだ。
「夏休みになったら、絶対にダイエットしてやる!」
そう心に決めた夏美は、夏休みに入ると同時に自らに食事制限を課してウォーキングを始めた。
夏休み三日目。商店街のアーケードを抜けて家に帰ろうとしていると、見慣れないリサイクルショップが開いているのが夏美の目に止まった。
「酒井商店」と引き戸のガラスに店名が書かれてはいるが、店はまだ出来て間もないようだった。ありとあらゆるガラクタが山のように積まれていて、どこが入口なのかも分からなかった。
外の棚に置かれている商品は割と新しめの電子レンジや埃をかぶった中古のゲーム機、色褪せたアイドルのポスター、「麒麟の皮」と書かれた怪しげな紙のような物まで雑多に取り揃えられていた。
興味本位で他にどんな物があるのか店の中を覗いていると、引き戸が空いて店主らしき人物が姿を見せた。
ベースボースキャップを逆さにかぶった瘦せ型の男は丸い眼鏡を掛けており、口と顎にやたら細い髭を蓄えていた。そしてこれまた細い目を夏美に向けると、人の良さそうな笑みを浮かべた。
「いらっしゃーい。とは言っても、まだオープンしたばっかりで全然片付いてなくってゴメンねぇ。良かったら中、見て行ってよ」
「あ、お邪魔してもいいんですか?」
「お嬢ちゃんが喜ぶようなものがあればいいんだけどねぇ。どうぞどうぞ」
店の中へ入るとやはりガラクタのようなものがあちこちに積まれており、身体の大きな夏美は通路を歩くのに神経を使った。
気を付けないとお店の物を壊しちゃうかもしれない……。そう思いながら身体を動かすと、尻にぶつかった商品が倒れかけた。
「あっ!」
思わず声に出して咄嗟に手を出すと、商品は倒れることなく無事に夏美の手で押さえることが出来た。
倒れかけた商品はアールデコ調の装飾が鏡の周りに施された姿見だった。
思わず、夏美は息を呑んだ。
「か……かわいい」
レトロ調とも取れるその姿見に、夏美は一目惚れをしてしまった。
部屋にこんな素敵な姿見があったなら、私、鏡のためにダイエット頑張れちゃう! そんな風に心の中で叫んでみたものの、装飾の丁寧な仕事ぶりから見てどうやら安物ではなさそうだ。
そこへたまたま奥へ引っ込んでいた店主が戻って来た。
「お嬢ちゃんどうしたの? 鏡なんか抱き締めちゃって」
「あっ! すっ、すいません! これ、倒れかけてしまって……でも、すごく可愛いなぁって思って……いいなぁ、これ……」
「あー、その鏡ねぇ。そうそう、前から売れ残っちゃってたんだよねぇ」
「あのぅ、これって中世の……とかですか?」
「まさかぁ! 中世にそんな鏡ある訳ないでしょ。それね、八十年代にアメリカで流行った商品なんだよ。ミラクルミラーなんて言ってね、なんでも毎日その鏡を見てるだけでキレイになるって宣伝で、一時期ブームになったらしいんだよねぇ」
「へ……へぇ……でも、高そうですね、これ」
「いやぁ? それ買取じゃなくって、よその倉庫流れで受けた商品だからねぇ」
「倉庫流れだから、安いんですか?」
「おっ、意味分かった?」
「いや、分からなかった、です」
「あんたさぁ。分からないなら「分からない」って言いなよ」
その瞬間、夏美は店主の目の奥にとてつもなく深く冷たいものを感じ取った。夏だというのを忘れそうになるほど全身に寒気が走り、思わず身震いしそうになったほどだ。人間の目ではないような、そんな気がした。
しかし、店主は再び愛想よく微笑むと鏡を指さした。
「それ、持って行くなら千円でいいよ」
「千円!? えっ、千円ですか!?」
「うん。置いてあってもうちにとっては邪魔なだけだし。ただし、配送まで手は回らないから自分で持って帰ってもらうのが条件だけど」
「買います! これ、買います!」
夏美は二つ返事で鏡の購入を申し出ると、店主は「毎度あり」と言って頭を軽く下げた。
鏡を持ち上げるとそれなりに重量感があり、店を出る頃になると夏美はやや不安になった。
それでも店主の「がんばれ~」という間延びした声に励まされ、一人で鏡を抱えながらそれも「ダイエットのため」と言い聞かせて持って帰ることにした。
汗だくになりながら鏡を部屋へ持って帰った途端、夏美は幸福な気持ちで胸が満たされて行った。
「わぁ! やっぱりすっごくカワイイ! ねぇ、私もっともっとかわいくなるから、ちゃんと見守っててね?」
「うん!」
「きゃああああああああああああ!」
家中に轟いた悲鳴に、夏美の母がすぐに部屋にやって来た。
「なっちゃん! どうしたの!?」
「かっ、鏡が喋った!」
「ええ!?」
母はおそるおそる鏡に近寄ると、控え目に話し掛けてみる。
「か、鏡さ~ん……? 元気ですかぁ……?」
しかし、何の反応もない。今度は夏美が母に代わって話し掛けた。
「鏡さん? わ、私は夏美です……はじめまして……」
「はじめまして! ボク、ミラクルミラーだよ!」
「ひゃあ! ほら、やっぱり喋ったぁ!」
驚く夏美とは対照的に、母は不思議そうな顔で娘を眺めていた。
「何も聞こえないわよ?」
「喋ったって! 挨拶してくれたよ? ボク、ミラクルミラーだよって!」
「ふふ、本当になっちゃんったらおかしな子!」
「本当だって~!」
「それよりもお夕飯、何がいい? かつ丼? それともからあげにする?」
「からあげがいい!」
「わかったわ。なっちゃんがいっぱい食べてくれるからお母さん、腕ふるっちゃおっと!」
「楽しみ~!」
満足げに母が出て行くと、今度はマジックミラーの方から声を掛けて来た。
「ねぇねぇなっちゃん、からあげって何かなぁ?」
「わぁ……本当にお喋り出来るんだ! 嬉しいなぁ、うふふ。からあげってね、とってもジューシーな鳥のからあげのことだよ! すっごーくおいしいの!」
「へぇ、ボクも人間だったら食べてみたいや。でもね、なっちゃん。本当にからあげ、食べてもいいのかなぁ?」
「えっ……それは……えっと」
「ボク、なっちゃんの身体のことを思って言っているんだ……無理して痩せるのは良くないけど、無理に食べるのも身体に良くないよ?」
「だって、無理してないもん。からあげはおいしいから……だから……」
「うん、わかった。それなら好きなだけ食べたらいいよ」
「いいの、かな……?」
「うん! その代わり、なっちゃんが食べてもこれ以上身体を壊さないようにボクがコントロールしてあげるね!」
「……食べ過ぎたら、教えてね……?」
「ボクは姿見だよ? 任せてよ!」
「ありがとう、みっくん!」
「みっくん? それって、ボクの名前?」
「ミラクルミラーだから、みっくん!」
「そっか、えへへ! なんだか嬉しいや!」
「よーし、食べながらのダイエット、がんばるぞー!」
「うん、その意気だ! えいっ! えいっ! おー!」
その晩、夏美は皿に山盛りになったからあげをペロリと平らげた。小学六年生になる弟の分にまで箸を伸ばすと、慌てた母が新しくからあげを揚げ始め、父は自分の皿を夏美に差し出すほどの食べっぷりだった。
夏休み中のウォーキングは絶えることなく続いた。最初のうちは中々減らない体重だったが、一週間続けていると目に見えて減って来ていることを実感し始めた。
「みっくん凄い凄い凄い! ねぇ、私食べてるのにちゃんと痩せてるよ? 一昨日から五キロも痩せたの!」
「へへっ、ボクは毎日なっちゃんを映しているからね。でも、それはボクのおかげじゃなくって、なっちゃんの頑張りのおかげなんだ。自然と痩せられているのはなっちゃんの努力のおかげなんだよ」
「私の……努力?」
「そうだよ! 毎日たくさん努力している成果が出ているだけなんだ!」
「そっか、私の努力かぁ。嬉しいなぁ。そしたら、明日はもっとウォーキング頑張らないと!」
「そうそう! いっぱい動いて、いっぱい食べるんだ!」
「私、頑張るぞー!」
「えいっ! えいっ! おー!」
その翌日から夏美はウォーキングの距離を三キロも伸ばした。
道中汗が噴き出て止まらなかったが、途中で水分を補給するついでに飲食店に入ると夏美は水分よりも湧き上がる食欲が止められず、お猪口程度に水を含むと次々に食を求めた。
身体を動かしているせいか、とにかく腹が空いて空いて仕方がなかったのだ。
汗にまみれて家に帰れば昼食、二度の間食、そして夕飯を終えると食後にも弁当を食べたりと、一日中何かを食べていなければ腹が空いてたまらなかった。
それでも体重は落ち続けているので、家族は夏美の身体を不思議がっていた。
父はビールを飲みながら自分の三段腹をさすり、不満げに呟いた。
「夏美は成長期だからエネルギーを消費するんだなぁ。なぁ母さん、俺も歩けば痩せるかなぁ?」
「あなたはだらしないだけ! なっちゃんは成長期だからあれだけ食べてもまだ足りないくらいってことよ、ね?」
「夏美が羨ましいよ。そういえば夏美、おまえ少しほっそりしてきたな?」
その声に、夏美は思わず声がはしゃいでしまう。
「本当!? やったぁ!」
「父さん、なっちゃんは毎朝八キロも歩いてるのよ?」
「それは努力の賜物だなぁ! えらいぞ、夏美!」
楽し気な会話と共に食卓には新たに揚げた山盛りのからあげが並べられて行く。それにすぐに箸をつけた夏美の姿を母と父は嬉しそうに眺めていたが、唯一弟の宏太だけは「ねぇちゃん、食い方が豚みたいだ」と心の中で卑下していた。
夏休みも八月を迎え、お盆の時期になると夏美の身体は劇的な変貌を遂げていた。かつて眼下の視界を遮っていた腹の脂肪は見る影もなく消え去り、丸かった頬は顎の形がはっきりと分かるほどに細くなり、まるでモデルのような長い首まで表に出るようになっていた。
それまで興味を抱けなかったスカートも堂々と履けるようになり、メイクにも一層気合が入った。
その姿を見て両親は手を叩いて褒めたたえ、ウォーキングのために街を歩けば日に二、三度は男に声を掛けられるようになっていた。そんな男達をあしらう度、夏美は自尊心を高めていった。
盆を過ぎた頃にはウォーキングの距離が十五キロになり、一日の摂取カロリーは二万を軽く超える日が続くようになった。ところが不思議なことに、夏美の便の回数は増えることがなかった。
食事の時間になると夏美は箸も使わず猛烈な勢いで食卓に並ぶものを食い散らかすようになり、父がせめて箸を使うように促してみても聞く耳を持たなかった。
衣をテーブルのあちこちに飛び散らかせながら、からあげを次々と口に放り込む夏美は犬のように唸りながら、父に訊ねる。
「ねぇ、私昨日より痩せた? 痩せたよね? 昨日よりキレイよね?」
父は娘から目を逸らし、テレビ画面に顔を向けながら呟いた。
「うん……キレイだろ、十分」
「じゅうぶん!? 何よそれ! 私はまだまだまだまだキレイになるんだから! ねぇ、お母さん早くからあげ持って来てよ! まだあるんでしょ!? なんでそんなトロいの? もう……本当勘弁してよ!」
毎日が楽しかった家族の食卓は、ただ気詰まりな空気が流れるだけの時間となっていた。
それもこれも、夏美の異常な食欲のせいであった。夏美は身体こそは痩せたものの、物を食べる際は我を失っているのではないかと思うような形相で食事をするようになっていたのだ。髪を振り乱しながら手掴みで食事をするさまは、食事ではなく「餌の時間」と呼んだ方が相応しいと、姉を見る弟の宏太はそう蔑んでいた。
食事を終えた夏美は部屋に戻ると、ミラクルミラーとの会話を楽しむのが日課となっていた。
「ねぇみっくん、私キレイ?」
「うん! なっちゃんはとてもキレイになったね! でも、残念ながらお尻のラインがまだ完全ではないんだ……」
「やっぱりそう思う!? 私のこと分かってくれるの、本当みっくんだけだよぉ」
「ボクはなっちゃんのパートナーなんだ! 任せておくれよ!」
「うん、みっくんの言うことは絶対!」
「よし、じゃあ明日からはお尻のラインを作る為にもっと歩いてみよう!」
「私、頑張るからしっかり見ていてね!」
「もちろんだよ! なっちゃんはまだまだ努力が出来る子だからね!」
「がんばるぞー!」
「えいっ! えいっ! おーっ!」
その翌日。ウォーキングに出ようとした夏美はリビングに突然現れた男達に身体を羽交い絞めにされ、外へ連れ出された。
強盗かと思い叫び声を上げたが、連れ込まれた車の中で待ち受けていたのは目に涙を浮かべる両親の姿だった。
「夏美、おまえは病気なんだ。友人に良い先生がいてな、そこで診てもらおう? な?」
「なっちゃん、いっぱい食べさせちゃったばかりに……ごめんね……本当、ダメなお母さんでごめんね……」
「車、出してください」
夏美は抗ったものの、身体を拘束されてしまった為に身動きひとつ取れなかった。そのまま連れて行かれた病院に入院することになり、夏美は医師の監視の元で療養することとなった。
身体を拘束されながら、ベッドの上で夏美はミラクルミラーのことを想い続けていた。
「助けてみっくん、みんなにひどいことをされているの。私、身体におかしなことなんか一つも起きていないのに、悪者扱いされて入院させられたの。みっくんとお話ししたいよ。からあげが食べたいよ。牛丼も、かつ丼も、いつもみたいにバケツいっぱい食べたいよ。病院にいるなんて、もう耐えられないよ」
心の中でそう呟き続けていると、病室の洗面台に据え付けられている鏡の方から、微かな声が聞こえて来た。
「なっちゃん……なっちゃん……ボクだよ」
「えっ……みっくん?」
「しーっ。おっきな声を出すと、職員さんが来ちゃうからね」
「う、うん……」
「なっちゃんは、いっぱい努力したから今があるんだ」
「そうなの。でも、周りの人達がみんなおかしなことを言うの」
「いいんだ。僕はなっちゃんが努力をしてくれたのを、たくさん見て来たんだから」
「私、いっぱいウォーキング頑張ったの。だから痩せたのに……」
「そうじゃないよ、なっちゃん。他にも努力したこと、あるでしょ?」
「えっ。キレイになろうって、思い続けたこと……?」
「残念だけど、思ってるだけじゃキレイになれないし、痩せないんだ。ほら、思い出してよ。なっちゃんが努力してくれたことさ」
「努力して、くれた?」
「うん! なっちゃんはいっぱい努力して毎日毎日食べてくれたよね! おかげでボクは三十年ぶりに元気になれたよ、ありがとう!」
「みっくん、どういうこと……?」
「なっちゃん、もう何も気にしなくって大丈夫さ。最後の分もしっかりもらったからね!」
「最後の分?……ちょっと分かんないけど、えっ、私みっくんとお別れするの嫌だよ! ずっと一緒がいいよ!」
「なっちゃん、今は動けないから鏡は見れないだろうけど、今の君はもう誰が見てもとってもキレイで完璧さ。見せてあげられないのが本当に残念だよ……だから、もう大丈夫なんだ。本当に最後までありがとう、なっちゃん」
「え、待って! 待って! みっくん、行かないで!」
「心配しなくたって大丈夫さ。最期までありがとう、なっちゃん。バイバイ」
「みっくん!」
「…………」
「みっくん! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! みっくん……みっく……み……い……」
「……………………」
「いぃ………………」
「……………………」
「……………………」
「バイバイ、なっちゃん。安らかに、おやすみなさい」
翌朝、夏美の両親へ娘さんが亡くなりましたと連絡が入った。
取り乱した母は電話を受けて卒倒し、電話に代わった父が怒りを押し殺しながら死因を尋ねると、死因は「餓死」だと友人の医師は伝えた。
途方に暮れた両親はしばらくの間、娘を失くしたショックから声さえも失った。
それから長い年月が過ぎた。
心の整理がようやく着く頃には宏太が社会人となり、家を出て独り立ちしていた。
長い間手をつけていなかった夏美の部屋を片付けようと母が足を踏み入れると、部屋のどこからか声が聞こえて来た。
「やぁ、こっちだよ!」
「なっちゃん……なっちゃんなの?」
「なっちゃんか、懐かしいなぁ……」
母は驚きながら、恐る恐る鏡に近付いてみる。どうやら声は鏡から聞こえて来た気がしたのだ。
「やぁ、やっぱりなっちゃんのお母さんだけあってキレイだね!」
「あなた……あなたは鏡、なの?」
「うん! ボクはミラクルミラーって言うんだ! ねぇ、お母さんの名前は何ていうの?」
「わ……私は、郁恵っていうの」
「じゃあいくちゃんだね! ねぇいくちゃん、今もキレイなんだけど、もっともっとキレイになったらしてみたいこと、あるんじゃいかな?」
「え……そ、それは……」
郁恵の脳裏に、運動不足のために近頃通い始めたスポーツクラブのインストラクターが浮かんだ。恋心のような物を抱いていたが、人妻であり、年も重ねた自分なんかに今さら……そう、諦めかけていた矢先であった。
「ボク、いくちゃんがキレイになるお手伝いがしたいな!」
「えっ、いいのかしら?」
「もちろんさ! だってボクは鏡だよ? いくちゃんはインストラクターさんを一目振り向かせたいんだよね!」
「どうして、それを!?」
「ボクの前に立てばなんだってお見通しさ、だってボクは鏡なんだから!」
「そうね……じゃあ私、頑張る! 頑張って青春、取り戻す! よし、頑張るぞー!」
「よーし、その意気だ! えいっ! えいっ! おー!」
了
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