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【小説】 野辺の人々 【ショートショート】

 何もこんな場所に建てなくても良いだろうという場所に、うちの会社は新しい工場を建てた。
 工場の建つ北関東に位置するO町は人口五千人に満たない。近隣の繁華街へ出るのにも車で三十分はかかるような場所で、町のほぼ半分は山林で占められており、林業と農業が昔から盛んな町として知られているようであった。
 新規での運営立ち合いの為にに一ヶ月もの間、私はこの町に住まわなければならなくなった。会社が借りたアパートの周りにはほぼ田畑しかなく、コンビニへ行くのにも徒歩で二十分も掛かるような場所なのだ。そのコンビニも、夜の十時を過ぎれば閉店してしまう。
 仕事が遅くなり、ぎりぎり間に合ったコンビニでビールを二本買って外へ出ると、私の顔ほどの大きさの蛾が目の前を飛んで行く。腰を抜かしそうになり、小さな悲鳴をあげたものの、街灯すらろくに無い暗闇にただ響くばかりであった。
 そんな私にも、この町で唯一楽しみにしている時間がある。
 町の中心地にあるシャッターが下りた空き店舗だらけの「銀座通り」にある食堂で昼食を摂るのが私にとって、この場所での唯一の息抜きなのだ。
 味はなんてことのない至って平凡な食堂の味付けなのだが、そこで働く三十代ほどの女がやたらに美しいのだ。
 線が細く、切れ長の目を持つ彼女に愛想はほとんど感じられなかったが、若々しくはないその色気に妙に気をそそられる。
 結婚指輪をしていないので、恐らく独身と思われるが、話をするきっかけもないので既婚者なのかどちらかは分からなかった。
 妻と別れて三年になる。歳も五十を越えた今、私は淡い恋のような感情すら彼女に抱いていた。あまりに一方的であるし、不気味に思われるだろうということも分かっている。こんな冴えない親父に想われても何の感慨も浮かばないかもしれないが、たったひと月の間だけで良いから私は彼女を想い続けたいと感じていた。

 赴任して二週間が経とうとしていた頃、いつものように胸を高鳴らせて食堂へ入ると土方着の大柄な中年男が彼女にずけずけと声を掛けていた。

「もうそろそろ良いんじゃねぇんかい? 美雪だっていつまでも若くねぇんだで」

 彼女の名前はみゆきというのか。聞き耳を立てて知ったことで、悦びよりもわずかな罪悪感が生まれる。
 テーブルをふきん掛けしていた彼女は、手を止めると明らかな苛立ちを含み、言った。

「ゆう兄には関係ないから。あと、お店に来てそんな話されても迷惑なんで」
「たかが見合いだで、そんなつっけんどんになんなくても良いべな。まだあれか、直人がいいんか?」
「……」
「なら、見舞い行ってやれよ。気持ちは……分からなくもねぇけんど」
「ご注文は?」

 彼女は話を逸らすように尖った声でこちらを振り向いた。「アジフライ」と返すと、彼女は返事もせずに厨房へと消えて行った。
 食堂の引戸から差し込む昼間の光が、男の吸う煙草の煙を無味に照らしていた。所詮はよそ者の私はただ黙ってアジフライ定食を食い、黙って店を出る他なかった。

 彼女は幾つで、何処に住んでいるのかが気になり始めていた頃、町内会と町役場が合同主催の飲み会に呼ばれ、参加したことで多少の情報を得ることが出来た。彼女はあの食堂の一人娘で、未だに未婚らしかった。赤ら顔の観光課の禿頭が呂律の怪しい口で私に聞かせた。

「美雪ちゃんはねぇ、今はもういくつだっけなぁ……俺のひと回り下だからぁ……あれ、俺今いくつだっけ? あぁ、あれだ! 三十五になるんだわ」
「へぇ。若く見えますね、彼女」 
「なんだいん? 大久保さん、惚れちまったんかい!?」
「いやぁ、この歳じゃどうにもこうにも……」
「いいべなぁ! だったら結婚してよ、ここに住んでもらったらこっちゃ大歓迎なんだから!」

 都内の私がみゆきを呼んで暮らす、という想像が真っ先に出て来ないあたりで、やはり町の人間にはなれないな、と私は感じてしまう。多少なりとも町の人間達に馴染もうとはしたものの、妙に意識にズレが生じてしまう。そのズレは目に見えるほどのものではないが、決して気にせずに済まされるものではなかった。

「私はまた戻りますから。遠くから町の発展の背中を押しますよ」
「なんだべなぁ、そんな寂しいこと言わずに永住しちまえばいいで! ほら、住めば都って言うで!」
「今の所は、まぁ……」

 この町に住むつもりなど毛頭なかった私だが、みゆきのことを知ると彼女に強烈な興味を抱くようになってしまった。五十を越えた男が言葉も交わしたことのない相手を本気で想うなど馬鹿馬鹿しいとも思ったが、みゆきの儚げで悲しそうな瞳、しなやかな肢体を思い浮かべるだけで胸が高鳴った。
 そうなると、やはり話に出ていた「ナオト」とか言う男の存在が気になり出す。あれはきっと、みゆきの想い人なのだろうか。あの図体のデカイ男と話をしていた感じではどうやらネンゴロの関係ではありそうだ。
 私は酔いを装い、禿頭をせっついて聞き出すことにした。

「みゆきちゃんは、ナオトさんとどんな関係なんですかね?」
「なんだいん、知ってたんかい」
「いや、ほら、あのデカイ人から聞いたもんで」
「あー、優太から聞いたんかぁ。そうなんだいなぁ、付き合ってたんだわ、あの二人」

 胸がズシンと重たくなる。みゆきが私の知らない男と身体を重ねたりしている姿を想像し、腸が煮えくり返り始めるのを感じる。

「付き合ってたんだけど、直人の奴が東京に逃げちまってな。去年帰って来たと思ったら何だか筋肉の病気だかでよ、もう長くねぇんだって」
「女を捨てて出て行ったって訳ですか、そりゃあ酷いですね」
「まぁ事情があったんだろうがよ。あのよ、あんまり町の人間のこと、悪く言わねぇでくれるか?」

 禿頭がそう言うと、酒の席で盛り上がっていた若者数人がこちらを向いた。目が合わないように伏せながら、さきほど注がれた酒を一気に呑んだ。

「すいません、余所者で」
「……だろうよ」
「ナオトさんは、もう長くないってみゆきちゃんは知ってるんですか?」
「んなもん、町の人間ならみんな知ってる」
「知ってて、それでもどうにも出来ないこと……ありますよね」

 人生とは儚い。誰が何をどう抗おうとも、どうにもならないことの連続だ。私は彼らを労わるような気持ちでそう述べたものの、禿頭はいかにもつまらなそうに舌打ちを漏らした。

「あのよ」
「はい?」
「あんまり知った風な口きかねぇでくれるかな」
「……すいません」
「まぁ、人集めは協力すっから」

 それからというもの、町の人間は私に対して余所余所しい態度をとるようになった。役場へ顔を出しても役人達にはあまり浮かない表情で迎えられ、現場でも新人の若者達はあからさまに私とプライベートな会話を交わすことを避けているようであった。
 そうなるとこちらとしてもヤケになり、こんな垢抜けないクソ田舎の発展の為などという建前は崩壊し、従順に働く奴隷を仕立て上げる方へと頭もシフトしていった。
 しかし、みゆきのことだけは日々を追うごとに気持ちが昂って行き、プロジェクトが終わり次第なんとしてもこの田舎町に幽閉された姫を救うべく私はヒーローになろうとさえ考え始めていた。

 久しぶりに食堂へ寄ろうと立ち寄ってみると、その日は急用で休みだと貼り紙がしてあった。代わりに近くの蕎麦屋へ行ってみたが、そこもやはり急用で休みだと貼り紙がしてあった。
 仕方なく車を転がしてコンビニへ行こうと走っていると、川を越えた先の土手に目を向けてみた私はゆっくりとブレーキを踏んだ。
 百人近い黒服の男女が、土手をゆっくりと歩いていたのだ。
 距離が離れすぎている為に誰が誰だかまでは分からなかったものの、その先頭を歩く者が持っている写真が男性だというのはかろうじて理解出来た。

 こちらの方へ向かって歩く集団の男達が空に向かって何やら吠え始める。
 それが人の名前であることに気が付くまでやや時間が掛かってしまったものの、彼らは「ナオト」と叫んでいるようであった。
 そうなると、私は集団の中から無意識に彼女の姿を見つけようと車の外へ出て必死にその集団に向かって目を凝らしていた。喪服の、それも和装姿のみゆきであって欲しいことを祈りながら目を向けていると、数人の男達と目が合った気がした。
 その瞬間、私は猛烈に気恥ずかしくなったのと同時にうすら寒くなるような恐怖を感じた。
 急いで車に戻り、アクセルを踏んだ。
 集団があっという間に遠ざかり、小さくなって行く。その間に会社から連絡が入り、私は東京へ戻る事となった。
 どうやらこれ以上、ここにとって私の存在は無用だと判断されたらしかった。残り僅かな期間の為に別の人間をここへ赴任させると言われ、何か注意点や引継ぎはあるかと聞かれた。私は「すべて順調なので特にない」と言って、電話を切った。

 一ヵ月ほど過ごした後、いつまでも脳裏にこびりついていたのは顔ほどもある大きな蛾の羽搏く光景と、みゆきの儚げな表情だけであった。

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