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【小説】 「と」 【ショートショート】

 腐れ縁の友人Kから半年ぶりに電話をもらい、吉祥寺の居酒屋で彼と待ち合わせた。何でも並々ならぬ事情があるらしく、とにかく話を聞いて欲しいとだけ伝えられた私はあらかた金か女の話だろうと高を括っていた。
 何処にでもある大衆居酒屋で先に一杯やっていると、Kがやって来た。
 彼は辺りをキョロキョロと警戒しながら挨拶もなしに向かいに座ると、疲れ切った様子でカーキのコートを脱いで溜息をついた。

「金か? それとも女か?」

 どうせそのどちらかだろうと思い、先に口火を切ったものの、彼は俯いて首を横に振った。
 やって来た店員に「ビール、枝豆」と告げた彼は両手で顔を覆い、予想外の悩みを打ち明けた。

「どうしても聞いて欲しい話なんだけれど、その……俺は妙な病気に罹ったみたいなんだ」
「みたい? 医者に行ってないのか?」
「いや、行ったさ。行ったけれど、何も解決はしなかった」
「それはどういうことだ? 症状はどんな?」
「頭がおかしくなったと思われるだろうが、とにかくダメなんだ。口に出せない」
「ダメって……酒は飲めるようだし、何がダメなのかさっぱりだな」
「一瞬だけ口に出すからよく聞いてくれ。いいか?」
「あぁ」
「と」
「は?」
「これ以上は、すまない。どう説明していいか……とにかく、繋げるあれがダメなんだ」

 繋げるアレ、とは何だろうか。この世界には何かと何かを繋ぐ言葉も、道具も、様々なものがある。例えば、&、AND、鎖、接着剤、ネット……どれもこれも、生活において必要不可欠なものばかりが思い当たる。そのどれが、一体どういう理由でダメなのか、私にはさっぱり見当もつかなかった。

「K、おまえがいうダメというのは、物か? それとも、言葉なのか?」
「言葉の方さ。本当に参ってる」
「言葉……何々と、何々、という風に使う、あの「と」か?」
「あぁ、やめてくれ。蕁麻疹が出そうだ」
「そもそもだけど、なんでダメになったんだ?」
「女に感染された。とにかく暗い女でさ。三ヵ月で飽きてフッたんだが、最後にこの病気を感染されたんだ」
「冗談だろ? なんだよ、それ」
「俺だって質の悪い冗談だと思ったよ。別れ際に「これであなたはもう誰とも接続出来ない」なんて、いかにもそれっぽい怨み節を聞かされてさ。ただの頭のイカれた女だと思っていた。別れて正解だと思ったけれど、全部事実だったんだ」
「ある日急に、そうなったのか?」
「別れた次の日から徐々に。仕事もままならなくなって、結局今は無職になっちまった」

 私はKの話を聞きながら、ある人体実験のことを思い出していた。
 目隠しをした被験者に「今からあなたの血を抜き続けます」と伝え、たらいに水をポタポタと落とし続けるという実験だ。血を抜くと伝えるものの、実際は被験者には何の傷もつけられておらず、水が落ちる音だけを延々と聞かせ続ける。すると、その音が自分の血液だと信じ込んでいる被験者は何と絶命してしまったというものだ。
 嘘か真かは別にして、Kはどうやらこの状態に近いものがあるんじゃないだろうかと、私は考えた。ある種の思い込みを解く為には、仕掛けた本人に登場してもらうしか他に手立てはなさそうに思えた。

「K、その原因となった女は今、どこにいるんだ?」
「あの女か? 何故?」
「簡単な話だ。女に言って、解いてもらうのさ」
「それは無理だな」
「無理って、おまえ。そんなひどい別れ方をしたのか?」
「いや、彼女はもう死んでいるんだ。俺と別れてから一週間後に、ビルから飛び降りたよ」
「それは、そうか。なら、別の方法を考えるしかなさそうだ」

 Kはよほど女に執着されていたのだろう。昔から人たらしで、特に女の扱いに関しては天性とでも呼ぶべきものを持っている男だった。それ故に依存されてしまうことも多く、その結末が自死を持って迎えたとなればKも流石に懲りた様子で、新しい女を作っていないのは衰弱し切った彼の様子からわざわざ話さなくても伺えた。
 女垂らしもこの辺りで潮時だな、と軽口を叩こうとした矢先に若い女の店員がやって来て、Kの横に立った。

「お待たせしましたー! こちらビールと、枝豆です!」

 勢いよくジョッキが置かれたのと同時に、Kはテーブルに向かって盛大にゲロをぶち撒けた。黄土色の吐瀉物が私の注文した刺身の上に掛かり、ジョッキの中へ混ざって泡が溢れ出た。私はすぐに身を引いたものの、わずかに飛沫を受けてしまった。
 汚いなとは思ったものの、こんなことが日常茶飯事なら衰弱し切ってしまうのも無理はない。精気のないKの顔は明らかに痩せこけていて、そのうち栄養も摂れなくなりそうだ。私は無意識にKが後どれくらいこの世界で生き残れるかを計算し始めたが、おそらく、ひと月持てば良い所だろう。
 清掃道具を持った店員がテーブルの上を片付け始めると、Kはコートを羽織って私に頭を下げた。

「本当……申し訳ない……本当に、本当に、申し訳ない」
「いや、俺じゃなくて店員さんに謝ったらどうだ?」
「おまえに……本当、申し訳ないんだ……すまない」
「おい、ちゃんと」
「話を聞いてもらってすまなかった。じゃあ」

 Kは盛大に吐いて醜態を晒した為に居た堪れなくなったのか、逃げるようにして店を出て行った。私はKの代わりに店員に詫びを入れ、後でキツく叱っておきますと伝えておいた。
 結局何が何だか分からないままKは去って行ったので、一人残された私はいくつかの注文をして呑みながら考えてみることにした。
 女がKに与えたものは、呪術のようなものなのだろう。伝える人間と、伝えられる人間の双方の思い込みが一致した場合にのみ、それは真実を生み出し、災いをもたらす結果となる。
 呪いもどうせまじないの類なのだろうし、そんなものはこの世界にうんざりするほど溢れ腐っている。朝のニュース番組を見るだけでも、いまだに血液型がどうの、星座がどうのだの言っている。
 人は何年経っても変わりようがないのだろう。そんな風に結論づけて席を立ち、会計を済ませる。

「こちら八百二十円のお返しと、次回ご利用出来るサービス券です」

 その言葉を聞いた途端、私は猛烈な悪寒に襲われた。釣銭を受け取る指先が震え、うっかり落としてしまうほどの悪寒だった。
 店員に手伝ってもらいながら必死に小銭を拾って店を出ると、気分が悪くなった。今すぐにでも、この場に倒れてしまいそうだ。堪らず電柱に手をついて意識を保とうとすると、黒服の男に声を掛けられた。

「お兄さん、飲みとヌキ、どちらっすか?」

 電柱に掛けていた手が外れ、私の視界が急激に真っ赤に染まって行く。
 視界に見えていた薄汚いネオンの群れもやがて赤の中に溶けて行き、遠くの方から声が聞こえて来る。低く、何かをぶつぶつと呟き続ける、女の声だ。その声が徐々に迫って来るが、私の意識は途切れそうにもない。
 ただただ真っ赤な世界で、声が迫って来るのを聞いている。Kも、毎日こんな思いをしているのだろうか? だとしたなら、彼の日常は地獄の中にあるのだろうと理解が出来た。それを彼と分かち合うことは、無い気もしている。
 ぼんやりとそんな事を考えている間に、ぶつぶつと呟き続ける女の声が耳音に近付いて来る。その声はとても冷え切っていて、誰よりも孤独な声だと感じている。
 囁くような、呻くような、女の孤独な声は唐突に金切り声の絶叫に変わると、私はようやく意識を失くし始める。女と私だけの真っ赤な世界で、私は空を突き破るような女の金切り声が、まだ聞こえている。


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