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普通の凡人の暮らし方

今日はデイケアで元暮しの手帖編集長松浦弥太郎氏のPHP文庫を読んでいたのだった。最近は自分のちょっとした考え方や暮らしぶりをよく出来ないかな?と思って松浦弥太郎氏の文庫を買って読んでみたりしている。

松浦弥太郎氏はアメリカ帰りで自分よりも収入があるらしく、それに心理的にも体力的にもある程度無理が効くようだ。ちょっと心の病で療養中の自分とは違う。

本の中身に戻ると「なるほどー」と思えるようなちょっとした心がけが書かれていて、ライフハックや自己啓発的な自分を丸ごとリニューアルしましょうとは書かれていないので、無理が少ないといえば無理は少ないが、いかんせん松浦弥太郎氏の生き方と考え方なので、50半ばに達してしまった自分とは若干考えと暮らしぶりが合わない。まあいい、ちょっと生活をオシャレにしてみようとするのも新鮮でいいかもしれない。

閑話休題

自分がデイケアに歩いていく途中に、新築のものすごい豪邸が建ったのだった。比較的若い家族が住んでいるようで、入口が二箇所あるから二世帯住宅なのかもしれない。しかしあの大きさは普通の住宅四件分はあるな、しかも鉄筋コンクリートの注文住宅だし。なにげに自分が帰宅しようとその住宅の横を通ると、ポルシェや高級SUVが自動シャッターから出てきたりする。

僕は変わった性格なのか、羨ましいとは思わずに、「生きていくのにこんなにジャブジャブとお金とコストを掛ける必要があるのか?」と不思議に思ってしまう。貧困なのは大変だが、そもそも昔から生きることには莫大な財産は必要ないと思っていたりする。

僕は鴨長明の方丈記や禅の教えに、正岡子規の随筆と、案外さっぱりした生き方というか暮らし方に憧れているというか馴染んでいて、人生にそれほど大きな成果も暮らしも必要ないのではと思う。

話を戻すと、松浦弥太郎さんの暮らし方や考え方も色々と売られている暮らし方の本も色がつきすぎていて、僕の考える暮らしというもののイメージには合わない。

実際、僕はファッションデザインを学びに短大に入学したが、そこは生活文化学科に含まれていたということもあり、生活文化一般も学んだ。もちろん生活文化学概論的な講義もあって、その時の生活感はそれほど立派なものでも豊かなものでもなかったような気がする。

自分の暮らしぶりはやっぱり両親からの影響が大きく、祖父祖母の田舎の暮らしぶりと、父母の京都での学生生活、それにここ金沢市での飾らない日常生活も有って、あえて小洒落た生活にしようとは思わなくなってきている。

では生活ってなんだろう?と考えてみると、老舗の蕎麦屋で出てくる使い古されたガラスのコップのようなもので、たぶん東京だったらかっぱ橋道具街とかで普通の取引されている業務用のコップだ。どこの銘柄かも形とかも店主も客も気にしないあのコップだ。なにかあのコップのイメージが自分の中の生活感に近いものが有って、生き方とも合い通じるものがあるような気がする。プロダクトデザイナー柳宗理氏のカトラリーも自分にとってはまだ不自然だ。

となると、自然に馴染んだ自分の暮らしや考え方が一番良い(かどうかはわからないが馴染む)という結果に落ち着きそうだ。

高級な紳士服を買わなくても洋服の青山や紳士服のアオキで用は足りるし、靴もアピタやピアゴやイオンとかのショッピングセンターでそれなりのものを買えば足りる。生活用品一般もそんなもので十分だ。昔の家庭のものの選び方ってこんなような感じだったような気がする。自分は両親の物の選び方や暮らし方に影響を受けてきたし、仕事も忙しいのに生活まで気張ろうとすると疲れ果ててしまう。おしゃれな暮らしよりも若干丁寧な暮らしさえできれば、豪華に暮らさなくても満足できると思うのだ。

スイカはなぜ美味いのか?という話に移行しそうになるが、暮らしも人生も、例えるなら料理研究家土井善晴先生の「一汁一菜という提案」に書かれているハレとケのようなもので、ケの暮らしに力を入れすぎるのもなんかやりすぎであるような気もするな。

暮らしを中心に綴ってみたが、生き方考え方についてもある程度の年齢が来たらほぐれてきて、たまに本は参考にするが自分なりの生き方考え方が身についてきているはずである。たまに食器や家具を磨いてあげるように、自分の生き方や考え方を再確認しつつ、そのまま自分らしく生きていくのが一番だと思うし、それが無理のないやり方なのだと思う。

別に松浦弥太郎さんの悪口を言いたいわけでもないし、ああいう暮らしを良しとする人はそれで構わない。シンプルライフに憧れる人もそれが馴染むなら続けてもらえばいい。

ただ僕には人生や生活は何気なく何となく続いていくもののように感じられるんだがなー


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