「好き」と暮らす豊かさについて|兵庫うみまち坂越
旅って、じぶんのなかの「好き」との出会いでもある。わたしはどんなものが好きで、どんなものに心が動き、どんなひとと出会うのか。「好き」が導いてくれる旅は、いつもわたしのこころを強くする。
今回はそんな「好き」の強さに出会えた兵庫県赤穂市坂越の旅のおはなし。
北前船に魅せられて寄港地をめぐる旅
今回旅をしたのは、兵庫県赤穂市の坂越という海辺のまち。ここは「北前船」の寄港地・船主集落のひとつとして日本遺産に登録されている。
わたしは服飾関係の本業のかたわら、繊維や糸の歴史をたどって、北前船の寄港地をめぐる旅をしている。北前船とは江戸時代〜明治にかけて、大坂から瀬戸内海と日本海を経由して北海道までを結んでいた商船群のことで、これによりたくさんの物資が運ばれ、文化交流のきっかけにもなった。
いったいどういうわけだかこの「北前船」に心惹かれてしまったわたしは、だれに頼まれたわけでもないのに、寄港地をめぐる旅をしている。なんで好きになったのか理由はわからない。ひとはそれを「恋」と呼ぶ。
寄港地に認定された自治体は日本全国に50前後。願わくばぜんぶ制覇したいものだけど、いまようやく兵庫県姫路市、広島県尾道市、秋田県秋田市に行けたところ。先は長いぞ、ワクワク。
兵庫県赤穂市坂越
赤穂市坂越は、兵庫県の西の海側、播磨という地域にある。
赤穂市は塩と忠臣蔵の赤穂浪士で有名なところだ。坂越にはその「播州赤穂駅」からひとつとなりの駅で降りる。神戸・三ノ宮からはJRで1時間10分程度。ちょっとしたふらり日帰り旅だ。
さて、車の運転できないわたしが北前船寄港地をめぐるのはちょっぴり大変。だって港のある場所って、だいたいちょっと駅から遠いのだ。それでも徒歩25分までは歩くことに決めているのだけど、坂越湾はJ R坂越駅から徒歩30分。しかもこの日は最高気温が35度を超える猛暑日。歩けねえ。
でも大丈夫。事前に入手していた赤穂市の地図の坂越駅のところに「レンタサイクル」と書いてあるのをわたしは見逃さなかった。
でも坂越駅の駅前にはお店らしきものはない。いったいどこにレンタサイクルが?
あった! 駐輪場の一角にレンタサイクル自販機を発見!
1日300円で借りられるのは便利。デポジットは700円。つまり1000円札を入れて、自転車を返したあとでデポジットの700円が返ってくる仕組み。ふむふむ。
自転車で坂越のまちへ
それではいざ坂越のまちへ。
整備された道はとっても走りやすく、自転車でめぐるのにぴったりな坂越のまち。でもね、今日は猛暑日。暑いものは暑い。炎天下で自転車を走らせていると「わたしはいったい何をやっているんだ」という気になってくる。
北前船、ただ好きで調べるだけにしといたらよかった。大学院で研究だなんて、わたし、とんでもないことをやり始めてしまったんじゃないだろうか。そう、ただ調べるだけでは飽きたらず、わたしは通信制大学院で歴史の研究を始めてしまったのだ。今、これにめちゃくちゃ苦戦している。読まなくてはいけない本も、論文もたくさんあるのに、能力が追いつかなくてちっとも進まない。ありていに言えば、研究が順調だとは言えない状況だ。
あがいてあがいて、何か突破口がつかめないものかと、こうしてわらにもすがるような思いで寄港地を旅しているというのもある。でもそうしたらそうしたで、ゼミの先生にまたいろいろ言われてしまうんだろうなと、ネガティブな気持ちがぐるぐるする。
そんな気持ちのまま、千種川にたどり着く。
そうしたらなんかちょっとスカッとした。やっぱり川はいいな。(単純)
江戸時代、米や塩は、千種川を通って坂越港まで運ばれたらしい。この橋のたもとのあたりが高瀬舟の発着場所だったようだ。
川を超えて、昔ながらのまちなみの残る集落へ。静かで、いい感じ。通りには、夏休みの子どもたちと、シニアカートを引いたおばあちゃんがいた。ノスタルジック。
まちに入ると、木戸門跡広場にたどり着く。廻船業で栄えていた頃は、ここに町を守るための門番がいたのだという。
木戸門跡は、憩いの場所になっていた。ここでわたしも水分補給。こまめに水を飲まないと。
うみの町の素敵なお店たち
大道というまちのメインストリートには古民家を改装したカフェや骨董屋さんなどの素敵なお店がちらほら。
こんなふうに海のまちで暮らしながら、ちいさな商いをしていく暮らしに憧れる。
海のそばで暮らすって、どんな感じなんだろう。
古民家を改装したアトリエ。アトリエのとなりにちいさなカフェを開いて、好きで集めたアンティークのものなんかも置いたりして。本屋さんもいいなあと、とめどなく妄想が広がる。
なんか、いいまちだなあ。
奥藤酒造と郷土史料館
慶長6年創業の、兵庫県で二番目に古いという酒造「奥藤酒造」へ。
この奥藤酒造の奥に郷土資料館がある。
おじゃまします。ああ、造り酒屋独特の、なつかしい匂いがする。木と、お酒の匂い。杜氏だった母方のおじいちゃんの匂い。
史料館には酒造りの道具や酒を運んだ船の模型がたくさんあった。古文書の仕切り帖もあった。せっかく貴重な史料が公開されているのに、満足に読めないじぶんがもどかしい。
坂越港
まちも気になるけど、まず港へ行こうと自転車を走らせる。なんどもいうけど、めちゃくちゃ暑い。でもやっぱり海はいいなあ。海面をのぞくと、大きなエイがゆったりと泳いでいるのが見えた。
向かいに見えているひょうたん型の島を生島という。聖徳太子の側近の秦河勝の墓だといわれており、国の天然記念物である原生林が今もうっそうと茂っているそうだ。(そう言われれば前方後円墳的なフォルムではある)
生島は聖域なので、立ち入りはできない。毎年10月にはこの生島に舟で渡る神事「坂越の船祭り」が開催される。坂越の船祭りは無形民俗文化財に指定されている。
この生島のおかげで、古来より坂越は瀬戸内航路の中継地としてだけでなく、風除け港としても栄えていたのだ。
それにしても、暑い。とてもいいまちなのに、平日ということもあって、出歩いているひとがとても少ない。この暑さだから無理もない。こんな日に出歩くなんて、よっぽどのもの好きだと思う。
しかし、もの好きはもの好きを呼ぶのだ。
旧坂越浦会所にて「かわかつおじさん」と出会う
海辺の駐車場に自転車を止め、徒歩でまちを散策することにした。ふらふらと歩いていたら、「ここで休んでいき〜」と、建物のなかから呼んでくれるおばちゃんがいる。
「旧坂越浦会所」と言われているお屋敷だ。赤穂藩の支所でありながら茶屋的役割も果たしていたらしい。
気さくなおばちゃんが、
「暑いからちょっとここで休憩しておいで。縁側でもいいし、二階にも上がれるよ」と声をかけてくれる。わたしもありがたく、
「いい町ですねえ」
と言いながら中に入って休憩させてもらう。
ここはかつての赤穂藩の支所であり、現在は観光施設として解放しているようだった。暑い日の日本家屋は、風が通って涼しい。
お屋敷のいたるところに「赤穂段通」が敷かれている。赤穂段通は、赤穂名産の高級絨毯のこと。職人さんが一年以上かけて手作りされているそうだ。南蛮風の図柄が和室にも合っていて違和感がない。それに模様がくっきりと美しい。贅沢だなあとありがたく踏みしめさせていただいた。
お屋敷のいたるとこにいろいろな展示があって面白い。歴史好きならたまらない場所だ。
「二階にね、お殿様の休憩部屋もありますよ、そこで昼寝してきてもいいよ、フフフ」とおばちゃん。
どれどれ、と二階のお殿様の休憩部屋を見にいく。
二階の隅の、隠し扉の向こう、一段下がった場所に江戸間で四畳ほどのちいさな小部屋がある。
畳には意味ありげな枕がふたつ…。
えっと、これは。
つまり、そっちのご休憩? お殿様ったら!!
ちょっとおばちゃん、こんなところで昼寝できるか〜い!
一階に戻り、おばちゃんに坂越の町のことや、歴史の話を聞く。秦河勝や神事や北前船。いろんな歴史に彩られた海辺の町だということがわかる。ふむふむと興味ぶかく聞いていると、「いい町ですねえ」と入ってきたひとりのおじさんがいた。エントリーの仕方がわたしと同じ。名付けて「いい町ですねえ」エントリー。(そのまんま)彼もわたしと同じく、ぶらりひとり旅をしている旅人のようだ。
わたしと同じく、おばちゃんの解説に興味深そうに耳を傾け、「これフェイスブックにあげてもいいですか?」などと聞いていた。フェイスブックをメインで使ってるということは、50代〜60代だろうか。おばちゃんの話を聞きながら、「おお、秦河勝の!」などとリアクションをしているところをみると、おじさんもかなりの歴史好きのようだ。
「いい町ですねえエントリー」を駆使しているところからも、どことなくわたしと同じ匂いを感じる。便宜上、彼のことを「かわかつおじさん」と呼んでおこう。かわかつおじさんは壁に飾られた能面や民具をパシャパシャと撮影していた。わたしは船箪笥や古文書を。
いろいろ写真を撮っていると、なんと著名な学者・作家がこの場所を訪問されたときのお写真があった。偉大なる学者先生と肩を並べて写真にうつる若かりしころのおばちゃん。おばちゃん、一体なにもの!?
「おおお!!!」
と驚くわたしに、
「そうなのよー! すごいひとだって存じ上げなかったんだけどね、それこそ秦河勝の調査で来てたみたいよ。あとね、関ジャニも来たよ」
おばちゃんにかかれば、男性アイドルも、知のデパートと呼ばれた著名な学者も、等しく横並びなのだ。
大避神社へ
旧坂越浦会所のおばちゃんや「かわかつおじさん」と別れ、大避神社へ。大避神社は、蘇我入鹿から逃れた秦河勝が祭神とされている神社だ。
石碑や絵馬などを見て写真を撮り、神社で「どうかこの研究がうまいこといきますように」とお願いした。もうね、神頼みもしたくなるさ。
神社の坂道から見た鳥居の向こうの海が青かった。
かわかつおじさんの導きで新たな出会い
鳥居の入り口前に止めていた自転車に戻ると、かわかつおじさんにばったり再会した。ぶらりとひとまわりできるくらいの町だから、なんどか顔をあわせる。
すると、かわかつおじが「あそこのアートギャラリーもすごいおもしろかったから行ったらいいよ」とわたしに声をかけてくれた。どうやら好きなものが似てると、向こうからも認識されていたらしい。もの好きはもの好きを呼ぶ。
かわかつおじはアートギャラリーのおとうさんの話がおもしろかったらしく、そこで10分くらい話しこんだそうなのだ。
そんなに? と思って、素通りしていたアートギャラリーを尋ねてみた。
太平洋を漂流した「光塩丸」冒険ストーリー
かわかつおじに導かれ、古民家を利用したアートギャラリーへ。
入り口には採取した石や貝、器、作品などがところせましと並んでいる。なんというか、アートギャラリーというよりも、「好きなものを集めて並べました」感が強い。
なかではアートギャラリーのおとうさんがまさに何かの資料をもとに絵を描いている真っ最中だった。
「これは何を描いておられるんですか?」
とわたしが聞くと、「光塩丸」という地元の船の冒険譚を話してくれた。
「地元の塩廻船の光塩丸がね、太平洋を遭難した悲劇を描いとんですよ。坂越から江戸に塩を運ぶときに遭難して、グアムやフィリピンを経由して外国船に助けられて帰還した。でも乗組員は全員無事やったから、これはもう悲劇というよりは快挙やね」
おとうさんの話によると、安政5年(1860)、播州赤穂の塩廻船「光塩丸」は、江戸に塩を運ぶため坂越を出航、その後鹿島灘で嵐に合い遭難した。乗組員15名を乗せたまま太平洋をさまよった光塩丸は、数ヶ月後にフィリピンのカタロンガ島に漂着。この島で数ヶ月お世話になったあと、乗組員たちは英国船に便乗し、アモイを経て長崎に帰着することができた。ふるさと坂越に帰省したのはおよそ1年8ヶ月後のことだったそうだ。
この逸話がこうして残っているのは、船頭の徳三郎に絵心があり、島の生活や民俗、唐人やヨーロッパ各国人、異国風景などの詳細な記録と絵を残していたからだ。
徳三郎の絵のコピーを見せていただいたが、めちゃくちゃ絵がうまい。観察力と表現力がとんでもない。船頭の徳三郎さんはたぶんものすごく頭の良い方だったのだと思う。
「こうして記録に残すって大事ですね。観察して記録することでピンチに対応しようとしていたんでしょうか」
「そうやね。それもあるし、船頭はそうとう頭がよかったんやろうね。潮の流れをわかっとったのと、あと運もよかった。乗組員15人の飲み水をまかなえる雨にも恵まれた」
すごい。ほんとにすごい。頭の良さや経験値、運、体力、すべての条件に恵まれていたのだと思うが、わたしは「絵を描き記録する」ことの大切さみたいなものもすごく感じてしまう。
よく、危機的状況に陥ったひとが、記録をすることでどうにか正気を保ち、生き残ったという話を聞く。わたしは常日頃から「もしも無人島に漂着したらどうやって生き残ろう」と考えているのだけど、やっぱり記録は大切なのだと再認識した。何より、そうして記録してあったことで、後世のわたしたちがそれを知り、何かしらの教訓を得ることができるのだ。
はっ。
もしかして研究の原点ってそこなんじゃないか。つき動かされたように何かを書き記したいと思う気持ち。
海辺のアートギャラリーで「好き」の豊かさを学ぶ
何より素晴らしいのは、その冒険譚を調べ、こうしてまた絵に描いて表現されようとしていること。
おとうさんの絵のもとになっているのは、地元の方(高砂さん)の研究レポートなのだという。この話に興味を持った高砂さんは、神戸の老人大学(※おとうさんのお話しのまま。おそらくシニアの生涯教育大学、神戸シルバーカレッジのことだと推測)に通い、「光塩丸」の研究レポートを完成させた。そのレポートをもとにおとうさんが絵を描いているのだという。
いやすごすぎん? その探究心と、地元への愛。いくつになっても、「好き」につき動かされ、探求を続けるひとたちのすがすがしさ。
そうよ、研究って、そういうことなんだよ。「好き」につき動かされた、その感じ。
じぶんから好きではじめた研究なのに、他者からの評価気にして、なにうじうじ考えてんだ、わたしは。
意味もなく「好き」、原点はそこでしょうよ!
おとうさんはこの海辺の古民家のアートギャラリーで、毎日好きな絵を描いたり、コラージュの作品をつくって暮らしている。
かつておばあさんの住居だったというアートギャラリーの奥も案内してもらった。とっても素敵だった。
かまどにタイル貼りの流し。素敵すぎん?
海辺の古民家を改装したアートギャラリー兼アトリエで、興味のあることをとことん探求し、好きな絵を描いて暮らす。なんて豊かなんだ。
「好き」と暮らす豊かさ。
そんな言葉が降りてきた。
かわかつおじに声をかけられなければ、おとうさんに出会うことはなかった。好きは好きを呼ぶ。ありがとう、かわかつおじ。旅は出会いだ。
坂越
いい町だった。
だれにたのまれたわけでもないのに、日本各地の布をめぐる研究の旅をしています。 いただいたサポートは、旅先のごはんやおやつ代にしてエッセイに書きます!