旅とアート|藤田嗣治《秋田の行事》と竿燈まつりをいっぺんに
わたしはほんとうにラッキーでした。
秋田県を旅して秋田県立美術館に立ち寄ったのですが、そこで藤田嗣治の大壁画《秋田の行事》と、その作品で題材として描かれている「竿燈(かんとう)まつり」を、いっぺんに、ひとところで、思いがけなく観ることができたからです。
秋田県立美術館と藤田嗣治
秋田県立美術館には藤田嗣治の《秋田の行事》という大壁画の常設展示があります。高さ3.65メートル、幅は20.50メートルもの圧巻の大壁画に、春夏秋冬の秋田の行事が描かれています。壁画中央の「夏」の部分には、竿燈まつりのようすも描かれています。
最初にことわっておきますと、この記事に藤田嗣治の《秋田の行事》の作品画像は掲載しておりません。これは作品の著作権をフランスの財団が2038年(藤田嗣治の没後70年)まで所有しているということもありますが、あれはもう実物を見ないとその迫力は到底伝わらないと思ったからです。
でもそれでもなんとかあの作品の素晴らしさを伝えたい。秋田県に実物を観に行って欲しい。そんな気持ちで、観た感想と、作品の資料をもとにその魅力について語ってみようと思います。
その前に、ちょっとこの旅の前提の話をします。藤田嗣治の作品のことだけを知りたい方は、目次から「藤田嗣治とは」の項までスキップしてくださいね。
秋田の大雨被害のニュース
秋田への旅の目的は、秋田県南部の羽後町の西馬音内地域に伝わる盆踊りの衣装を見ることでした。服をつくる仕事をしているわたしは、日本各地の「繕い」や「布」や「衣装」をめぐる旅をしているのです。
「アキタファン」という秋田県の観光協会サイトを通じて、西馬音内盆踊り衣装の着付け体験をお電話で申し込みました。その時対応してくださった方がとてもいい方だったのです。そのおかげで、秋田県の印象が、やさしく、親しみやすいものになっていました。
そこへ飛び込んできたのが秋田の大雨のニュースです。ニュースを聞いた時、あの方、大丈夫かな。と思ってしまいました。旅をするということは、そこに住むひとたちと関わることで、そうなったらその土地のことはもうひとごとに思えなくなります。
わたしが乗る予定だったJR奥羽本線も、大雨の影響で一部不通になっていましたが、しばらくすると運転が再開されました。よかった。それを受けて着付け教室に到着予定時間のお電話をしたら、「全部通れるようになってよがったですねえ」と。ほっこり。
それにしてもものすごい復旧の速さですよね。大変な中、ほんとうに頭が下がります。
さて、アキタファンのトップページにはこのような文言が。
復旧にむけてがんばっています!
ちょっと心配していましたが、どうぞ、秋田へお越しください! とあるではないですか。
ハイ、お越します! 旅します! そして応援します!
秋田駅から秋田県立美術館へ
秋田空港からJR秋田駅へバスで到着すると、大きな秋田犬が出迎えてくれました。
そして竿燈まつりの「竿燈(かんとう)」も歓迎してくれていました。
竿燈(かんとう)まつりとは
そうなのです。わたしの行った日がたまたま、東北三大夏祭りに数えられる「竿燈まつり」の日だったのです。わたしは羽後町西馬音内の「藍と端縫いまつり」に合わせて旅程を組んだので、秋田市の竿燈まつりがこの日に行われることは知らなかったのです。
竿燈に灯がつくのは日が暮れてからですが、昼間は竿燈を操る差し手たちの競技会が開催されるそうです。
し・か・も! その競技会場が、たまたま、行こうと思っていた「秋田県立美術館」のすぐお隣の広場だったのです。電車の時間の関係で秋田市では秋田県立美術館しか行けないと思っていたのですが、そのわずかな時間で年に4日間しか開催していない竿燈まつりを観れるなんて。わたしったらなんて旅運が良いんでしょう。
秋田県立美術館
JR秋田駅の西口からアーケードを通ってまっすぐ10分ほど歩くと秋田県立美術館につきます。
建築は安藤忠雄です。エントランスの階段から忠雄ブシをビシビシ感じます。
秋田県立美術館の前は広場になっていて、イベントが行われているようでした。この日は竿燈まつりの競技会が行われていました。
美術館の外観写真を撮ろうとしたのですが、それどころじゃない…。そりゃあそうですよね。すぐ目の前で竿燈まつりをドッコイショー、ドッコイショーとやっているのですから。なのでまずは竿燈まつりを見学させてもらうことにしました。
差し手は、大きな竿燈を肩に乗せたり、腰に乗せたり、手のひらに乗せたりしています。これってどうなってるんでしょう? こんなのを持ち上げられるなんて、ものすごいバランス力と脚力と体幹です。かっこいい。
でも、秋田県立大学の「県大」の提灯がこころなしか「県犬」に見えてしまうのはなぜでしょう。
子どもたちのチームも。小さいころから練習しているんだろうなあ。今年はお祭りができてよかったね!
さて、お祭りを見たあとは秋田県立美術館の展示室へ。お目当ては常設展の藤田嗣治作品です。(※常設展を観るためには特別展のチケットが必要です)
藤田嗣治とは
藤田嗣治(1886〜1968)東京都生まれの画家。
正直にいうと、わたしにとって藤田嗣治は戦争画家のイメージが強かったのです。しかも、どちらかというと反戦ではないほうの…。
でもそんなこと、吹き飛ばすくらいの素晴らしさと迫力が、《秋田の行事》にはありました。1937(昭和12)年3月に《秋田の行事》は完成しています。それは日中戦争が始まる、わずか数ヶ月前のことでした。
藤田嗣治
展示室に入るやいなやまず目に入るのが、大壁画《秋田の行事》です。目に入るというよりも、高さ3.65メートル、幅は20.50メートルもの壁画のためにこの大きな展示室がつくられているのです。
ドーン! と。
想像してみてください。大壁画には春夏秋冬の祭り行事が展開しているのです。描かれているのは秋田の祭りに関わる人々の四季の暮らしです。竿燈まつりをはじめとする祭りのようす、そして雪のなかでの日常風景。画面の端と端は少し湾曲していて、こちらに迫ってくるような迫力と臨場感があります。まるですぐ目の前でお祭りが行われているかのようです。
まず目に入ってくるのが、壁画中央部の竿燈まつりです。竿燈の竿はしなり、提灯は暴れまわるようにあちこちを向いています。竿を操る若者たちの祭り装束は激しい動きによってはだけ、竿を支えるために踏ん張った脚の筋肉の緊張までも伝わってきます。先ほど観た竿燈まつりの光景がよみがえり、頭の中に「ドッコイショー、ドッコイショー」という掛け声が響きわたりました。
賑やかな太鼓の音とお囃子が聞こえるような気がしてすぐ右となりをみれば、鳥居のまわりに祭りの人びとが集まっていて、まるで天に駆け登っているかのようです。これは太平山三吉神社の春の梵天奉納祭を描いたようす。たしかに天に奉納されてるって感じがします。この人びとがわちゃわちゃ天に登っているのを見て、わたしは高橋留美子の「うる星やつら」の世界観を感じてしまいました。ラムちゃんやテンちゃんもまわりにピュルルル〜と飛んでそうだし、チェリーとか、弁天ちゃんとかも出てきそう。
画面左側から雪ぞりのシャッという音が響き、秋田犬が吠えはじめました。わたしはその音に誘われて左側の冬の場面に移動します。雪に覆われた小さな橋をこえると、祭りから一転して静かな日常の光景が現れました。
雪だるま、雪ぞり、雪あそびをする子どもたち。かまくらには秋田犬がかけのぼり、雪のなかでころころと遊んでいます。
リュウ? もしかしてリュウなの? あなたは樺太でチカパシたちとしあわせに暮らすリュウなのね。
そう、雪ぞりや犬たちの描写から、こんどはゴールデンカムイを連想してしまいました。(※ゴールデンカムイのリュウは北海道犬ですが)
そうなんです。フジタの絵はどこか漫画的というか。もちろん、後世の画家や漫画家が藤田嗣治に影響を受けているのでしょうけど。
いや〜、すごかった。絵画鑑賞というよりも、これはもはや「体験」です。
すぐ目の前で「音」や「雪の冷たさ」「布の手触り」「筋肉の緊張感」などの五感までもが伝わる、ものすごい絵を見てしまったと思いました。
藤田嗣治の《秋田の行事》の画像は検索したらネット上でも見れますし、画集にも掲載されていますが、これは機会があればぜひとも実物を見ていただきたいと思いました。
なぜ秋田にフジタの作品が?
秋田県には《秋田の行事》の大壁画をはじめ、多くの藤田嗣治の作品が存在します。
それはなぜかというと、そこには秋田の大地主だった「平野政吉(ひらの まさきち)」というひとりの男性の存在が関係しています。
平野政吉は秋田の米穀商の若い富豪。ゆうたらお金持ちのボンボンですね。このボンボンがまた変わり者で。絵かきになりたいと言って父親に反対され、やけくそで真っ赤なオートバイを乗り回し、そのありあまる情熱と財力で浮世絵や絵画を収集していきました。
ボンボンは藤田嗣治の絵に惚れこみパトロンになります。フジタの作風は当時の日本の画壇からは逸脱していたものの、ジャポニズムブームの時流に乗ったこともあり、海外では高い評価を得ていました。そのやっかみもあって、日本の画壇からはほとんど無視されていたフジタに、あまのじゃくな平野政吉はおおいに共感したのかもしれません。
やがて秋田を訪れたフジタは、平野政吉の前で世界一の大壁画を描くことを宣言します。
それがまあ、売りことばに買いことばというか…。
『評伝 藤田嗣治』によると、どうやら「金なら出す。世界一ってことを証明してみろ、だったらかきましょう」っていうことだったみたいですね。すごいなあ。多少の脚色はあるかもしれませんが、じっさいそれに近いやりとりがあったのだろうと想像できます。
政吉はその壁画を描くために、江戸時代から続く平野家の土蔵を改造して提供しました。フジタは土蔵にこもり、書き始めてからはわずか15日間であの大壁画を完成させたのだそうです。
大金持ちと世界一の画家の意地の張り合い。なんかもう、勝手にやってくれ、という気がしなくもないですが、そうやって素晴らしい芸術というのはこの世に残されたのですね。あれだけの作品をじっさいに生み出すということは、いくら天才でもお金があっても、そりゃあもうとんでもないことです。それを後世のわたしたちは美術館に行けばいつでも観ることができるのですから、ほんとうにありがたいことだなあと思います。ありがとう、政吉っつぁん!
藤田嗣治の絵画に描かれたドレス
秋田県立美術館は、その平野政吉のコレクションを展観するかたちでできた美術館です。平野政吉コレクションの核となっているのは、藤田嗣治の1930年代の作品群です。フランス人の妻、マドレーヌをモデルとして描き、乳白色の裸婦像で脚光を帯びていた頃の作品です。
わたしは裸婦像には興味がなく、また先述したように戦争画のイメージもあって、今まで藤田作品をあまり観てこなかったのです。
ですから今回改めてちゃんと藤田嗣治の着衣画の作品を見て、わたしはびっくりしてしまいました。この画家はもしかして洋服もつくれたのではないか? と。
肩山からふわりと広がるドレスのフレアの袖を見て、わたしの頭の中に自然とパターン図が展開されました。
胸元にたらりと落ちるギリシャの女神風ドレスのドレープを見ても、どこでパターン展開したかがわかり、頭の中にパターン図が自動再生されます。
なんじゃこりゃ、と思いました。これは洋服をつくったことのある人しか描けない絵なんじゃないのか。もしくはそれを上回るものすごい観察眼を持っているかです。おそらくそうなのでしょう。それを証明するような逸話が残っています。
とんでもないですね。ものすごく目がよかったのです。でもきっとそれだけではなく、やはり美しい服や布を愛していたのだと思います。同館に収蔵されている《自画像》には美しい藍染の布が繊細に描かれています。これらの絵は、服や布を愛している人だからこそ描ける絵だと思います。
こんなによい目を持ち、服を愛し、美しい絵を描く画家が、どうしてあんなに恐ろしい、しかも戦意を発揚させるような絵画を描いたのか。わたしにはとても理解できませんでした。
藤田嗣治と戦争画
フジタは、時代の空気を読み解くのにものすごく長けていました。
彼は時代の空気感を絵にすることができました。だとすると戦時中にフジタに戦争画を描かせたのは、当時の日本の空気感だったのかもしれません。
今となっては画家の本心を知るよしもないのですが、もしもほんとうに「時代の空気」が彼におそろしい絵を描かせたのだとしたら…わたしはいまの時代の空気にも、同じような不安を感じてしまいます。
知らず知らずのうちに、「でもあれはしょうがないよね」などと言っているうちに、事態があり得ない方向に進んでしまい、誰も願っていないのに、ずるずるとその空気に飲み込まれてしまわないだろうかと。
だからといってわたしに何ができるのか、問題が大きすぎてとても見当はつかないけれど、歴史を学ぶこと、知ること、考え続けること、美しいものをつくること、それを伝えることだけは、放棄したくはないなと思っています。
展示室を出たら
そんなことを考えながら展示室を出たら、目の前にこの光景がバーンと広がっていました。
秋田県立美術館から観る、「竿燈まつり」です。竿燈が、まるで絵画のようにぴったりとおさまっています。
もしかするとこの空間は、竿燈まつりを見るためにつくられたのでしょうか。しかし、竿燈がこの窓から見えるのは、年に4日間だけなのです。
わたし、めちゃくちゃラッキーでした。
先ほど観た《秋田の行事》の迫力が蘇ります。わたしはすごい日に、えらいものを観てしまいました。
たとえそれが、最初はお金と意地で描いたものであっても、フジタは秋田の「祭り」という題材に、心から惚れ込んで描いたのだと思います。それは、描かれたあの作品を観ればわかります。
そしてそこに86年前に描かれた「竿燈まつり」が、戦争やコロナや大雨などの災害を経ても、ほとんど当時と同じ形で今もなお受け継がれていることに、わたしは感動してしまいました。そしてそれこそが、この街の財産であると思いました。
素晴らしいものを観させてもらいました。ぜひ、秋田に行って、実物を観てもらいたいです。
最後までお読みいただいて、ありがとうございました。
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