#2 序章「蓑(みの)」(2) 〜ドンザ
初しぐれ 猿も小蓑を ほしけ也 / 芭蕉
( 猿簔集 巻之一・冬 )
「評釈 猿蓑」幸田露伴・著
の冒頭にあるのがこの俳句である。
序章(1)では、この句に登場する「蓑」から発展して、太田 道灌の逸話と山吹の話でアレコレと寄り道をした。
序章(2)では、蓑からまた別の寄り道をする。
ドンザ
私は1944年、父の出征後、父祖の地である長崎県西彼杵郡 椿の里に疎開した。
そこには、周りからとみ爺の家と呼ばれる空き家があった。
その家で3年間暮らした。
空き家となったとみ爺の家には、「蓑」はおろか、被る「笠」もなかった。(*1)
勿論、番傘もコウモリ傘もなかった。
1945年4月、私は国民学校(小学校)に入学した。
椿の里から八重本村の学校へ、今で言う集団登校をした。椿の里を出て、エッキー峠を越える。
峠を下りると、人家のない一本道である。
6年生を先頭に、一列になって歩いた。
子供の足で約30分の道のりであった。
夏休みになるまでは、空襲警報発令と解除が繰り返される中を、怯えながら登校した。
1945年8月9日に長崎市に原子爆弾が投下された。
その後、敵機の襲来が絶え、椿の里周辺は静かになった。
さてその、小学校への登下校である。
雨の日は、「ドンザ」を頭から被って学校へ行った。
愛用の電子辞書に当たると、ドンザが載っている。
『ドンザとは、古綿を入れたどてら。また、綿入れ半纏』
とある。ドンザが辞書に載っていること自体が驚きである。
長らく、母の里言葉だと思っていた。
椿の里で体験したドンザは、綿の入っていない木綿の半纏で、破れたところには、上から似た色のハギレを被せて、被せ縫いしたものであった。何ヶ所も、破れを綴り、被せ縫いで繕いがしてあった。
小学低学年の身体には重い被り物である。
ドンザの着丈は長く、子供が被ると雨の中をドンザが1人で動いてるという怪しい格好となった。被りたくなかった。
ドンザを被ったのは、椿の里で暮らしている間だけであった。
が、その後、雨の日には、何を用いて出掛けたのか皆目憶えていない。
疎開先の父祖の地で3年間を暮らし、やっと、長崎市内に戻ることが出来た頃のお話です。
転居先は、原爆の焼け跡に建った応急住宅で、粗末なその家に長く住むことになった。
我が家にどのような雨具があったか、これまた記憶が定かでない。第一その家には傘立てがなかった。
「コウモリ傘、修繕!」
市内へ家移りして数年が経った頃、
「コウモリ傘、修繕!」
と回って来る男性が出現した。
その人は、
「コウモリ傘」の部分をゆっくり伸ばして言い、「修繕」のところを短く言い切った。それを子供達が面白がってぞろりと後ろに付いて回り、「修繕」のところを歯切れ良く唱和した。
彼は、道路脇に座って、持ち込まれた傘を丁寧に修理した。
人々はコウモリ傘を大切に使っていた。
初めての親切
さらに3年余り経ち、
中学1年生のある午後。
課外活動で遅くなり、ひとり急ぎ足で下校している時、にわか雨に会った。近くに雨宿りする人家はない。自宅はまだ遠い。
すると、道路脇の畑から声が飛んできた。
「傘、持っていきなさい」
畑仕事の手を止めて、母ぐらいの年齢の女性がコウモリ傘を開いて差し出している。
見知らぬ人です。ためらっていると、
「明日、学校に行くとき、ここの畑に置いといて」
と、コウモリ傘を押しつけた。
その女性は、鍬を抱えて、小走りに畑を出て行った。
私にとって、知らない人からの生まれて初めての親切であった。
その人は、私のことを、近くの中学校に通う生徒であること、課外活動をしている子であることだけを察して、傘を差し出したと思われる。
私は、戦後の厳しい暮らしの中で、色々な人々に揉まれて、日々を過ごしていた。
思いがけない親切を受けて、泣きそうになった。
貴重な傘
中学2年になった時、私は我が家の貴重なコウモリ傘を、うっかり学校に置き忘れてしまったことがある。
登校時に激しい雨が降っていて、母が1本しかないコウモリ傘を持たせてくれた。
ところが、課外活動で遅くなり、下校時には雨が上がっていた。
傘のことを忘れて帰宅し、母に注意されて置き忘れに気付いた。
翌日、父と共に学校へ出向き、担任の先生から忘れ物の傘を受け取った。何故、父が学校に来ることが出来たのか分からないが、当時、父の会社は午後4時が仕事上がりで、私と中学校で待ち合わせしたのであろう。
父を煩わせることになり、私は小さくなって父の後ろに隠れていた。受け取りに、親が出向く程、コウモリ傘は当時たいへん貴重品であった。
その時改めて、中学1年の時のことを思い出した。
その女性は、畑から私を呼び止めて、傘を貸してくれた。
(赤の他人の小娘に、自分のために用意していたコウモリ傘を差し出してくれた……)
たった1回の赤の他人からの親切がいつまでも心に残ることになった。
いつか自分も、困っている人に出会ったら、手を差し伸べることが出来ますようにと、願うようになった。
しかし、そんな機会に遭遇することはなく、日々の暮らしに追われて、何時しか年月が過ぎて行った。
バスでの小さな親切
大阪府で定年を迎え、夫の暮らす石川県に合流した時のことである。
市内を走るバスに乗車中、恩返しができる(かもしれない)機会が訪れた。バスは、降りる際に運賃を支払う方式のワンマンカーである。
ひとりの女性の乗客が1万札を手にして途方に暮れていた。
「困るんだよなぁ」
と運転手は渋い顔。
運転手は両替の金銭を所持していない。
その乗客は、小銭がバス賃に足りないらしく、
「済みません、済みません」と謝っていた。
すると、すぐ、近くの座席の女性が、
「いくら不足ですか」
と聞いた。
運転手が「70円」と、ブスッと返事した。
女性はその金額を、サラリと料金箱に入れた。
乗客は戸惑って、
「お返しする方法がありません」と言った。
「誰か困っている人がいたら、その時にね……」
とその人は優しく微笑んだ。
私は、一部始終を見守るだけで、あたら恩返しの機会を逸した。
その後も、ウッカリ、1万札しか持っていない乗客を見かける事があったが、何とバスの運転手の対応が変化していた。
「次回ご乗車の時にお払いください」
と言っているではないか。
回数券や70歳以上の人向けの定期券発行、バスのカードなどの工夫もあって、運賃の揉め事はほとんど見られなくなった。
しかも、運転手は、運賃箱にお金を入れて下りて行く乗客に、軽く頭を下げるようになった。
人もシステムも変わっていく。
傘から日傘と連想し、あちこちの道に迷い込んでいく。
石川県の暮らし22年、こうして年月を重ねていくと、時に私も病むようになった。 80歳にもなると、通院期間は長くなり、時として入院もすることもあった。
傘を貴重品と思う気持ちは今も同じです。
病院に通い慣れた頃、玄関にある錠付きの傘立てがあることにふと目についた。
(たくさん傘が、傘立てに無造作に置き去りにされている!)
院内に入る時、鍵を掛けない人が多い。
無造作に傘立てに傘をただ突っ込んで行く。
そして病院を出る時、雨が止んでいたら、傘はそのまま置き去りになる。
それが繰り返されて、傘立ては満杯になってしまう。雨の日には、傘を入れるところがない位になる。
いつしか、雨でない日も、かなりの傘が残るようになっていた。
雨の多い金沢では、
「弁当忘れても傘忘れるな」
という言葉がある。
しかし、傘は置き去りにされて、傘立てに溢れ、時々、纏めて撤去される仕儀となる。
いつの間にか、傘は貴重品ではなくなったようである。
次の、第2章は五徳で迷い道、寄り道である。五徳の意味は色々あるらしい。 どの五徳になりますやら。
〈参考〉
(エッセイ)「猿蓑 の 寄り道、迷い道」 #2 序章「蓑」(2) 〜ドンザ
をお読みいただきましてありがとうございました。
2024年2月16日#0 連載開始
著:田嶋 静 Tajima Shizuka
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