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cakesと浅野真澄さんの「炎上」の件は、WhatとWhyを見つめ直すタイミング。原因は「編集部の未熟なコミュニケーション」といったHowに留まらない

cakesと浅野真澄(あさのますみ)さんの件が話題です。

cakesからも続報があるかもしれません。

note株式会社としても続報があるかもしれません。

問題の原因は「未熟なコミュニケーション」というHowではない

私はメディアを運営している者でもあり、記事を寄稿する立場もあります。どちらの立場からしてもまだ答えが出せていません。本当に難しい。

今回どうしたらこの件は回避できたのでしょうか。

cakesがTwitterで書いているように「編集部からのコミュニケーションに未熟な点があったことに起因」しているとしても、その原因はコミュニケーションといったHow=手段の部分に留まりません。コミュニケーションといったHowは枝葉にすぎず、幹や根にはWhatとWhyがあります。

つまり「What=何をコンテンツにするか(今回は自死)」、「Why=なぜコンテンツをつくるのか(今回はなぜ自死をコンテンツにするのか」です。この部分を見直さない限り、同様の問題は起き続けてしまいます。

今回のcakesはどんなWhatとWhyで動いていたのでしょうか。さらには、cakes全体はどんなWhatとWhyで動いているのでしょうか。

基本的には会社が定めるWhatとWhyに間違ったものは起きません。ただ、日々の業務を遂行する中でWhatとWhyが阻害される要因が生まれる可能性は大いにあります。

それが利益の追求を行動原理に置く株式会社の弱さでもあり、強さでもあります。WebメディアであればPVやUUを追いかけた結果として、書き手の方を蔑ろにしてしまう、読者の方を傷つけてしまうことは日常茶飯事です。

「編集部からのコミュニケーションが未熟になった」原因は何なのか。ただのひとりの担当者が起こしたミスであっても、そのミスを誘った組織的な原因が必ずあります。

もはやcakes編集部の体制の問題を超えているかもしれません。note株式会社全体の組織問題であり、経営問題と考えた方が解決に向かうはずです。

「コンテンツ化=暴力」である

今回の問題はcakesだけでなく、大なり小なり他のWebメディアやコンテンツサイトも抱えている問題であるはずです。だからこそ、Howの部分だけの謝罪や再発防止策だけでなく、WhatやWhyの再定義といった踏み込んだ発表をお待ちしています。

「コンテンツにすること=暴力」なんですよね。ある事象や体験をコンテンツの形に切り取るから、記事などの第三者が読める、追体験できる形に変わります。そこには必ず「この部分はいらない」といった取捨選択が発生します。その恣意的な取捨選択が「暴力」です。

このnoteも浅野さんとcakesの意見を切り取って書いています。切り取るという恣意的な取捨選択=暴力なしでは書けません。

ある事象や体験を全体性を保ったままで伝えることはできないのです。それでも「伝えたい」という思いからコンテンツは生まれるのですが、「コンテンツ化=暴力」という認識がないと、書き手の方が蔑ろになったり、読者の方を傷つける形でコンテンツが消費されてしまいます。

だからこそ、コンテンツをつくる人間にはWhtとWhyを問う哲学や倫理が求められるのだと、今回の件で改めて思いました。



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