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小説『EGOILL』Chapter.4

四、4

 午前四時、私は、自宅前でタクシーから降りると、既に寝ているであろう母を起こさないように、そっと玄関のドアを開け、そのまま自室のパソコンデスクへと直行した。
 パソコンを立ち上げ、メモ用紙に書き留められた蛯原蜜子のホームページのアドレスをブラウザに入力すると、何の装飾も施されていない真っ黒なトップページに、『EGOILL』というタイトルが大きな赤い文字で表示された。これは『エゴイル』と読むのだろうか? 聞いたことのない単語だ、と私は思った。やがてタイトルがフェードアウトし、小さな白い文字で次のメッセージが表示された。

 「知らんぷりを決め込めば、
  あなたの記憶は書き換えられる。
  あなた好みに書き換えられる。」

 まるでストロベリー・フィールズの歌詞のようだ、と私は思った。でも、「られる」という部分にひっかかりを感じる……。これでは、「(自分自身で)自分の記憶を、自分好みに書き換えられるようになる」のか「(第三者の手によって)自分の記憶を、自分好みに書き換えられてしまう」のかが判然としない。そのどちらとも受け取れる。私は眉をひそめた。
 メッセージの下には、〈ギャラリー〉〈ブログ〉〈メール〉という三つのリンクが張ってあった。〈ギャラリー〉へのリンクをクリックすると、画面は新しいページに遷移した。縮小された彼女の絵画作品と思しき画像が、まるで花札がめくられるように一枚一枚順番に読み込まれ、やがてずらりと並んだ状態で表示された。
 私はまず、一番左上にある『自然死』と題された作品のサムネイル画像をクリックした。
 モニターいっぱいに映し出された『自然死』を見た瞬間、そのおどろおどろしさに私は唖然とした。これを彼女のような美しい女性が描いたとは、きっと誰も思わないだろう、と思った。見たところ、『自然死』は油彩画のようであった。
 長方形の画面に描かれた舞台は、どこかの家の薄暗い寝室だ。窓から丸い月が見えていることから、設定された時間帯が夜間であることがうかがえる。部屋の中央には大きなダブルベッドが一台描かれている。鑑賞者(私)の視点は、ベッドの右側面から三歩下がった位置にある。
 登場人物は三人だ。一人目は、ネグリジェを着た老婆。目を瞑ってベッドの上に仰向けに横たわっている。作品のタイトルからして、死んでいると見るのが妥当だろう。二人目は、白衣を着た中年男性。老婆の胸部の向こう――ベッドを隔てた向かい側――で、老婆の左手首をとって脈を診ている。白衣を着ているということは、男は医者なのだろう。三人目は、黒っぽい服を着た中年女性。医師と同じ側、老婆の脚部の向こうで呆然と立ちすくんでいる。恐らくは老婆の肉親、年格好からすると娘なのかもしれない。
 老婆の頭は、若草色の枕の上に乗っている。枕元にはナイトテーブルらしきものが描かれている。が、これもベッドの向こう側――つまり左側面――にあるのでディテールまでは分からない。そのテーブルの上に置かれたシェードランプが放つ目映い光が、この部屋の中で一番明るい光源だ。ランプの光を真横から浴びた医師の体は、光と影のコントラストで彩られている。彫りの深い顔立ちが一層強調されているように見える。一方、ランプの光がほとんど届かない位置にいる中年女性の姿は、医師ほどハッキリとは描かれていないが、背後の窓から射し込む月明かりに照らされて、輪郭だけがやけにくっきりとしている。まるで肖像画のように、窓枠のキャンバスの中心に青白く浮かび上がっているように見える。
 夜のしじまに支配されたような、しめやかな自然死の瞬間……のように見えるのはここまでだ。この静寂は第四の登場人物の手によってズタズタに引き裂かれている。最初に「登場人物は三人だ」と敢えて断ったのには訳がある。この第四の登場人物は、厳密に言えば人ではない。影なのだ﹅﹅﹅﹅
 ベッドの右側面――つまり鑑賞者(私)側――には本来誰もいない筈なのだが、ベッドの下に映る真っ黒い影の中から、まるでコブラが鎌首をもたげたときのような格好をした一人分の影が生えている﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅。老婆に覆い被さるように伸び上がったその影は、逆手に握った黒い槍のようなものを老婆の腹部に突き立てている。黒々としたその顔面は、不自然にもこちらを振り返っている。なぜか思いきりカメラ目線なのだ。目尻のつりあがった半月状の白い両眼には黒目がない。まるで〈口裂け女〉のように頬まで裂けた半開きの口からは、ギザギザした黒い牙がのぞいている。思わず画面から目を背けたくなるような、見るからに卑しい笑顔だ。
 まさにその瞬間、老婆はその異様な影の手によって刺殺されたように私の目には見える。ところが、医師は脳天気に老婆の脈をとっているし、中年女性の目線は、老婆の顔にのみ向けられている。つまり、二人とも影の存在に全く気がついていない様子なのだ。
 この不気味な絵は一体何なんだ……。私は、〈戻る〉のリンクを押し、サムネイル画像の花札が再びめくられるのを待った。
『自然死』の右隣にある作品のタイトルは、『事故死(その一)』。その隣は、『事故死(その二)』と『事故死(その三)』。下段には、『自殺(その一)』『自殺(その二)』『自殺(その三)』。更にもう一段下がると、『他殺(その一)』『他殺(その二)』『他殺(その三)』と続いている。
 それらのサムネイル画像を一枚一枚開いていくと、車にひかれている少年やら、首を吊っている中年男性やら、包丁で腹を刺されている婦人やらが描かれていた。その全ての作品に例の異様な影が登場し、人々の体を黒い槍で突き刺しているのである(体を突き抜けた槍の切っ先は、必ずアラビア数字の4の形に見えるように描かれていた)。
 私は、深くため息をついた。どくどくと胸の鼓動が高鳴っているのが自分でも分かった。私は、思い出したようにデスクライトをつけ、次にタバコに火をつけた。私の口から吐き出されたタバコの白い煙は、部屋の白い壁紙と同化して、すぐに見えなくなってしまったけれど、デスクライトが発する光線の真下を漂う煙だけが、妙にはっきりと、まるで踊っているかのように見えた。
 顔をもつ影と切っ先が4の形をした槍。数字の4は〈し〉とも読む。死。死の槍……。私は、突然ひらめいた。そうだ、ミルトンの『失楽園』だ。
『失楽園』には擬人化された〈死〉が登場する。〈死〉の外見が、影そのものとして作中に描かれていることを私は思い出したのである。そして、その〈死〉が、生まれながらにして手に握っていたという殺戮の槍こそが、蛯原蜜子が描いた4の形をした槍の正体なのではないか、と私は睨んだ。
 人々の死は、必ず殺戮の槍によってもたらされる――そして、我々はそのことに誰も気づいていない――と彼女は言いたいのだ。そうだ、きっとそうに違いない。そこまで考えてから、私は我に返った。短くなった煙草を、慌てて灰皿の底でもみ消した。
 しかし、これらの作品を見て、ミルトンの『失楽園』を連想する人間が、この世に一体何人いるだろうか? 少なくとも、その辺にごろごろと転がってはいない筈だ。蛯原蜜子との出会いに、またも運命的なものを感じた私は、ひとり悦に入った。こうなったら明日さっそく彼女に連絡してみよう、と思った。

 結婚式の翌日、午後七時を少しまわった頃に、私は蛯原蜜子の携帯電話に電話をかけた。しかし、無情にも彼女に電話はつながらなかった。「おかけになった電話は、電源が入っていないか、電波が届かないためかかりません」という、お決まりのメッセージが延々と繰り返されるだけであった。
 翌日は、午後八時きっかりに電話をかけた。コール音が鳴ったので、私は期待に胸を膨らませた。だが、蛯原蜜子は電話に出なかった。まぁしかし、彼女の携帯電話には着信履歴が残った筈だし、きっと折り返しの電話がかかってくるだろう、と私は気を取り直すことにした。
 それから三日経っても、蛯原蜜子からは何の音沙汰もなかった。もしや、彼女の身に何かあったのだろうか? いや、そんな筈はない、という確信が私にはあった。その五日間というもの、彼女は毎晩のように、ラフスケッチ付きの簡単な日記のようなものを、〈ブログ〉にアップしていたからである。
 単に仕事が忙しいのだろうか? それにしても、連絡ぐらいくれてもバチは当たらないだろうに……。私は、蛯原蜜子のホームページのリンクから、彼女にメールを送ることにした。

「こんばんは。先日、渡辺達也くんの結婚式の二次会の席でお会いした中村滝夫です。
 教えていただいたホームページを早速拝見しました。ただただ圧倒された、というのが正直なところです。あなたの作品に比べたら、私がごちゃごちゃやっていた詩や音楽など、取るに足らないものであると思いました。披露宴の席で、他人の曲をカバーして得意になっていた自分が恥ずかしいとさえ思いました。是非、今度芸術について語り合いましょう。
 ところで、あなたの一連の作品は、ミルトンの『失楽園』に登場した〈死〉がモチーフとなっているのではないかと思いました。当たっていますか?
『失楽園』は、私の大好きな作品の一つです。

 追伸 たしか、二次会の席で「今度、恋愛について語り合おう」と約束しましたよね? ひとまず、恋愛をテーマにした『鬼ごっこ』という自作の詩を贈ります。詩を贈るなんて、キザで、青臭く、噴飯ものの行為であるとは思いますが、どうかご容赦願います。

  追うと逃げられ、
  逃げると追われる。
  いつまで経っても捕まえられないし、
  いつまで経っても捕まえてもらえない。
  果てしない鬼ごっこの最中、曖昧な攻守交代だけが、漠然と繰り返されているような
  気がした。

  追うと逃げられ、
  逃げると追われる。
  いつまで経っても捕まえられないし、
  いつまで経っても捕まえてもらえない。
  果てしない鬼ごっこの最中、自分は本当にこのゲームに参加しているのだろうか? 
  と疑った。なぜなら、
  いつまで経っても捕まえられないし、
  いつまで経っても捕まえてもらえないから。」

 蛯原蜜子からの返事は、私が彼女にメールを送ってから三日後の晩に届いた。

「こんばんは。蛯原です。
 返信がとっても遅くなりました。本当にごめんなさい。先週と今週は何かと忙しく、携帯やメールをチェックする時間もほとんどありませんでした。しばらくは予定や行事が何かと重なり、なかなかまとまった時間がとれそうにありません。お会いするのは、もう少し先になってしまいそうです。ごめんなさい。
 ところで、『鬼ごっこ』、興味深く拝見しました。鬼ごっこには、本当にうんざりしている私です……(笑)。

 追伸 中村さんが仰る通り、私がHPにのせている一連の作品は、『失楽園』にインスパイアされて描いたものです。失楽園の〈死〉がモチーフだと見抜いたのは、中村さんが初めてですよ。とてもびっくりしました。
 芸術や恋愛について、ゆっくり語り合いたいですね。その日が来るのを楽しみにしています。」

 私と蛯原蜜子との不平等文通は、このようにして始まった。〈不平等〉という文字を〈文通〉の頭に冠したのは、彼女からの返信が滅多に来なかったことを意味している(その確率は、およそ十分の一であった)。
 返信がなかなか来ない相手に対して、メールを送り続けるという行為は、想像以上に精神的苦痛を伴うものであった。私は、架空の女性を相手に延々と独り言を言い続けているような錯覚に、たびたび陥った。そして、その都度自問した。こんなに辛い思いをしてまで、彼女にメールを送り続ける必要があるのか? と。
 もしかしたら、蛯原蜜子は私のメールを迷惑に感じているのかもしれない、とも思った。仮にそうだとしたら、私は単なるメール魔である。しかし、その心配は、蛯原蜜子からの一言によって払拭された。彼女は、「メールは、いつも興味深く読んでいます。お気に入りのブログを読むように、とても楽しみにしています。良ければいつでも送ってください。」と、ある返信の中で言ってくれたのである。

  「汝等はしるし奇蹟きせきを見ざれば信ぜず」「見ずして信ずる者は幸福さいわいなり」
(ヨハネ、四ノ四十八)(ヨハネ、二十ノ二十九)

 私は、キリストの言葉に希望を託した。
 メールの返信がなかなか来ないことが何だっていうんだ。なかなか会ってくれないからどうだっていうんだ。見ずして信じる者に、私はなりたい。彼女こそは、〈その人でなければならない明確な理由〉を持った女性なのだ、と私は心の中で念じながら、蛯原蜜子にせっせとメールを送り続けた。

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