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小説『EGOILL』Chapter.5

五、EGOILL

 二〇〇九年一月、私と蛯原蜜子がメールを交換をするようになってから約三カ月が経過した。苦心惨憺してメールを送り続けた甲斐あって、当初十分の一であった彼女からの返信の割合は、三カ月時点で十分の二ないし十分の三に増加した。二人の仲は日々着実に深まっている、と私は確信していた。

「こんばんは。蛯原です。
 連休は素敵な雪になりましたね。寒いのは苦手ですが雪景色の美しさには胸が躍りました。
 坂本龍一の『BRIDGE』の件、驚きました。あれは私の中では特別な曲ですよ。あのジャケットですぐに分かってくださる方がいるなんて、ちょっと嬉しいですね。何か色々とシンクロしていて気持ちが悪いくらいです(笑)。
 ところで、「語る会」についてです。そろそろ開催しても良い頃かもしれませんね。私は、例え相手が女性であっても、その人のことがよく分かるまでは決して二人きりでは会わない慎重派です。今まで中村さんからのお誘いを固辞し続けてきたのには、そのような理由があったのです。どうかお気を悪くなさらないで下さいね。
 候補日については、また追って連絡します。気長にお待ち下さい。

 追伸 実は最近、運命的な恋に落ちました。その話も、また。」

 やった、ようやく念願の〈語る会〉開催にこぎ着けたぞ! メールを読んだ直後の私は、まさに羽化登仙うかとうせんの心境であった。
 が、しかし、最後の一文が何となく解せなかった。私は、パソコンのモニターに食いつかんばかりの勢いで、メール全文を再読三読した。
 この「運命的な恋に落ちました」という一文は、一体何だろうか? 誰と恋に落ちたのだろう? この書き方からすると、恋に落ちた対象が私……だとはとても思えない。――いや、待てよ。本当は私とのことを指しているのだけれど、敢えてこのような書き方をしているのではないだろうか。実際に会ったときに私を驚かせようという魂胆なのかもしれない。でなければ、明らかに自分に気があると分かっている男に向かって、「運命的な恋に落ちました」、なんて言う筈がないじゃないか。きっとそうだ。きっとそうに違いない。
 私と蛯原蜜子の〈語る会〉が催されるまでには、更に二カ月を要した。その間私は、〈運命的な恋に落ちた相手〉について何一つ質問することができなかったし、彼女も自分からそのことは語らなかった。私は、例のキリストの言葉をひたすら唱え続ける毎日を送った。
〈語る会〉開催予定日まで一週間を切ったその日、私は突然思い立った。よし、思い切って自分の気持ちを彼女に伝えてしまおう、と。ぐぢぐぢ考えてもきりがない。こうなったら、やけっぱちだ。煮るなり焼くなり好きにしてくれ!
 そして、私は告白した。

「こんばんは。蛯原です。
 先日のメールを見て、中村さんの気持ちをすごくありがたく思うのと同時に、何だか申し訳ないような気持ちでいっぱいです。
 中村さんの気持ちに応えることは、今は出来そうにありません。ただ、そんなふうに私を思ってくださっているということは、とても心強く感じました。ありがとうございます。
 ところで、明後日の「語る会」ですが……」

 そのとき私は、彼女からのメールを最後まで読むことが出来なかった。
 天井に取り付けられたシーリングファンが、音もなく静かに回転しているイメージが頭の中に浮かんだ。「見ずして信ずる者に、私はなりたい」という言葉が、回転するファンの羽根に巻き込まれ、メリーゴーランドの木馬のように、浮きつ沈みつ、くるくると私の頭上で回っている。やがて言葉は、白い煙となって、静かに雲散霧消した。

〈語る会〉開催当日の午後六時、私は、とあるホテルのフロントの前に立っていた。チェックインを済ませ、スタッフから部屋のキーを受け取ると、私はロビーのソファーに座って蛯原蜜子の到来を待った。
 ホテルを予約していたのには訳があった。蛯原蜜子の住む町は私の住む町より小さかったので、一緒にお酒を飲めるお店の数が限られているらしかった。それならば、私の住む町で会を開催しよう、ということになったのであるが、私の住む町から彼女の住む町までは、車を使って片道約一時間の距離があった。つまり、飲んだ後に気安く代行運転を頼めるような距離ではなかった。だから、ホテルに一泊して翌日に帰宅したらどうか? と私が提案したのである(一時間に一本しか運行しておらず、終電が午後九時台の電車に乗って移動するという選択肢は端からなかった)。
 約束の午後六時半、蛯原蜜子がロビーに姿を現した。私はソファーから立ち上がって彼女に歩み寄った。「やぁ、久しぶり」
 私の存在に気づいた蛯原蜜子は、「おひさしぶりです」と言って微笑んだ。
 我々は一緒にホテルを出た。「こっちだよ」と、私は予約していたもつ鍋店のほうへ蛯原蜜子を案内した。およそ五カ月ぶりに会う蛯原蜜子の胸元には、相変わらず三日月のペンダントが光っていた。まだ夕方であったが、彼女の顔は月の光の中にいるように白く輝いて見えた。
 私は、並んで歩いている蛯原蜜子のほうを向いて言った。「今日は満月らしいね」
「そうですね」と答えた蛯原蜜子が――同い年であるにもかかわらず――私に対して敬語を使い続けていることに、私は少し不満を抱いた(私は、文通を初めてからは、彼女のことを〈みっちゃん〉と馴れ馴れしく呼んでいた)。
 もつ鍋店に到着すると、薄暗い板張りの廊下を通って個室に案内された。私と蛯原蜜子は、掘りごたつ式のテーブルに向かい合って座った。彼女の背後は隣室と襖で仕切られており、私の背後には磨りガラスのはまった格子窓があった。ガラス越しに、円い月の輪郭がぼやけて見えた。
 料理とお酒を注文し、再会に乾杯したところで、いよいよ〈語る会〉が幕を開けた。
「で、何があったの?」と私は単刀直入に切り出した。
「私は、傷を舐め合いたい訳じゃありません」
 蛯原蜜子には、ちゃんと伝わっていたのである。私が彼女の生い立ちをたずねたということが。
 我々はお互いの過去を簡単に披露し合い(お互い両親には恵まれていなかったようである)、一旦他愛のない話題を挟んだ。私が映画好きであるこということをメールで知っていた彼女が、「お会いしたら聞いてみたかったんですけど、中村さんの一番好きな映画は何ですか?」と聞いてきた。
「うーん、難しい質問だなぁ。『オネアミスの翼』かなぁ……。いや、でもやっぱり『リトル・ブッダ』かなぁ……」
「えっ」、蛯原蜜子は驚いた様子であった。
「どうしたの?」
「実は今、一番観たいと思っている映画なんです、『リトル・ブッダ』」
「ええええ……まじか、またシンクロしちゃったね」
「ええ、ここまでくると、ちょっと怖いですね」
 更に我々は、ベルトルッチの『シェルタリング・スカイ』のラストシーン、原作者のポール・ボウルズのモノローグが本当に素晴らしいという意見で一致した。
 蛯原蜜子はトイレに立つ際、「中村さんは、私のどこを愛しているんですか? 帰ってくるまでに考えておいてくださいね」と私に宿題を残していった。いよいよ、恋愛について――しかも我々の恋愛を――語るときが来たのである。だが、いきなりの宿題に私は戸惑った。
 うーん、まず思いつくのは、お互いに共通点が多いというところか? でも、彼女は私と嗜好が似通っていることに対して、私ほどの驚きを感じていないようだし……。そもそも、「どこを愛しているか?」という問いに対して、「共通点が多い」という回答は相応しくないような気がする。「会話が成立するから」というのも同じ理由で却下だ。愛……そもそも人を愛するとは、一体どういうことなのだろう?
 彼女がトイレから戻って来た。私は覚悟を決め、正直に心の内を吐露することにした。
「俺は、実際のところ誰も愛したことなんかない。俺には愛の能力が欠けているんだ。自分を愛するように、他人を愛することが出来ない。でも、誰かのことを愛してみたいとは常々思っているよ。なぜかと問われても、はっきりとは答えられないけど、君となら言葉をこえて分かり合えるんじゃないか、って思ってる」
 素直に彼女のどこそこを愛していると言わなかったのは、私以外の誰かを運命の人であると思っている彼女に対する、〈ささやかな報復〉であったのかもしれない。しかし私は、できる限り正直に答えた――ベストを尽くした――つもりであった。
「でも……」と言って蛯原蜜子は顔を伏せた。「私はあなたの気持ちには応えられない」
 いや、それはこないだ聞いたよ、と私は心の中で彼女に突っ込みを入れながら、「別に応えてもらいたいわけじゃないさ」と精一杯強がった。
 私の気持ちに応えられないと分かっていながら、なぜ敢えて彼女が〈愛〉の理由を聞きたがったのか、私の回答が彼女が求めていた回答ではなかったのか、そもそも彼女が求めていた回答とは何だったのか、私には分からなかった。
「ところで、例の運命的な恋に落ちた人って、どんな人なの?」と私は思い切って聞いてみた。
「妻子のある人なんです」
 彼女の回答に、私は二の句を継ぐことができなかった。

 二軒目は、私の中学時代の後輩が営むバーに行った。こぢんまりとした店内に入ると、私たちはカウンター席に並んで座った。私の後輩と談笑する蛯原蜜子の横顔は、素面のときと少しも変わらないように見えた(既にワインを四、五杯飲んでいたというのに!)。敢えてフルーティーなカクテルばかりを飲んでいた私にも、まだ十分に余力が残されていた。
 それぞれのお酒がコースターの上に置かれると、私と蛯原蜜子はあらためて乾杯をし直した。そして、遂に我々は本題に入った。
「ところで、みっちゃんのホームページのタイトルには、どういう意味が込められているの?」と私は切り出した。
「〈エゴイル〉というのは、私が発見したウイルスの名前なんです」と蛯原蜜子は静かに口を開いた。「エゴイルは人間をゾンビに変えてしまうんです」
 予想だにしなかった回答に私は首をひねった。「ゾンビ……?」
「そうです。あのお馴染みのゾンビ。中村さんも映画好きなら、ジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』を観たことがあるでしょう?」
 その映画は、私のお気に入りの作品であった。「ああ、四人組がショッピング・モールに立て籠もって、迫り来るゾンビ達と戦う映画だよね」
 蛯原蜜子はうなずいた。「土気色の顔色をして、口から血を垂れ流して、両手をだらりと前に伸ばして、ボロボロになった服を着たまま、ふらふら彷徨っているだけの生ける屍……。映画の中に登場するゾンビは、モンスターとして大袈裟に描かれているけれど、実際のゾンビは、みんな普通の外見をして、普通に歩いているんです」
「実際のゾンビって?」
「私は、世の中の人間はみんなゾンビだと思ってるんです」
「どうして?」
「だって、生ける屍のような人間ばかりでしょう? 我執にとらわれ、怠惰な生活をおくり、自己を顧みず、ご都合主義で、ただひたすら欲望のおもむくままに生きている。自分という閉じられた世界の中で、夢遊病者のように、ふらふら彷徨っているだけ。ゾンビと呼ぶに相応しいとは思いませんか?」
「確かに……」と私は応じた。「アイデンティティを喪失した現代人は、ゾンビと呼ぶに相応しいとは思うけど……」
「私は考えたんです。こんなにも大勢の人々が皆一様にゾンビのようになってしまうのには、何かそれなりの理由があるに違いない、って。そして、その正体を突き止めたんです」
「それがエゴイルなの?」
「ええ」と言った蛯原蜜子の表情は真剣そのものであった。
 私は、ジャックダニエルのコーラ割りを一口飲んだ。全身が総毛立っている感覚があった。
「人間は生まれる前から既にエゴイルに感染しているんです」と蛯原蜜子はなおも続けた。「映画に登場するゾンビ達のように、後天的にウイルスに感染する訳ではなく」
「ってことは……つまり、みっちゃんから見たら俺もゾンビの一員だってこと?」
「さぁ、それはどうでしょうか」と彼女は意地悪そうに微笑んだ。「でも、油断しては駄目です。あなたも私もエゴイルに感染しているのだから。エゴイルが発症するかどうかは、私たちの今後の選択にかかっています」
「今後の選択……?」
「そうです。エゴイルは、常に私たちに選択を迫っています」
「どうやって?」
「囁きかけるんです」
「どんなことを?」
「〈言い訳〉です」
「うーん……」と私は頭をひねった。「それは、いわゆる悪魔の囁きみたいなものなの?」
「ええ、ただし悪魔の声色ではなく、あなた自身の声音で語りかけてきます。あたかも、あなた自身が抱いた思いであるかのように。例えば、〈今日は気分が乗らないから明日やろう〉なんていう典型的な言い逃れは、本来あなたが抱いた思いではありません。あなたが現実を逃避するように仕向けた、エゴイルの誘惑なんです」
「何の得があってエゴイルは俺たちを誘惑するんだろう?」
「私たちが現実を逃避すると、その分だけエゴイルは成長する。つまり、私たちの自欺がエゴイルの養分なんです。自己欺瞞を重ねているうちに、雪だるま式に膨れ上がったエゴイルは、最終的に私たちの精神を乗っ取ってしまいます」
 ネジだ、と私は思った。ネジが緩むロジックを、彼女は自分の言葉で語ろうとしているのだ。
「私は、エゴイル感染こそが原罪の正体だと思っています」と蛯原蜜子はいきなり話を飛躍させた。
「原罪って……」と私は頭の中の引き出しの中をまさぐった。「あの原罪?」
「ええ、あの原罪です。アダムとイヴが食べた禁断の果実は、知恵の実ではなくエゴイルの実だった。――そうすれば説明がつくんです。神は、〈死にたくなければ、この実を食べてはならない〉とアダムとイヴに言いましたよね。なぜ知恵の実を食べたら死ぬのでしょう? 善悪を知ったから? 善悪を知ったから死ぬというのは、腑に落ちません。確かに彼らは知恵の実を食べた結果、楽園から追放され、〈死〉に晒されるようになりました。でも、それは間接的な要因です。禁断の果実は、それ自体によって死を助長するものでなければならない」
「確かに。あそこは何か曖昧だよね」
「中村さんもご存じの通り、〈死〉自体は、サタンが九重の門を開いたときに地獄から解き放たれてしまいました。以来〈死〉は、私たちの足元に絶えずつきまとう影として、常に私たちと共にあります。そして、私たちを浸食してやろうと、虎視眈々と隙を窺っているんです」
 思わず私は、殺戮の槍を振りかざしている影の姿を頭に思い浮かべた。
 蛯原蜜子は、ワインを一口飲んだ。そして、カウンターの奥のほう、ボトルが並べられたバックバーを見つめながら再び口を開いた。「医学生時代に嫌というほどレントゲン写真を見せられて思いました。これは影――つまり〈死〉――による浸食なんだ、って。レントゲンには、体内の悪い部分が白い影となって顕れるんです」
 私は、シャウカステンが発する白い光に照らし出されたレントゲン写真を思い浮かべた。「なるほど……」
「〈魚は頭から腐る〉ということわざのとおり、私たちもまた、文字通り頭から腐ります。大概の人間は、幼少期にエゴイルを発症し、精神をエゴイルに乗っ取られたまま、身体だけが大きくなっていきます。エゴイルが捏造する都合の良い認識や記憶によって、迷妄の霧に覆われた私たちは、放逸ほういつ放埒ほうらつ放漫ほうまんな生活に溺れ、心と体の繋がりを自ら断ち切り、影の浸食を――いわゆる、生活習慣病も含めた病全般を――誘発します。おおよそのところ、人はこのパターンで死ぬんです。その他の死因……例えば事故死にしても同じことです。〈ちょっとぐらいならいいだろう〉とか〈誰も見ていないからいいだろう〉とか、〈まぁ、いいか〉などというエゴイルの口車に乗った私たちは、何もかもを面倒臭がり、ここかしこに影のブービートラップ――つまり不注意――をばらまいた結果、〈自分でまいた影〉もくしは〈他人がまいた影〉にひっかかって死にます」
「みっちゃんが〈死〉の絵ばかり描いていた理由がよく分かったよ」と言って私は破顔した。
「ごめんなさい。何だか私ばっかり話してしまいました」と言った蛯原蜜子の頬が赤く染まった。「つい夢中になってしまって……」
「いや、いいんだ。気にしないで」
 蛯原蜜子が私の方に向き直って言った。「実は最近、次の連作を描いているんです」
 私も彼女の方に身を乗り出した。「今度は、どんな作品なの?」
「今は、私の『失楽園』を描いています。いろいろな矛盾点を私なりに解釈し直した……」と言って蛯原蜜子は天井を見上げた。
 私の脳裏に『失楽園』の挿絵が浮かんだ。「ギュスターヴ・ドレの挿絵みたいな感じ?」
「ええ、まさにそんな感じです」
「その作品の中では、きっとアダムとイヴがエゴイルの実を食べるんだね?」
「ええ、そうなんです」と言って蛯原蜜子は嬉しそうに目を輝かせた。

 蛯原蜜子をホテルまで送り届けると、私は一人で夜の繁華街をあてもなく歩き回った。先刻のバーで聞いた彼女の言葉が、頭にこびりついて離れなかった。
 ――土気色の顔色をして、口から血を垂れ流して、両手をだらりと前に伸ばして、ボロボロになった服を着て、ふらふらと彷徨い歩いているだけの生ける屍――
 私もゾンビの一員だ、と私は思った。自分を取り巻く環境に責任を転換して、私はネジを緩めてしまった。気づいていながら、気づかないふりをしてきたのだ。――彼らと同じく。
 すれ違ったサラリーマンたちのいかにも侘しそうな後ろ姿に、私は自分自身の姿を重ね合わせていた。
 蛯原蜜子は、周囲の状況がどうであろうと、自身のネジを決して緩めず、私には思い及ばなかった「ネジがなぜ緩むのか?」という根源的な問いの答えまで導き出し、更にその過程を芸術に昇華させようとしている。私がやるべきだったことを、彼女は実際にやっているのだ。
 脱走者を追尾するサーチライトのような満月の光に、絶えずつけ回されているような居心地の悪さを感じていた私は、足早に大通りに出た。そして、右手を挙げてタクシーを呼び止めた。

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