見出し画像

小説『EGOILL』Chapter.6

六、イカロス

 月光のサーチライトから逃れるように帰宅した私は、ベッドの下からギター・ケースを引っ張り出した。蓋の上に積もった埃を払いのけ、ロックを外して蓋を開けると、サンバースト・カラーのフェンダー・ジャガーが姿を現した。
 ボディに入った無数の傷を見た私の脳裏に、大学時代の練習の日々が彷彿として甦った。タバコの臭いが染みついたスタジオの内部で、一心不乱にギターを弾いていたあの頃、私と仲間たちの周囲には、吸い殻があふれ返った灰皿と、空になったウイスキー・ボトルがいつも取り散らかっていた。
 私は、懐かしき青春のひとこまを頭から追い払うと、壁際に設置しているスチールラックの前まで椅子を持ち運んだ。四段あるラックの棚のうち、下から数えて二段目の棚に三十ワットのマーシャル・アンプを載せている。アンプとジャガーをシールド・ケーブルで繋いでから、私は椅子に腰掛けた。ヘッドフォンをアンプに接続し、イヤーパッドを両耳にあてがう。アンプの電源スイッチを入れると、「ヴォォン」というポップノイズが走った。通電したギターを介して、体内に電流が流れ込んでくるような錯覚がいつも心地よい。
 私は、お決まりの運指練習を一通りこなしてから、帰宅途中に夜空から降ってきた新曲のメロディを模索し始めた。まるでトランプの神経衰弱のように、頭の中で鳴り響く音と実際のギターの音とを、一音一音照らし合わせていくのである。
 全ての音が合致したところで、ジャガーをスタンドに立てかけた。椅子を離れて書き物机についた私は、引き出しの中から一冊の大学ノートを取り出した。万年筆のキャップを外して、それを尻軸に差し込むと、私はノートの空白ページに素早くペン先を走らせた。新曲のタイトルは『イカロス』にしよう、とタクシーの中で決めていた。

 「なりたくなかったものにだけ なってしまった今
  思考回路を停止させて このまま生きていくのか?
  炉端の幸福に甘んじて 満足しているのかい?
  思考回路を停止させて このまま生きていくのか?

 *そうだ こっちへ来いよ すぐに楽にしてやるぜ
  そうだ こっちへ来いよ すぐに楽にしてやるぜ

 ☆蝋で固めた翼広げ 空高く飛び立った
  僕は全てを見つめ 否定してやる
  蝋で固めた翼広げ 空高く飛び立った
  僕は全てを見つめ 否定してやる

  今日もタイムカード打刻して 明日もまた繰り返して
  思考回路を停止させて このまま生きていくのか?
  やるべきことから目を逸らして 逃げたのは自分なのに
  限界だ、なんて斜に構えて このまま生きていくのか?

 (*繰り返し)

 (☆繰り返し)

  僕は落ちる落ちるために 必死こいて羽ばたく
  ここでしか自分に 出逢えないから
  イカロスよ僕の侘しい背中に宿れ
  僕は全てを許し そして愛す

  なりたくなかったものにだけ……」

 再びジャガーの元に戻った私は、大学ノートを傍らに置いて、歌詞を口ずさみながらギターを弾いた。何度も何度も繰り返し演奏しているうちに、私はその曲がニルヴァーナの『You know you're right』にどことなく似ているということに気がついた(私のロック史上、不動の一位の座に君臨し続けている『You know you're right』は、終盤に炸裂するカート・コバーンのシャウトが印象的な一曲である)。私は、『You know~』へのオマージュとして、『イカロス』のギターアレンジをそれらしく――しかし、他人にそれと気付かせない程度に――少しだけ変更した。
 ある程度曲が固まると、私はベッドの下からズームの八トラックMTR(マルチトラックレコーダー)を運び出し、デモテープの作成を開始した。
 作業が一段落したところで、私はデジタル式の置き時計に目をやった。時刻は既に午前五時半を回っていた。まったく、何ていう一日だ。私は、そのまま倒れ込むようにしてベッドの上に横になった。

 私は、〈語る会〉の翌日からバンド活動再開に向けて行動を開始した。
 前々から「いつか一緒にやろう」と声をかけ合っていた会社の同僚、凄腕ベーシストの磯野勝男いそのまさお(通称、磯ピー)を喫茶店に呼び出して、『イカロス』を吹き込んだCDRを差し出した。磯Pは、「いよいよですね」と言って、そのCDRを受け取ってくれた。
 以来、私と磯ピーは、足繁くレンタルスタジオに通うようになった。やがて、ギター兼ボーカルとベースの音合わせだけでは物足りなくなった私たちは、スタジオの掲示板を利用してドラマーを募集することにした。
 バンドを結成するにあたって、いつも一番苦労するのがドラマー探しである。リズム隊の要であるドラマーは、野球でいうところのキャッチャーのようなポジションで、地味で目立たないけれど、チームの勝敗を直接的に左右する重要な役割を担っている。ドラマーが上手ければ曲はきりっと引き締まるし、ドラマーが下手だと曲はだらりと間延びしてしまう。だが、少年野球において、みんながサードやショートをやりたがるのと同じように、ロックを志す者の大半は、ボーカルやギターをやりたがるものなのである。
 そういった訳で、募集の貼り紙を出したとはいえ、そう簡単にドラマーが見つかる筈がないし、例え見つかったとしても、その人が腕の立つドラマーである確率は極めて低い、と私は思っていた。長期戦を覚悟しなければならない、と。
 そんな私の懸念をよそに、自称ドラマーの男から、「スタジオの張り紙を見て連絡しました~」と、こちらが拍子抜けするほど明るい調子で電話がかかってきたのは、募集を出してから僅か三日後のことであった。早々に候補者が見つかったのはいいけれど、まぁ、どうせ大した腕じゃないんだろう、と私は高をくくっていた。
 その週末、私と磯ピーは、いつもの貸しスタジオで自称ドラマーの男と落ち合った。男は、溝部了みぞべりょうと名乗った。挨拶もそこそこに、さっそく溝氏の演奏を披露してもらうことになった。私は猜疑の目をもって溝氏のセッティングの様子を眺めていた。が、次の瞬間、私の危惧はあっけなく杞憂と化した。溝氏が演奏を開始した途端に、私は度肝を抜かれていた。そのテクニックとパワーは、私がかつて出会ったことのあるドラマーの中でも、一、二を争うものであった。私は即座に、「バンドに加わってほしい」と溝氏に申し出た。すると溝氏は、「いいっすよ~」と、何の屈託もない様子で、私の申し出を快諾してくれた。
 このようにして、何の苦もなく、トントン拍子に〈The Amaranthus(ジ・アマラントス)〉は結成された(アマラントスとは、永遠に枯れない花、不凋花ふちょうかのことを指す。蛯原蜜子にちなんで、ミルトンの『失楽園』の中から拝借した)。以降、我々三人は、週に二回の頻度でスタジオに集合して練習に精を出した。
 私は、曲のレパートリーを増やすべく、それまで緩んでいた自身のネジをきつく締め直し、日常のあらゆる変化を見逃さないように、精神を針のように鋭く研ぎ澄ました。自身の心の内奥に澱む、思わず目を覆いたくなるような醜悪さを、精神の針の先で根気よく刺し続けていれば、やがてその醜悪さは蒸発して雲になり、いずれ詩やメロディの雨となる。
 大抵の場合、詩とメロディの雨は、それぞればらばらに降ってくる。が、『イカロス』のときのように、同時に降って来ることも稀にある。いずれにせよ、降ってきたときにすぐにそれと気づき、うまく捉えられるかどうか、がポイントである(過去にどれだけ多くの小説を読み、どれだけ多くの音楽を聞いてきたか、が成功率を左右する)。
 あるときはお風呂に入っている最中に、またあるときは食事中に、またあるときは車の運転中に、時と場所をわきまえず、突如として空から降ってくる詩やメロディを、携帯電話に吹き込んでいる私の姿は、傍目にはさぞかし奇妙な光景として映ったに違いない。
 録れたての詩を料理するのは、私にとってはお手のものであった。が、メロディの取り扱いには、いつも苦労させられた。うまくメロディをさばけないときには、私は伝家の宝刀――ジョン・レノン方式――を使った。即ち、「自分が口ずさみたくなるようなメロディは、他人にとっても口ずさみたくなるようなメロディなんだ。」というジョンの言葉に則って、降ってきたメロディをしばらく心の内に留めておき、ふとした瞬間にそのメロディを私が口ずさめば採用、口ずさまなければ不採用、という具合にメロディをふるいにかけていたのである。
 セルフ鍼治療はりちりょうを一カ月間続けた成果として、私は新たに四曲を紡ぎ出した。『イカロス』を含む計五曲の演奏を、メンバーの二人と共にみっちりと体に叩き込む傍ら、いよいよ私は地元のライブハウスとの出演交渉を開始した。

 アマラントスとしての初ライブを翌月に控えたある日、蛯原蜜子から「来月、一年ぶりに個展を開催する予定です」という知らせを受けた。
 半年ぶりに彼女に会えるかもしれない、と私は一瞬喜んだものの、ライブとの日程の兼ね合いが気になった。もちろん、私がバンド活動を再開したということは、蛯原蜜子にはおくびにも出していなかったので(正確には、おこがましくてとても言い出すことができなかった、と表現したほうがいいかもしれない)、彼女が私の都合を知らないのも無理はなかった。
 蛯原蜜子からのメールによると、彼女の個展は八月二十七日(木)から九月十七日(木)まで――つまり三週間――開催されるらしかった。ライブ直前の最終練習日は八月二十六日(水)だし、ライブ本番は八月二十九日(土)であったので、日程的には何の問題もなかった。私は、「是非、伺います」と彼女にメールをうった。個展と言うからには、彼女はその場にいないかもしれない。が、初日に行けば彼女と出会う確率が高まるかもしれない。私は、有給休暇をとって初日に行こう、と決意した。

👇 続きはこちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?