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ヤンウェンリーの平和主義の矛盾と欺瞞(ぎまん)?ヤンは本当に矛盾していて嘘を言っていたのか。

ここ数年、ネットを見ていると銀英伝への評価も変わってきていると思いました。
ヤンに対しては「矛盾している」「口で言ってることとやってることが違う」とバックラッシュ(後から批判)が起きているのです。

ヤン・ウェンリーは一流の戦略家であるだけでは無くて、ユリアンへの父性愛や人生哲学や生きざまに憧れた人も居たでしょう。
帝国派だけどヤンは好きだし尊敬するって人は多かったです。

しかし近年、ヤンが嫌いだ、矛盾している、反戦を主張しながら結局は戦争をしている、結局は同盟政府やトリューニヒト政権に加担している。
という批判が多くなってきました。
私がヤンが好きだから擁護してるのではなくて、果たして本当にそうなのか考察したいと思います。

①ヤンは反戦主義者なのか?

そもそもヤン・ウェンリーは軍隊や戦争を全否定していたのでしょうか?
彼は結局は軍人だったし、いざ戦場となれば敵にも容赦はしませんでした。
「いかに効率的に味方を死なせるか」が戦争の肝心だと本人も言ってます。

そして作中でも「戦争を熱狂から実行するような愚かな政府を、選挙で合法的に選ぶ国民の浅はかさ」に嘆いていても、「戦争そのもの」を嘆いてるわけではないのです。
(戦争は人類の原罪だと諦めているようにも思える)
平和とは次の戦争までの休戦期間に過ぎない、という言葉があるようにヤンにとっても戦争は残虐な悲劇だが起きてしまうという認識だったと思います。

②ヤンにとっての平和とは「成熟した議論に基づく理性的民主主義」が継承されること

ヤンが考えていた平和とななんでしょうか?
それは戦争が無い事、では無かったと思います。
ヤンは言いました。
「戦争を始めるときは、命より大切なものがあると言う。だが戦争を止める時には、命より大切なものは無いと言う。人類はいつまでそれを繰り返すのか」と。
戦争を古代から続けて来た人類への嘆きです。
ではヤンは命より大切なものは無いと考えていたのでしょうか?
戦争より悪いものは無いと考えたのでしょうか?

私は否だと思います。結局はヤンも「命よりも大切な理念がある」と思っていたと思います。
それは「成熟した議論と情報公開、自己批判によってもたらされた理性的民主主義」だったと思います。
それを継承するためなら剣を抜くことは彼は価値があると考えたでしょう。

ヤンは「国家(つまり権力者)を守るための戦争」は愚かで無価値だと思ってましたが、理性的民主主義の理念を継承させるための戦争ならやるべきだと考えていたのです。

③理想化された「平和主義者ヤンウェンリー像」を私たちは持っていないだろうか

ヤン・ウェンリーは矛盾していた、口で言ってる事とやってることが違うだとか、ヤンは冷笑主義、偽善者だと言われる風潮について考えたいと思います。

私たちはこうあって欲しいと言う願望としてヤンウェンリー像を期待していないかという事です。

ヤンはポピュリストで保身的なトリューニヒトや、軍国主義者のラインハルトとは違う。ヤンは、権力や国家を否定して、あきれるようなしつこい平和主義と反戦を貫いた・・・。
と勝手に「そうあって欲しい」と思っていないかという事です。

しかしヤンの行動を見ると「戦わないという事は賢く尊いが、それでも愚かな戦いをしてでも守り抜きたいものがあった」と私は解釈しています。
ヤンは確かに「戦争を止められない人類の愚かさ」を嘆いても、戦争や軍隊そのものは否定していないのです。
やはりヤンは、命よりも大切なものがある、と思っていたのではないでしょうか。

ヤンは基本的に艦隊戦以外では、自己中心的で、気まぐれで、ちょっとずるいという、私たちを同じ普通の人だったのでは無いでしょうか?
ラインハルトが天才なら、ヤンは「秀才のオタク」というイメージです。

④もしも歴史書「銀河英雄伝説」が帝国史観のものなら?

もしも歴史書「銀河英雄伝説」とは古事記や日本書紀のように政治的な目的もあって(国家の正当化)書かれていたならば、ヤン・ウェンリーは意図的に反戦・平和主義者であるように強調されていたのではないでしょうか。

ここではあえて「ユリアン史観」説を前提に話します。
銀河帝国で立憲君主制が採用されたとします。
そこで、立憲帝国としての銀河帝国は2つのルーツ(国体のラインハルトと立憲主義のヤン)を持っていたと仮定します。

するとヤンウェンリーは非暴力と非戦に徹していたとイメージが広がった方が帝国政府としては都合がいいでしょう。
そうすれば民主主義のために武装蜂起や暴力革命を実行する人々が生まれにくくなります。
仮に「民主共和国」の成立を目指す、共和過激派のような人らが現れても「ヤン・ウェンリー先生は、国家の為の戦いを馬鹿げていると言い、戦争に反対していた。君らテロリストはヤン先生の教えに反してるぞ」と言えるからです。
また自由惑星同盟の再建を目指す運動をあらかじめ防ぐためにも、トリューニヒトは徹底的に嫌な奴に強調されて、ヤンはアナーキー(反体制)だったと強調されるでしょう。

まとめ 私たちはヤンを偶像化(ぐうぞうか)していないだろうか?

歴史上の人物はしばしば、理想化されて「彼ならこういうはずだ」と期待値を高めてしまいます。
そして「イメージと史実が違った!」と成って勝手に失望したり、その人を嘘つき扱いする事があります。

「イエス・キリストは平和主義で平等主義者だった。」
(実際には、実家はユダ族の金持ちで「私は分断(別翻訳では戦火)を起こすために来た」と言っている)

「織田信長は革命児で常識に囚われなかった」
(実際には朝廷や室町幕府と一定の調和や配慮をしていた)

「ナポレオンはフランス革命の英雄で進歩的だった」
(実際には政治面ではフランス革命政権(民主独裁)を否定して、フランス帝国を樹立。人民の皇帝を名乗る。軍事面では近代陸軍の父と呼ばれた。)

「昭和天皇は大東亜戦争に反対していたが、一部の軍部が暴走して戦争になった」
(実際には昭和天皇も大東亜共栄圏には肯定的だった。)

このように歴史上の人物や英雄に対して「こうあって欲しい」という勝手な期待やイメージを持っています。
坂本龍馬や西郷隆盛なんかもそうですね。

西郷隆盛に至っては当時の価値観や道徳水準からしてもテ○○○トだと私は思います(^▽^;) (好きな人はごめんなさいね!)

ヤンウェンリーに対する批判は、一部のファンがヤンを「反戦の哲人」「平和主義者」として過剰に持ち上げすぎた為に起きてる気がしないでもない、、、。
私はそう考えてます。


参考 ユリアン史観とは?




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