「太陽の塔」のヘビーリピーターです。
映画の「太陽の塔」というドキュメンタリーをヘビーリピートしている。
過去に鑑賞記録を残しているのだが、
ここ数週で、何度観たかわからない。
「太陽の塔」
1970年の大阪万博で披露された岡本太郎の作品で、丹下健三の大屋根に穴を開けてまで建てられた代物である。
その後、他のパビリオンは全て撤去されたものの、太陽の塔だけはそこに残り続けた。
作品の中では、取り残されて寂しそうとか、孤独に立ち続けている、見守っていくれている、とか言われていた。
太陽の塔はなぜ現在まで残り続けたのか。
簡単に言えば、多くの人が撤去を望まなかったからだ。
京都府宇治市や東京では撤去反対の署名活動があり、第2回万国博施設処理委員会が開かれた3カ月後、存続が正式に決まった。
数多くのパビリオンが取り壊されていく中で、太陽の塔だけが残っているというのは日本にとっても希望の象徴としてこれからも大事にされていくべきだと思った。
その理由としては、我々が人間らしく生きていくために、そして定められた死に向けての時間を全うするために、常に立ち返ってマインドセットできる唯一のものであると思うからだ。
すでに多くの人に愛され、その存在を知らない人の方が少ないと言っても過言ではないくらいのものであるとは思うが、その存在の意味、建設された背景に関しては知らない人も多いと思う。
そんな太陽の塔の全てがこの作品には詰まっている。
より岡本太郎のことを知りたくなるし、沖縄やアイヌなどの縄文を由来とする文化、縄文そのものへの関心にもつながる。
太陽の塔は何度も立ち返る場所
岡本太郎や、太陽の塔の存在は私たちが今直面するさまざまな問題、課題に対して問いを投げかけてくるように感じる。
そういう時に、私たちは何ができるのか。
東日本の震災の時直面した問題に対して、私たちは目を背けてきていたのかもしれない。忘れよう忘れようとしてきたのかもしれない。
今何で原発の再稼働の可否を議論してるんだっけ?
あれ、東日本、チェルノブイリ、忘れようとしてない?
でも私たちには関係ない?文字が書ける、絵が描ける、写真、映像が撮れる、いろんな方法があるんだよな。。
金にならないかもしれない。意味はないかもしれない。社会なんて変えられないのかもしれない。
極端に言えば、芸術は芸術家がやるものではない。むしろ一般市民が積極的に行われて然るべきだ。
太陽の塔に立ち返って、自分の中の縄文人をたぎらせて生きていくことに力を注ぎたいものだ。